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第十二話『すべての始まりの場所』

 麗奈の告白が、凍てついていた彼らの時間を、静かに溶かし始めた。

 あの雨上がりの翌日、月曜日の放課後。オカルト研究会の部室に差し込む西日は、やけに穏やかで、部屋の中を漂う無数の塵を、金色にきらめかせていた。そこにはもう、先週まで支配していた、重く、澱んだ、出口のないトンネルのような空気はなかった。代わりに、嵐が過ぎ去った後の朝のような、静かで、澄み渡った、そして、どこか厳粛なまでの覚悟に満ちた、新しい空気が流れていた。

 彼らは、一つの大きな痛みを分かち合ったことで、ただの友人や仲間ではない、もっと、深く、根源的な部分で結ばれた、一つの共同体へと変貌を遂げていたのだ。

 猛は、もうトレーニングと称して騒々しく動き回ることはなかった。彼は、麗奈が淹れた、少しぬるいインスタントコーヒーを、慣れない手つきで啜りながら、亜里沙がパソコンの画面に表示する、日本各地の結界や護符の複雑な文様を、真剣な眼差しで食い入るように見つめている。「なあ、亜里沙。この、神社の鳥居ってやつも、要するに、野球でいうホームベースみたいなもんなのか? こっから先は、俺たちの神聖な領域だぞ、みたいな」その解釈は相変わらずだったが、彼の声には、仲間から何かを学び取ろうとする、真摯な響きがあった。

 蓮は、どこからか、一輪の、白い百合の花を持ってきた。それを、空き瓶に生けて、窓辺にそっと置く。百合の、清らかで、少しだけ甘い香りが、埃っぽい部室の空気を、まるで教会のように、清浄なものへと変えていく。「砕かれた魂には、まず、手向けの花を。それが、僕なりの流儀なんでね」彼の言葉には、いつもの浮世離れした響きの中に、確かな優しさが込められていた。

 亜里沙の指は、静かに、しかし、休むことなくキーボードの上を舞っていた。彼女は、これまでの事件の記録を、ただ事実としてデータベース化するだけではない。それぞれの霊が抱えていた感情の種類…『悲しみ』『執着』『憎悪』『絶望』…などを、心理学の専門書を参照しながら細かくタグ付けし、分類するという、新しい試みを始めていた。それは、彼女なりの、二度と同じ過ちを繰り返さないための、知性による魂への寄り添い方だった。

 そして、相田和人。

 彼は、ソファの定位置で、静かに文庫本を読んでいた。しかし、その意識は、本の世界だけにはなかった。仲間たちの、その健気で真摯な姿を、その間に流れる、言葉にはならない、温かい空気の機微を、彼は、その全身で、感じ取っていた。響泉ホールで砕かれた彼の心は、この、仲間たちの優しさという、見えない接着剤によって、一つ、一つ、丁寧に拾い集められ、ゆっくりと、しかし確実に、その元の形を取り戻そうとしていた。

 その、穏やかな均衡を破ったのは、やはり、部長の西園寺麗奈だった。

 彼女は、ホワイトボードの前に立つと、一度、仲間たちの顔を、一人、一人、見渡し、そして、決意を秘めた声で言った。

「―――全ての謎を、解き明かす時が来たわ」

 彼女は、ホワイトボードに、マジックで、巨大な、そして、力強い、クエスチョンマークを一つ描いた。

「私、ずっと考えていたの。全ての始まりは、何だったのか、って。私たちが、これまで関わってきた、数々の怪異。それらは、本当に、バラバラの、独立した事件だったのかしら?」

 彼女は、ペンを走らせ、事件のキーワードを、次々と、線で結んでいく。

「ピアノの霊、野球部のエース、開かずの部室の住人、蓮君のドッペルゲンガー、そして、響泉ホールの如月小夜子…。一見、何の関連性もない。でも、その発生時期と、エネルギーの規模には、奇妙な、相関関係が見られる。まるで、小さな地震の後、それに誘発されて、各地の火山が、次々と、噴火を始めるみたいに」

