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第十三話『巫女の悲しみ』

 全ての謎の答えにたどり着いてから、数日が過ぎた。

 オカルト研究会の部室には、以前とは明らかに違う、静かで、そして、極度に張り詰めた空気が満ちていた。それはまるで、大きな手術を目前に控えた執刀医たちの控室のような、プロフェッショナルな緊張感だった。彼らはもう、ただの高校生ではない。自分たちが、この町の、そして、この学校の、穏やかな日常を守るための、最後の、そして、唯一の、防衛線であることを、深く自覚してしまったのだ。

 ホワイトボードの中央に、麗奈の、震える手で記された、『静』という一文字。

 その、たった一つの漢字が、まるで、小さなブラックホールのように、部室内の全ての光も、音も、彼らの、浅はかな、思考さえも、静かに、そして、容赦なく、吸い込んでしまっているかのようだった。

 世界の異変に、最初に明確な形で気づいたのは、やはり、相田和人だった。

 その日の昼休み、彼は、いつものように屋上へと続く階段の踊り場で、文庫本を読んでいた。そこは、彼の、お気に入りの、聖域。生徒たちの喧騒から切り離された、静かで、穏やかな場所のはずだった。

 しかし、その日、彼は、感じていた。空気が、重い。

 まるで、ゆっくりと、ぬるま湯の中に、沈んでいくような、全身にまとわりつく、湿った、重圧感。音が、遠い。すぐ下の階から聞こえてくるはずの、生徒たちの賑やかな笑い声が、まるで、何枚もの分厚いガラスの向こう側から聞こえてくるかのように、くぐもって、不鮮明に響く。

 そして、光。

 窓から差し込む夏の強い日差しが、なぜか、その力強さを失っていた。まるで、夕暮れ時の弱々しい光のように、頼りなく、そして、どこか物悲しい色をしていた。

 世界から、ゆっくりと、ゆっくりと、生命力が、その色彩が、吸い取られていく。そんな、確かな、感覚。

 和人は、読んでいた本を閉じ、立ち上がった。

(…始まったのか)

 彼の魂が、静かに、しかし、確かに、覚悟を決めていた。

 異変は、午後になると、さらに顕著になった。

 授業中の教師たちが、頻繁に言葉に詰まる。ベテランの、古文の教師が、「えー、この、枕草子の、次の、一節は…えーっと…なんだっけかな…」と、今、自分が何を話していたのか、本気で、忘れてしまうのだ。

 廊下を歩く生徒たちの足取りは、まるで、足に、見えない、鉛の、重りを、つけられているかのように、重い。その表情からは、生気が失われ、誰もが、何をするのも億劫で、ただ、ぼんやりと、窓の外の、色褪せた、景色を眺めている。

 学校全体が、まるで、原因不明の、熱に浮かされた、病人のように、深く、そして、重い、抗いようのない、倦怠感に、包まれていた。

 それは、暴力的な変化ではない。もっと、ずっと静かで、そして、抗いようのない、侵食。

 まるで、真綿で首をゆっくりと絞められていくような、穏やかで、しかし、確実な、世界の死。

「…静さんの、悲しみが、溢れ出してきてる…!」

 放課後、部室に集まった麗奈が、青ざめた顔で言った。

「彼女の、数百年分の孤独と絶望が、この学校の空間そのものを侵食し、彼女の心象風景で、世界を塗り替えようとしているのよ…!」

「どうすりゃいいんだよ…! このままじゃ、学校中の奴らが、みんな、生きたまま、ミイラになっちまうぜ!」

 猛が、焦燥に駆られたように叫ぶ。

 その時だった。

 部室の、窓の外の景色が、ぐにゃり、と、夏の陽炎のように、大きく、歪んだ。

 彼らがいるのは、校舎の三階のはずなのに。窓の外には、地面が、すぐそこにある。いや、地面ではない。そこには、鬱蒼とした、見たこともない、原生林が、どこまでも、広がっていた。太古の森。その、濃い、生命力に満ちた、緑の匂いが、確かに、鼻腔をくすぐった。

「時空が、混線してる…!」

 麗奈が、悲鳴に近い声を上げる。

「静さんの記憶の中の古い景色が、今の現実の景色に、オーバーラップし始めてるんだわ…!」

 彼らは、決意した。もう、待っている時間はない。

 全ての始まりの場所へ。あの、テニスコートへ、行かなければならない。

 五人が部室を飛び出し、廊下を走る。

 しかし、学校の景色は、もはや彼らの知っているものではなかった。

 廊下は、どこまでも長く、そして、ねじ曲がって見える。窓の外には、太古の森が広がっているかと思えば、次の窓の外には、江戸時代の、茅葺屋根の家々が、夕靄の中に、沈んでいたりする。

