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第十話『祓い屋の流儀』

 魂が砕かれるような絶望の夜から、三日が過ぎた。

 世界は何も変わらずに続いていた。しかし、オカルト研究会の部室だけは、まるで時間の流れから切り離されてしまったかのようだった。そこには、これまでにない重く、どうしようもないほどの無力感に満ちた沈黙が、まるで深い海の底の水圧のように満ち満ちていた。


 それは、近しく愛する誰かを突然失ってしまった者たちが集う、通夜の席に似ていた。誰もが口を開けば、そのあまりにも重い現実を認めてしまうのを恐れていた。だから誰も何も話さない。ただそこにいるだけだった。


 窓の外では、梅雨の冷たい雨がしとしとと降り続いている。窓ガラスを伝う無数の雨粒の筋が、まるでこの世界の涙のように見えた。


 猛はあれ以来、自慢の筋肉を誇示することも、仲間を鼓舞するような大声を張り上げることもなくなった。ただ窓の外の灰色の景色を、まるで見えない敵でもいるかのように険しい顔で睨みつけている。固く握りしめられた拳は、行き場のない怒りと無力感に小刻みに震えていた。


 蓮の、現実から常に数センチ浮遊しているかのようなポエティックな呟きも、今は完全に鳴りを潜めていた。彼は部室の隅で膝を抱え、ただじっと床の一点を見つめている。その美しい顔からは血の気が失せ、まるで精巧な石膏像のように表情がなかった。あの醜く救いのない、純粋な悪意と自己破壊の情念の嵐を目の当たりにして、彼の信じる「美」の世界は根底から揺さぶられてしまったのだ。


 亜里沙は自分のノートパソコンの画面に、響泉ホールの事件記事と如月小夜子の痛々しいほど美しいモノクロの写真を表示させたまま、指一本動かせずにいた。彼女の膨大な知識と冷静な分析力は、あのあまりにも理不尽で巨大な悲しみの前では何の役にも立たなかった。知識は時に無力だ。その厳しい現実を、彼女は今、痛感していた。


 そして、麗奈。

 彼女はリーダーとして必死に気丈に振る舞おうとしていたが、その顔色は誰よりも青ざめていた。彼女はこの三日間、ほとんど眠っていない。夜通し部室の膨大な蔵書を片っ端から読み漁っていたのだ。心理学、精神医学、宗教学、果ては理論物理学の専門書まで。何とかしてあの現象を、和人の身に起きた悲劇を理解するための論理的な手がかりを探していた。しかし、どのページをめくっても答えはどこにも書かれてはいなかった。彼女の自信の源であった知性と論理は、今や何の慰めにもならなかった。


 だが、この部屋で最も深く、そして致命的に傷ついていたのは、間違いなく相田和人だった。

 彼は部屋の隅にあるソファの一番奥で、分厚いウールの毛布にまるで胎児のように丸くくるまっていた。季節はじっとりと汗ばむほどの七月半ばだというのに。


 彼の目は焦点が合っていなかった。ただ虚空の一点だけを見つめている。時折、びくりと何かに怯える小動物のように身体を震わせる。誰もいないはずの部屋の隅に何かを見て、誰も立てていないはずの音を聞いているのだ。


 あの夜以来、彼は眠れていない。無理に目を閉じようとすると、瞼の裏であの紅蓮の炎が燃え盛る。耳を塞いでも、魂を直接削るような狂おしいバイオリンの音色と絶叫が、頭蓋の内側で鳴り響き続ける。


 猛が心配して買ってきた温かい肉まんを差し出しても、彼は「…焦げ臭い」と一言呟いて顔を背けた。蓮が彼を癒そうと静かなクラシックのレコードをかけようとすると、彼は耳を塞ぎ「やめてくれ…」と小さな声で呻いた。


 彼は、如月小夜子の五十年分の絶望と苦痛と憎悪を、そのあまりにも無防備で繊細な共感能力によって、一滴残らずその身に直接浴びてしまったのだ。彼の魂は今ズタズタに引き裂かれ、その破片が彼女の絶望の記憶と共に、彼の意識の中で永遠に再生され続けていた。