「そして、何よりも、最大の謎は…」

 彼女は、和人の方をまっすぐに見つめた。

「どうして、和人君の、その力は、『今』、この、タイミングで、目覚めたのか。あなたの、その、あまりにも、繊細な、魂の扉を、無理やり、こじ開けた、何か、巨大な、きっかけが、あったはずなの。それは、きっと、全ての事件の、引き金となっている、巨大な、エネルギーの発生源…いわば、霊的な震源地エピセンターが、この町の、どこかに、存在する、ということじゃないかしら」

 麗奈の言葉は、もはや仮説ではなかった。それは、数多の事象を繋ぎ合わせた、揺るぎない、一つの結論だった。

 彼女のその言葉を合図に、オカルト研究会の、本当の意味での最初の、そして、最大の共同作業が、静かに、しかし、確かに、幕を開けた。

 それは、まるで、失われた古代文明の謎に挑む、考古学者のチームのような、地道で、そして、知的な探求の日々だった。

 調査は、麗奈と亜里沙の、二人の驚異的な頭脳が、エンジンとなって進められた。

「学校の創立は、ちょうど百年前。大正十二年ね。でも、そのさらに前から、この土地には、人々の生活があったはず。私たちはまず、その、百年の歴史の、さらに、深い、深い、地層を、掘り起こさなければならないわ」

 麗奈の司令の元、亜里沙は、情報の、深く、そして、広大な、大海原へと、その小さな身を投じた。

 彼女は、もはや、ただの物静かな女子高生ではなかった。彼女は、神がかった、デジタルの巫女だった。その細く、白い指は、キーボードの上を、まるで見たこともない高速の舞を舞うかのように滑り、そして、踊る。普通の検索エンジンでは決して検索結果に表示されない、学術論文の専門データベース、県の公文書館が管理する電子化された古文書、国立国会図書館の膨大なデジタルコレクション、果ては、地元の郷土史家が個人でひっそりと運営している、時代遅れの、しかし、情熱に満ちたウェブサイトまで。彼女は、光の速さで情報の海を泳ぎ、その膨大なデータの中から、必要な一滴の真実を、まるで、砂金でも見つけ出すかのように、正確に掬い上げていく。

 猛と蓮も、ただ遊んでいるわけではなかった。

「亜里沙! 図書館の郷土資料室に、江戸時代の、この辺りの村の様子が書かれた、かなりデカい古地図があるらしいんだけどよ、マイクロフィルムでしか、閲覧できないみたいだ! 俺、行って、この目に、焼き付けてくらあ!」

「蓮君! 町役場の、資産税課に、私の、母方の祖母の、遠い親戚のツテがあるの! もしかしたら、明治時代の、この辺りの土地の、古い、登記簿を、特別に見せてもらえるかもしれないわ! あなたの、その、無駄に、貴族的なオーラと、不思議なカリスマ性で、なんとか、お願いしてみて!」

 彼らは、麗奈の的確な指示の元、自分たちにしかできない、物理的な役割を果たすために、部室を誇らしげに飛び出していった。

 和人は、その仲間たちの、それぞれの場所で、それぞれの武器を使って戦う、熱気に満ちた姿を、眩しいような、そして、少しだけ誇らしいような気持ちで、眺めていた。

 彼は、直接的な調査はできない。しかし、彼には、彼だけの、そして、彼にしかできない、重要な役割があった。

「…和人君、この資料を、見てみてくれる?」

 亜里沙が、パソコンの画面を彼の方へ向けた。そこに表示されているのは、江戸時代の中期、天明の大飢饉の際に、この地を襲ったという、大洪水と、それに続く、深刻な食糧難に関する、古文書の記録だった。

 和人は、その、無機質な、現代語訳された文字の羅列に、じっと目を落とした。

 その瞬間。

 彼の心の奥底に、ずしり、と、まるで鉛の塊でも飲み込んだかのような、重く、そして、冷たい感覚が広がった。それは、まるで、何日も何も食べられずに、飢え、そして、凍え、死んでいった、名もなき多くの人々の、声なき慟哭の集合体のようだった。彼は、舌の奥に、泥水の、ざらりとした、味さえ、感じていた。