 現実と幻が、まだらに混じり合い、世界は、悪夢の、シュールな、コラージュのように、その姿を変えていた。

 そして、空。

 空は、いつの間にか、完全に、あの、彼は誰時かわたれどきの色に、染まっていた。

 太陽は、沈みきってはいない。しかし、その光は、弱々しく、世界は、オレンジと、紫が、悲しく、混じり合った、永遠の黄昏に、閉ざされていた。

 この学校全体が、一つの巨大な結界と化してしまっていたのだ。静さんの、悲しみそのもので作られた、誰一人、逃れることのできない、魂の牢獄に。

 息を切らし、彼らが、ようやく、テニスコートの脇にたどり着いた時。

 そこに、一人の、先客がいた。

「…やはり、来たか。愚かで、そして、哀れな、子供たちよ」

 九条だった。

 彼は、いつもの、黒いスーツを身に纏い、まるで、最初からそこにいたかのように、静かに立っていた。

「これほどの、大規模な霊的災害は、私も、初めて経験する。どうやら、君たちが突っついた巣は、私の想像を、はるかに超える代物だったらしいな」

 彼の顔には、いつもの傲慢な余裕はない。ただ、目の前の異常事態に対する、専門家としての厳しい緊張感だけが浮かんでいた。

「だが、これも、想定の範囲内だ。原因が特定できた以上、あとは、それを、除去するだけだ。下がっていろ。プロの、本当の仕事を、見せてやる」

 彼はそう言うと、アタッシュケースから、あの、銀色のロッドと、黒いデバイスを取り出した。

「待って!」

 麗奈が叫んだ。

「彼女は、あなたが響泉ホールでやったような、やり方で、どうにかなる相手じゃない! 彼女は、悪霊なんかじゃ…!」

「黙れ、素人が」

 九条は、冷たく言い放った。

「それが悪霊だろうが、土地神だろうが、やることは同じだ。我々の世界の秩序を乱す、バグは、全て、駆除し、削除する。それが、私の流儀だ」

 彼はもう、麗奈たちに目もくれず、テニスコートの中央へと歩みを進めていく。

 そして、彼は、前回よりもさらに大規模な、そして、強力な儀式を開始した。

 設置されたロッドが、凄まじい光を放ち、天を突くほどの、巨大な光の柱となって、この黄昏の世界を白く染め上げる。

「システム、最大起動! 全エネルギーを、霊的震源地へ集中! 対象を、その存在領域ごと、完全に、蒸発させる!」

 九条の絶叫と共に、天を突く光の柱はさらにその輝きを増し、一本の巨大な神の槍となって、地面の一点へと、突き刺さった。

 凄まじい轟音と衝撃。

 世界が、白く、染まる。

 誰もが、これで終わりだと、思った。

 あまりにも強大な、あまりにも暴力的な、力の行使。

 どんな存在も、これに耐えられるはずがない、と。

 しかし。

 光が収まった時、そこに広がっていたのは、絶望的な光景だった。

 テニスコートは、無傷だった。

 いや、それどころか、九条の放った渾身の浄化エネルギーは、まるで乾いた砂漠に注がれた一滴の水のように、何の影響も与えることなく、ただ、地面に吸い込まれて消えてしまっていたのだ。

 そして、地面から、ゆっくりと、陽炎のように、立ち上ってくる。

 それは、怒りではなかった。憎しみでもなかった。

 ただ、ひたすらに、深く、そして、巨大な、悲しみ、そのものだった。

「な…に…?」

 九条の顔から、初めて、血の気が引いた。

「私の力が…通じない、だと…? ありえない…! こんな、エネルギー量が、存在するなど…!」

 彼は、信じられないというように、自分のデバイスと、目の前の空間を、交互に見つめた。

 その、彼の動揺を見透かしたかのように。

 静さんの悲しみが、優しく、そして、無慈悲に、彼を包み込んだ。

 それは、攻撃ではなかった。ただ、彼女の数百年分の孤独と悲しみが、津波のように、彼の魂へと、流れ込んでいっただけだ。

「あ…ああ…ああああ…」

 九条は、頭を抱え、その場に膝をついた。

 彼の、常に冷静で、分析的だった頭脳は、今、理解不能な、そして、処理不可能な、あまりにも巨大な感情の情報量によって、完全にパンクしていた。

 彼は、生まれて初めて知ったのだ。自分がこれまでデータとして処理し、害虫として駆除してきた、霊という存在の、その魂の、本当の重さを。

「…ありえない…こんな、悲しみなど…人が、耐えられるものでは、ない…! これは、もはや、霊などではない…神だ…土地、そのものの、慟哭だ…!」

 彼の傲慢なプライドは、粉々に砕け散った。

 彼の信じてきた「力」という哲学は、この巨大な悲しみの前では、全く、無力だった。

 彼は、戦うことすらできずに、ただ、敗北した。

「…やはり、そうか」

 和人は、静かに呟いた。

 彼には、わかっていた。力ずくでは、何も解決しないことを。

 九条が敗れた今、もう、誰もいない。

 自分たちしか、いないのだ。この巨大な悲しみに、向き合えるのは。

 仲間たちが、彼の周りに集まってきた。

 彼らの表情には、恐怖と、絶望の色が浮かんでいる。しかし、それ以上に、強い、覚悟の光が宿っていた。

「…行くぞ」

 和人は、言った。

 彼は、もう、迷ってはいなかった。

 彼が、この力を授かった意味。彼が、この仲間たちと出会った意味。

 その、全ての答えが、今、目の前にある。

 麗奈が頷く。猛が拳を握る。蓮が静かに目を閉じる。亜里沙が、彼の服の袖を、ぎゅっと掴む。

 彼らはもう、和人を一人では行かせない。

 和人は、その仲間たちの温かい想いを背中に感じながら、ゆっくりと、テニスコートの中央へと歩みを進めていく。

 そこは、もはや、ただのテニスコートではない。

 一つの、忘れ去られた神の、魂の中心。

 世界の悲しみが、全て、集まる、聖域。

 彼は、そこで立ち止まり、天を仰いだ。

 永遠に続くかのような、美しい、しかし、悲しい、黄昏の空を。

 そして、彼は、語りかける準備を始めた。

 彼の、人生の全てを賭けた、最後の、そして、最大の対話が、今、始まろうとしていた。


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