 仲間たちは何もできなかった。

 ただ代わる代わる彼のそばに寄り添い、彼がこれ以上自分自身の優しさによって壊れてしまわないよう、祈るような気持ちで見守ることしかできなかった。


 彼らの小さくも輝かしい成功の物語は、ここで完全かつ決定的に終わりを告げたのだと、誰もが絶望的な気持ちで感じていた。


 その日、部室の古びた引き戸が、静かだが有無を言わせぬ確かな存在感を持って、コンコン、と二度ノックされた。

 それは生徒が立てる音ではなかった。迷いも躊躇いも一切ない、極めて事務的なノックだった。

 麗奈がはっとしたように顔を上げ、返事をする間もなく扉は静かに開かれた。


 そこに立っていたのは、担任の気の弱い初老の教師だった。そして、その背後からぬっと一人の男が姿を現した。

 それは三十代前半くらいの見知らぬ男だった。


 背が高く、柳のようにしなやかな痩身。雨に濡れた夜のアスファルトをそのまま切り取って仕立てたかのような、完璧なシルエットの黒いスーツを、一分の隙もなく着こなしている。その手にはジュラルミン製と思われる、モダンで無機質なアタッシュケースが一つ提げられていた。切れ長の、冬の夜空の星のような冷たい知的な光を宿した瞳は、この混沌とした部室の中を、まるでCTスキャンでも撮るかのように一瞥した。


 その無感情な視線は、猛、蓮、亜里沙、そして麗奈を順に、まるで無価値な置物でも見るかのように舐め、最後にソファの上の毛布の塊に、ぴたりとメスのように鋭く固定された。


「――ほう。ここが汚染の発生源か」

 男は誰に言うでもなくそう呟いた。その声は、まるで絶対零度の氷のように冷たく、何の感情も含んでいなかった。

「君たちがオカルト研究会の諸君かね?」


「…あなたは、どちら様でしょうか?」

 麗奈が警戒心を最大限に高めながら、立ち上がって問い返した。


「私は九条くじょう。しがない祓い屋…いや、時代遅れな呼び名か。今風に言うなら、指定外霊的汚染物質の除去及び無害化を専門とする技術者、とでも言ったところかな」

 九条と名乗る男はそう言って、薄い唇の端をほんの数ミリだけ吊り上げた。それは笑顔というより、生物が獲物を前にして威嚇する際に剥き出しにする牙のようだった。


「響泉ホールの特級案件について少し耳にしてね。どうやら、君たちのような好奇心旺盛だが無知で無謀なアマチュア諸君が、禁忌の巣を不用意に突っつき、最悪の蜂を怒らせてしまった、と」

 彼の丁寧な言葉遣いの端々から、隠しきれない তীব্রい侮蔑の色が滲み出ていた。


「これは忠告だがね。子供のままごとは安全な砂場でだけやっておくべきだった。君たちが遊び半分で相手にしているものは、そのちっぽけで感傷的で脆い魂など、一瞬で喰らい尽くすほどの代物だ。そのソファで哀れに震えている彼のようにね」

 九条の冷たい視線が和人を射抜く。


「幸い、彼はまだ魂の中核まで完全に汚染されてはいないようだ。霊的なPTSDといったところか。だが、専門的な処置があと半日遅れれば廃人になっていただろう。これは君たちの無知と無謀が招いた、紛れもない人災だ」