「…こっちだ」

 和人は、確信を持って呟いた。

「この時代だ。この時代の、この辺りの記録を、もっと、深く、調べてみてくれ。何かがある。すごく、重くて、そして、どうしようもなく、悲しい何かが、この土地の記憶に、深く、刻まれてる…」

 彼の、その魂の羅針盤が、仲間たちの困難な調査の航路を、確かに、照らし出していたのだ。

 そして、調査開始から五日目の、夕暮れ時。

 ついに、亜里沙が、その核心となる、一つの、忘れ去られた物語を、発見した。

 それは、学校の公式な歴史の中には決して記されてはいない。町の郷土史家が、個人のライフワークとして、四十年以上かけてまとめていた、この土地の民間伝承と、人々の口伝を集めた、今はもう更新の止まってしまった、古いブログの一つの記事だった。

 タイトルは、『鎮守の杜と、忘れられた巫女、しずの伝説』。

 その昔、今、和人たちが通うこの高校が建っている小高い丘は、麓の村の人々から、『鎮守の杜』として、崇められ、そして、同時に、恐れられていたのだという。

 江戸時代、天明の頃。この地を、未曾有の大洪水と、それに続く長く、厳しい大飢饉が襲った。多くの村人が飢え、病に倒れ、土地は荒れ果て、人々は希望を失いかけていた。

 その時、村人たちを、そして、この土地そのものを救うために、一人の、若い、美しい巫女が、自ら、その身を、この土地の荒ぶる神へ捧げたのだという。

 いわゆる、「人柱」だった。

 彼女の、尊い犠牲によって、荒ぶる神は鎮まり、嵐は過ぎ去り、土地は再び、豊かな実りをもたらした。

 村人たちは、彼女の、その気高い魂を、この土地を未来永劫守り続ける、鎮守の神として、丘の一番、日当たりの良い、そして、見晴らしの良い場所に、小さな、しかし、立派な、石のほこらを建て、その全てに感謝を込めて、手厚く祀った。

 彼女の名前は、『しず』。

 人々が、この土地の平穏無事と静謐を、永遠に願って、付けた名前だった。

 彼女は、怨霊ではない。

 この土地を、そこに住む、名もなき人々を、ただ、ひたすらに、深く、深く、愛し、そして、数百年もの間、たった一人で、静かに、見守り続けてきた、孤独な、しかし、心優しい、守り神だったのだ。

「…そして、これを見てください」

 麗奈が、震える声で、別のファイルを、開いた。

 それは、今からちょうど一年前に作成された、学校の公式な、『創立百周年記念事業・再開発計画書』の、PDFファイルだった。

 その、何十ページにも及ぶ、無機質な資料の、隅の方に、まるで、取るに足らない、些細な事項であるかのように、こう、記されていただけだった。

『敷地北東部に存在する、所有者不明の、古い石祠については、テニスコート増設工事の障害となるため、関連法規に基づき、専門業者の指導のもと、敷地内の別の場所へ、丁重に移設処理を完了した』

 その、移設先の地図が示しているのは、学校の北側の、常に日影になっている、そして、粗大ゴミの捨て場所として使われている、あの、場所だった。

 パズルの、最後の、そして、最も、重要なピースが、音を立てて、はまった。

 部室に、重い、重い、そして、どうしようもないほどの、罪悪感に満ちた、沈黙が落ちる。

「…じゃあ、俺たちが、これまで、会ってきた、幽霊たちは…」

 猛が、呻く。

「そうよ」

 麗奈が、絞り出すように答えた。

「この土地の守り神である、静さんの、数百年の安息が、私たちの都合で、あまりにも無神経に、乱された。その、彼女の、深い、深い、絶望にも似た悲しみが、この土地全体の霊的なバランスを、完全に崩壊させたのよ。世界と世界の間のヴェールが、極端に薄くなって、これまで静かに眠っていた小さな霊たちが活性化し、そして…」

