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第十四話『君の名前を呼ぶ』

永遠に続くかと思われた、悲しみの黄昏。

その世界の中心、静寂に支配されたテニスコートの中央に、相田和人は、一人、静かに立っていた。

彼の背後には、彼を、この、あまりにも脆く、不確かな現実世界に繋ぎ止めるための、四つの、確かな錨。麗奈、猛、蓮、そして、亜里沙。彼らはもう、何も言わない。ただ、自分たちの持てる全ての信頼と、祈りと、そして、友情を、和人の、その、決して大きくはない、しかし、今は、何よりも、頼もしく見える、背中に、注いでいた。

和人は、ゆっくりと、目を閉じた。

彼の周囲を、世界の終わりを告げるかのような、重く、冷たい、沈黙が支配していた。しかし、彼の心の中は、不思議なほど、静かだった。恐怖はない。迷いもない。

これまでの、全ての出会いと、別れが、彼の、血肉となっていた。ピアノの少女が教えてくれた、純粋な愛情。野球部のエースが教えてくれた、未来を託す、希望。図書館の検閲官が教えてくれた、独りよがりな正義の、危うさ。河原の、小さな男の子が、その、存在そのもので、教えてくれた、どうしようもない、悲しみに、寄り添うことの意味。そして、響泉ホールの、如月小夜子が、その、絶望で、教えてくれた、届かない言葉の、痛み。

その全てが、今の、彼を、作っていた。

彼は、もう、ただの、平穏を愛する、傍観者ではない。

彼は、自らの魂の扉を、その、全てを、静かに、そして、完全に、開け放った。

「―――聞かせて」

彼は、誰に言うでもなく、ただ、この、悲しみに満ちた、世界そのものに、そう、囁いた。

「あなたの、物語を。あなたの、長い、長い、時間の、全てを」

次の瞬間、和人の意識は、奔流に、飲み込まれた。

それは、時間という、巨大で、抗いようのない、川を、その、源流へと、遡っていく、壮絶で、そして、あまりにも、切ない、魂の旅だった。

最初に、彼が見たのは、炎だった。

いや、それは、炎ではない。飢えと、寒さに、震える、大勢の村人たちが、掲げる、松明の、揺れる、光の群れだ。

季節は、冬。肌を、切り裂くような、冷たい、風が、吹き荒れている。痩せこけた、顔、顔、顔。その、全ての瞳が、絶望と、そして、ほんのわずかな、最後の希望をたたえて、丘の上の、一点に、注がれている。

その視線の先にいるのは、一人の、若い、巫女だった。

白い、簡素な衣を身に纏い、長く、艶やかな黒髪を、一本の、麻の紐で、束ねている。彼女の顔は、驚くほど、穏やかだった。恐怖も、悲しみも、そこにはない。ただ、深い、深い、慈愛だけが、まるで、後光のように、彼女の、全身から、放たれていた。

(ああ、これが、静さん…)

和人の意識は、完全に、彼女と、同化していた。

彼は、彼女の目で、世界を見ていた。終わらない、雨。氾濫する、川。腐っていく、作物。飢えに苦しむ村人たち。病に倒れる子供たち。その、全ての痛みが、まるで自分の痛みのように、彼の心を、締め付けた。