 彼の言葉は一分の隙もない正論だった。そして正論だからこそ、それは鋭利なガラスの破片となって、麗奈たちの傷つき打ちのめされた心を容赦なく、そして徹底的に抉った。

 誰も何も言い返すことができなかった。


「まあいい。君たちのお遊びの尻拭いをするのも、我々プロの仕事の一つだ」

 九条はもはや彼らに興味を失ったかのように、静かに踵を返した。

「これから現場の本格的な除染作業に入る。君たちも来るといい。自分たちがどれほど危険で愚かな真似をしたのか、その目で確認するいい社会勉強になるだろう」

 彼の背中は、有無を言わせぬ絶対的で冷徹な自信に満ちていた。


 麗奈たちは悔しさと屈辱に唇を血が滲むほど噛み締めながらも、まるで見えない鋼鉄の鎖に引きずられるかのように、彼の後を追うしかなかった。


 夜の響泉ホール。

 雨はさらにその勢いを増していた。

 その絶望の気配は数日前よりもさらに濃密さを増し、もはや悪意そのものが意思を持って呼吸しているかのようだった。

 ホールの中からは、あの狂乱のバイオリンの音色と絶叫が、まるでこの世の終わりを告げる葬送曲のように途切れることなく鳴り響いている。


 しかし九条は、常人ならば一歩も近づけないはずの霊的圧力の暴風の中心へ、まるで自宅の静かな書斎を散歩するように平然と歩いていく。

 彼はステージがよく見える客席の中央で立ち止まると、持っていたジュラルミン製のアタッシュケースを静かに開いた。


 中に入っていたのは古風なお札や数珠ではなかった。

 それは、精緻な幾何学模様がレーザーで刻印された鈍いチタン製の数本のロッドと、掌にすっぽり収まるほどの黒曜石のように滑らかで黒いクリスタルのようなデバイスだった。


 彼はそのロッドを、ホール内のあらかじめ計算し尽くされた六つのポイントに次々と設置していく。

 そして最後に中央に立つと、黒いデバイスを起動させた。


 ブゥン、という低いが鼓膜の内側で直接響くような共鳴音が、ホール全体に響き渡った。

 設置されたチタン製のロッドが一斉に、手術室の無影灯のような冷たい青白い光を放ち、光の線が互いを高速で結び、ステージ全体を巨大な六角形の光の鳥籠のように完璧に包み込んだ。