 彼女は、申し訳なさそうに、和人の方を見た。

「そして、和人君のような、潜在的な、強い能力を持った人間の、魂の扉を、無理やり、こじ開けてしまった。あなたは、全ての原因じゃなかった。あなたもまた、この、巨大で、そして、あまりにも身勝手な悲劇の、影響を受けた、一人の被害者だったのよ」

 彼らは、走った。

 全ての謎が一つに繋がった今、どうしても、確かめなければならない場所があった。

 計画書に記されていた、祠の、元の場所。

 そこは、彼らが、毎日、毎日、当たり前のように目にし、そして、通り過ぎていた、新しい、綺麗な、テニスコートの、すぐ脇の、何の変哲もない、ただの空間だった。

 しかし、そこに、足を踏み入れた、瞬間。

 和人は、立っていられなくなった。その場に、崩れるように、膝をついた。

 凄まじい、しかし、決して暴力的ではない、巨大なエネルギーの圧力が、彼の全身を、そして、魂を、直接、襲ったのだ。

 それは、響泉ホールの如月小夜子が放っていた、鋭利で、攻撃的で、他者を傷つけるための憎悪の圧力とは、全く、質の違うものだった。

 もっと、ずっと、巨大で、広大で、そして、どうしようもなく、悲しい圧力。

 まるで、光の届かない、深い、深い、海の底に、たった一人で、何百年も、沈み続けているかのような、圧倒的な、そして、永遠の孤独感。

 風の音が、もう、ただの風の音ではなかった。それは、まるで、一人の女性の、数百年分の、静かな、静かな、そして、終わることのない嗚咽のように、聞こえる。

 頬を撫でる、生ぬるい夏の空気が、まるで、彼女の、冷たく、そして、乾くことのない涙のように、感じられる。

 河原で感じた、あの小さな男の子の十年分の悲しみなど、まるで、広大な大海に浮かぶ、ほんの一滴の雫に過ぎなかったと、思えるほどの、途方もない、そして、神聖でさえある、古代の悲しみだった。

 和人の目から、彼の意志とは全く関係なく、熱い涙が、ぼろぼろと、止めどなく、溢れ落ちていた。

 彼は、この土地そのものの、魂の悲しみを、今、その身に、受けていたのだ。

 仲間たちもまた、その尋常ではない異変を感じ取っていた。

 彼らには、和人のように明確にはわからない。しかし、そこに立つだけで、胸が、理由もなく、張り裂けそうなほどの切なさがこみ上げてくる。理由もなく、目の奥がツン、と熱くなり、涙が滲んでくる。

 彼らは、和人の、苦しげな表情を見て、そして、この場の、あまりにも異常な空気を感じて、全てを理解した。

 彼らが、今、立っている、この、何の変哲もない、この場所こそが。

 全ての事件の、全ての悲劇の、始まりの場所なのだ、と。

 彼らは、もはや、学生の幽霊や、町の伝説を相手にしているのではない。

 この、学校が建つ、土地そのものの、人々に忘れ去られた、孤独な守り神の、深い、深い、魂の叫びに、真正面から、対峙しているのだ。

 彼らの、これまでの全ての戦いは、全て、この瞬間のための、練習試合に過ぎなかった。

 本当の戦いが、今、まさに、始まろうとしていた。

 部室へ戻った麗奈は、ホワイトボードに、これまで書き溜めてきた、全ての情報を、一言も残さず、綺麗に消した。

 そして、その、真っ白になったキャンバスの中央に、たった一言。

 彼女は、震える手で、その、忘れ去られた、しかし、決して忘れてはならない、巫女の名前を、確かに、記した。

『―――静』

 どうすれば、時間に忘れ去られた魂に、安らぎをもたらすことができるのか。

 どうすれば、誰も覚えていない、あまりにも身勝手な冒涜に、心からの謝罪をすることができるのか。

 彼らの、最後の、そして、最大の問いが、静かに、そして、あまりにも重く、そこに、掲げられていた。


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