彼女は、丘の頂上にある、小さな、苔むした祠の前で、静かに膝をついた。そして、凍てついた大地に、その白い額をこすりつけるようにして、祈りを捧げた。

『―――我が、鎮守の、神よ。我が、愛する、この土地よ。どうか、この、か弱き、我が身と、引き換えに。この、愛しき、人々に、恵みを、お与えください…』

それは、自己犠牲などという、大げさなものではなかった。

ただ、ひたすらな、愛。

この土地と、そこに生きる全てのものへの、母が、我が子を思うような、絶対的で、そして、無償の、愛だった。

彼女の意識が、遠のいていく。冷たい大地に、その魂が、じんわりと、溶けていく。最後に彼女が見たのは、自分を見つめる、村人たちの、涙に濡れた、感謝の顔だった。

次に、和人が感じたのは、長い、長い、時間の流れだった。

彼は、静、そのものになっていた。

彼は、この丘の一本の木になり、一輪の野の花になり、一匹の虫になった。

彼は、この土地の、全てだった。

春には、麓の村に桜が咲き誇るのを見た。人々の喜びの声が、風に乗って、彼の魂を優しく撫でた。

夏には、豊かな水が田畑を潤し、青々とした稲が風にそよぐのを、飽きることなく、感じていた。

秋には、黄金色の稲穂が、感謝の祈りと共に、刈り取られ、人々が、収穫を祝う、祭りの、賑やかな、笛の音が、聞こえた。

冬には、全てが、白い、静かな、雪に覆われ、人々が、静かに身を寄せ合い、次の、春を待つのを、ただ、ひたすらに、見守った。

彼は、何十年、何百年もの間、この土地を、守り続けていた。

人々の誕生を祝福し、その成長を喜び、そして、その、穏やかな、死を、静かに悼んだ。

彼は、一人だった。しかし、決して、孤独ではなかった。

この土地と、そこに生きる全てが、彼の家族であり、彼自身だったからだ。彼は、その、永遠に続くかのような、穏やかな時間に、心から、満ち足りていた。

しかし、その、穏やかな時間は、ある時から、少しずつ、その姿を変えていく。

麓の村が、大きくなり、やがて、町になった。

茅葺屋根の家々は、瓦屋根の家へと変わり、そして、いつしか、見たこともない、高く、四角い、無機質な、建物が、並ぶようになった。

人々の暮らしは、豊かになった。しかし、彼らはもう、丘の上の鎮守の杜に、祈りを捧げに来ることは、なくなった。

祭りの笛の音は、遠い、車の、騒音に、かき消され、祠に手向けられる野の花も、いつしか、途絶えた。

静は、戸惑っていた。

自分が、慈しみ、守ってきた、可愛い、子供たちが、いつの間にか、自分の方を、振り向いてくれなくなった、母親のような、寂しさ。

そして、その寂しさは、やがて、深い、深い、孤独へと、変わっていった。

自分は、忘れられてしまったのではないか。

自分の存在は、もう、誰にも、必要とされていないのではないか。

数百年の、静かで、しかし、確かな、孤独が、彼女の、清らかだった、魂を、少しずつ、少しずつ、蝕んでいく。

そして、決定的な、悲劇が、訪れる。

まず、百年前。

彼女の愛した、鎮守の杜は、切り拓かれ、そこに、大きな、学び舎が建てられた。それは、まだ、よかった。子供たちの、賑やかな、声が、聞こえるのは、彼女にとって、喜びでもあったからだ。

しかし、一年前。

あの、全てを、破壊する、音が、やってきた。

鉄の、巨大な、塊が、木々を、なぎ倒し、地面を、容赦なく、えぐっていく。

そして、彼女の、魂の、唯一の、拠り所であった、あの、小さな、石の祠が、まるで、ただの邪魔な石ころででもあるかのように、無神経な、鉄の腕によって、いとも簡単に、掘り起こされた。