「――システム起動。対象、クラスAレベル広域汚染型残存思念複合体、コードネーム『ヴァイオリニスト』。これより霊的汚染物質の完全除去プロセスを開始する」

 九条は、まるで工場の機械にコマンドを打ち込むかのように、冷たく淡々と告げた。


 そのあまりにも人工的で無機質な光に反応するように、ステージの上に、あの如月小夜子の霊が、これまでで最も鮮明で、最も凄まじい憎悪に満ちた姿で現れた。

『キサマ…ダレダ…ワタシノ聖ナル孤独ナ世界ヲ汚スナ…!』

 彼女の怒りの絶叫が、ホール全体を物理的に激しく揺るがした。


 しかし、九条は微動だにしない。

 彼はただ冷たい目で狂乱する霊を観察している。まるでシャーレの中の新種ウイルスを観察する科学者のように。

「第一フェーズ終了。対象の情念エネルギーの波長パターンを特定。第二フェーズへ移行。指向性浄化エネルギー、最大出力にて照射」


 九条がデバイスを軽く操作すると、光の鳥籠からさらに強力な、網膜を焼き切るかのような純白の光の奔流が迸り、ステージ上の小夜子の霊へと無慈悲に襲いかかった。

『ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!』

 それは悲しみの絶叫ではなかった。

 純粋に焼けるような、引き裂かれるような物理的な痛みに身を捩る、断末魔の悲鳴だった。

 彼女の不安定な霊体は、聖なる、しかし暴力的な光によって焼かれ、削られ、その存在そのものがまるでデジタルデータのように削除されていく。


 しかし、彼女の五十年分の怨念はそれだけでは消えなかった。

 彼女は最後のプライドを振り絞り、ホール全体を崩壊させるほどの強大な憎悪の衝撃波を放った。

 光の鳥籠が激しく明滅し、ガラスが割れるような甲高い悲鳴を上げた。


「…ほう。これほどのエネルギー量とは。事前の解析データを僅かに上回っているな」

 九条は初めてほんの少しだけ感心したように、しかしその目は一切笑わずに呟いた。

「だが、全て想定内の誤差の範囲だ。最終フェーズへ移行。対象霊体を、その記憶、情念、存在の痕跡ごと完全に封滅する」


 彼がデバイスの赤い光を放つ最後のボタンを、何の躊躇いもなく押し込んだ。

 その瞬間、光の鳥籠が極限まで収縮し、ステージ上の小夜子の霊を一点にブラックホールのように圧縮し閉じ込めた。

『イヤ…イヤアアアアアッ…! ワタシハ…ワタシノ音楽ハ…マダ…ワタシハ、マダ…!』


 最後の、言葉にならない悲痛な叫び。

 次の瞬間、光は音もなく閃光となって弾けた。

 あまりの眩しさに、麗奈たちは思わず腕で顔を覆った。


 やがて光が収まった時、ホールには、何一つ音のしない、何の気配も感情も存在しない、完全で恐ろしいほどの「無」が訪れていた。

 あれほどまでにこの空間に渦巻いていた憎悪も、悲しみも、絶望も、プライドも、その全ての感情が跡形もなく綺麗に消え去っていた。


 ステージの上にはもう誰もいない。

 ただ、雨漏りの水滴が床に落ちる、ぽつり、ぽつりという無機質な音だけが響いている。

 事件は完璧に「解決」したのだ。


 九条は額の汗を拭うことすらしなかった。

 彼は、まるで少し面倒な数式を解き終えた数学者のように、淡々と手際よく機材をアタッシュケースへ仕舞っていく。

 そして、恐怖と驚愕、そして言いようのない嫌悪感に立ち尽くす麗奈たちの方を振り向いて言った。


「これで、このエリアに蔓延していた霊的汚染源は完全に除去された。空間のエネルギー値も正常に安定した。君たちもいい勉強になっただろう」

 彼の言葉には何の感情も達成感も込められていなかった。


「これがプロの仕事だ。そして、これが力だ。感傷や同情、共感といった不合理で非効率な感情では世界は救えない。覚えておくがいい。そして二度と、自分たちの分をわきまえない愚かな真似はするな」

 彼はそれだけを言うと、麗奈たちにはもう一瞥もくれず、降りしきる雨の闇の中へと静かに去っていった。


 後に残されたのは、あまりにも静かになりすぎた廃墟のホールと、呆然と立ち尽くす五人の高校生だけだった。

 危険は去った。町は救われた。

 しかし、彼らの心に安堵も喜びも何一つ湧き上がってこなかった。

 そこにあるのは、何かかけがえのない大切なものを目の前で冷酷かつ暴力的に破壊されたかのような、深くどうしようもない虚しさと、心の奥底からじわじわと湧き上がる静かな怒りだけだった。


 部室へ戻る帰り道、誰も何も話さなかった。雨音がやけにうるさかった。


 やがて部室のソファに力なく座り込んだ猛が、絞り出すように言った。

「…終わった…んだよな? なのに…なんだよ、これ…。胸ん中が、空っぽで、寒くて、気持ち悪ぃ…」


「彼は彼女を救ったんじゃない」

 蓮が、静かだがはっきりとした嫌悪をその美しい声に滲ませて言った。

「彼は彼女を消したんだ。存在そのものをこの世界から、まるでエラーデータを削除するように。そこには何の詩も美しさも、魂の救済もなかった。ただ空虚で冷酷で無機質な暴力があっただけだ…」


「彼女の五十年の物語も、痛みも苦しみも、全部、全部なかったことにされちゃったんですね…」

 亜里沙が堪えきれず、ぽろぽろと涙をこぼしながら言った。


 その時だった。

 それまで毛布にくるまり、人形のように動かなかった和人が、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳にはまだ深い疲労の色が泥のように残っている。しかし、その奥の奥には以前とは明らかに違う、静かだが、まるで闇夜に灯された一本の蝋燭の炎のような、決して消えない確かな光が宿っていた。


 彼は仲間たちの顔を一人ひとり見つめると、弱々しいが誰にでも聞こえるはっきりとした声で言った。

「あれは…救いじゃない」

 その言葉に、全員がはっとしたように彼を見つめた。


「俺たちは負けた。俺の言葉は届かなかった。俺たちは何もできなかった。無力で惨めだった。でもな」

 和人はそこで一度言葉を切り、そして自らの魂に言い聞かせるように、確信を持って続けた。

「俺たちのあのどうしようもない、無様で惨めな敗北の方が、あんな空っぽで完璧で、そして残酷な勝利なんかよりずっと、ずっとマシだ」


 その言葉は、彼らオカルト研究会の新しく、そして本当の意味での始まりを告げる、雨音に決してかき消されない力強い宣誓のようだった。


 彼らの目的は、もはや単に怪異を解決することではない。

 届かないかもしれないそのか細い言葉を、それでも諦めずに届けようとし続けること。

 救えないかもしれないその頑なな魂に、それでも手を伸ばし続けること。

 そのあまりにも困難で不器用で、そして尊い自分たちの「流儀」を、この理不尽な世界で貫き通すこと。


 五人の心は今、初めて本当の意味で一つの揺るぎない意志となって、固く結ばれていた。

 彼らの本当の戦いは、まさにここから始まるのだ。

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