その瞬間、彼女の、心は、砕けた。

それは、怒りではなかった。

ただ、ひたすらな、悲しみ。

愛していた我が子に、その存在を、完全に忘れ去られ、そして、自分の、心そのものを、無造作に、踏みつけられてしまった、母親の、絶望。

彼女の、その、あまりにも巨大で、あまりにも純粋な悲しみが、堰を切ったように溢れ出し、この土地全体を、この学校全体を、永遠の黄昏の中に、沈めてしまったのだ。

和人の意識は、現実へと、引き戻された。

彼の頬を、熱い涙が、とめどなく流れ落ちていた。

それは、もはや彼の涙ではなかった。静の、数百年分の、孤独と、悲しみの涙だった。

彼は今、全てを理解した。

彼女の痛みを、苦しみを、そして、その深い、深い、愛を。

和人は、涙を拭うこともせず、目の前の、何もない、しかし、確かに彼女の気配が最も強く感じられる空間を、まっすぐに見つめた。

もう、迷いはなかった。

今こそ、彼が果たすべき役割を、果たす時だ。

彼は、震える唇を開き、そして、言った。

その声は、決して大きくはなかった。しかし、この歪んだ世界の隅々にまで染み渡るような、優しく、そして、力強い響きを持っていた。

「あなたは、ただの、守り神じゃない」

その言葉に、黄昏の空が、わずかに揺れた。

「あなたは、ただの、伝説なんかじゃない」

風が、止んだ。世界から、音が消えた。

「あなたの、名前は」

和人は、そこで一度、息を吸い込んだ。

そして、全ての敬意と、親愛と、そして、心からの感謝を込めて、その、忘れ去られた、本当の、名を、呼んだ。

「―――静さん。あなたは、如月静、という、一人の、心優しい、人間だ」

その、瞬間。

世界が、変わった。

彼を押しつぶさんばかりだった、あの巨大な悲しみの圧力が、ふっと、春の雪解けのように、消え去っていく。

永遠に続くかと思われた、悲しみの黄昏が、ゆっくりと、その帳を下ろし始める。空の、オレンジと紫の絵の具が、深い、深い、夜の藍色へと、溶けていく。

そして、目の前の空間が、水面のように揺らぎ、そこから、ゆっくりと、光の粒子が集まり始めた。

光は、やがて、一人の人間の形を、結んでいく。

そこに立っていたのは、白い巫女の衣を身に纏った、一人の、美しい少女だった。

その長く、艶やかな黒髪は、戻ってきた、夜風に、静かにそよいでいる。

彼女は、もう、悲しんではいなかった。

その顔は、穏やかで、そして、全てを許すかのような、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。

彼女の、澄み切った瞳から、一筋だけ、透明な雫が、こぼれ落ちた。

それは、悲しみの涙ではなかった。

数百年もの間、誰にも気づかれず、忘れ去られていた、自分の存在を、自分の名前を、ようやく、見つけ出し、呼んでくれた、一人の、優しい少年への、心からの、感謝の涙だった。

彼女は、何も言わなかった。

しかし、その微笑みと、その一粒の涙が、何よりも雄弁に、彼女の気持ちを、伝えていた。

『―――ありがとう』と。

そして、彼女の美しい姿は、ふわり、と崩れ始めた。

無数の、温かい、金色の光の粒子となって。

その光の粒子は、天に昇るでもなく、地獄に落ちるでもなく、まるで、春の雪解け水が、乾いた大地に染み込んでいくように、優しく、そして、穏やかに、この学校の、土地の隅々へと、広がっていった。

木々へ。校舎へ。グラウンドへ。

彼女は、ようやく、本当の意味で、この、彼女が愛した土地と、一つになれたのだ。

彼女の、長かった、あまりにも長かった、孤独な役目は、今、終わりを告げた。

空には、いつの間にか、穏やかな三日月と、無数の星々が、瞬いていた。

世界は、元の、静かな夜の姿を、取り戻していた。

和人は、その場に、ゆっくりと、崩れ落ちた。

魂の全てを使い果たしたかのような、深い、深い疲労感。しかし、不思議と、心は、春の、陽だまりのように、温かく、そして、晴れやかだった。

仲間たちが、彼の元へ、駆け寄ってくる。

「和人君!」

「相田先輩!」

彼らは、ボロボロに疲れ果てた和人の身体を、優しく、そして、力強く、支えた。

彼らは、勝ったのだ。

力ではなく、優しさで。

排除ではなく、理解で。

一つの、忘れ去られた魂を、救うことができたのだ。

その確かな事実が、五人の心を、温かい光で満たしていた。

彼らが、立ち去ろうとした、その時。

亜里沙が、小さな声を上げた。

「あ…!」

彼女が指さす、その先。

テニスコートの、すぐ脇の、固い、地面から、一本の、可憐な、白い、百合の花が、まるで、月光を浴びて、咲き誇るかように、静かに、そして、気高く、その顔を、覗かせていた。

それは、静の魂が、最後に、彼らに残していった、小さな、小さな、感謝の、贈り物なのかもしれなかった。

五人は、その、奇跡のような光景を、ただ、黙って、見つめていた。

彼らの、長く、そして、困難な戦いは、今、確かに、終わりを告げたのだ。


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