第一話『月夜の独奏会』
相田和人は、平凡という名の秩序を愛していた。
朝の教室を満たす、チョークの粉と微かな埃の匂い。
規則正しく並んだ机と椅子が作り出す、整然とした幾何学模様。
昼休み、中庭から聞こえてくる、遠い喧騒。
そのすべてが、予鈴のチャイムひとつで綺麗にリセットされる、予定調和の世界。
彼は、その他大勢の生徒Aとして、この管理された箱庭の中、誰の記憶にも深く刻まれることなく、卒業という名の大団円を迎えることを、自らの幸福だと定義していた。
波風ひとつない凪いだ水面。
それが彼の理想であり、守るべき日常だった。
その水面に、最初の小石が投げ込まれたのは、一週間ほど前のことだ。
最初は、脳が起こした些細なエラーだと思った。
世界が、時々、ほんのわずかに色褪せて見える。
彩度が落ちた古い写真のように。
人いきれのする廊下の真ん中に、そこだけ濡れた墨汁を擦り付けたような黒い染みが浮かぶ。
体育館の屋根の縁に、真夏のアスファルトから立ち上る陽炎のような、ゆらめく人影が佇んでいる。
(疲れてるんだな)
和人はそう結論付けた。睡眠不足は、脳の正常な情報処理を妨げる。
彼はそうやって、世界のバグを自らのコンディションのせいにして、かろうじて日常の体裁を保っていた。
だが、エラーは日に日に深刻さを増していった。
染みはより濃く、陽炎は明確な輪郭を持ち始めた。
そして昨日、ついに彼は直面してしまったのだ。
体育倉庫の裏で、得意げにタバコをふかす野球部員の背後。
古びたブロック塀に寄りかかるようにして、痩せこけた老人の霊が、じっとりとした羨望の視線を送っているのを。
その目は虚ろで、深く窪んでいた。
和人は、見なかったことにした。
野球部員にも、老人の霊にも気づかれぬよう、呼吸さえ止めて、静かにその場を通り過ぎた。
関わらない。
干渉しない。
それが彼の信条だ。
あれは、俺の日常に起きたバグではない。
バグそのものが、俺の日常を侵食し始めている。
その冷たい事実から、彼は必死に目を逸らした。
「――ねえねえ、相田君。もしかして、調子悪い?」
昼休み、前の席の女子が、くるりと振り返って話しかけてきた。
心配そうな顔をしている。
「いや、大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから」
和人は、作り笑顔で答える。
完璧な、その他大勢Aとしての返答。
「そっか。まあ、もうすぐテストだしね。無理しないでね」
「うん、ありがとう」
当たり障りのない会話。
彼女の背後で、テレビゲームのキャラクターのような、小さな緑色の何かがぴょんぴょんと跳ねているのが見えたが、和人はそれにも気づかないふりをした。
(大丈夫。俺はまだ、普通でいられる)
和人は祈るように、まだ半分以上残っているメロンパンを口に押し込んだ。
パサついたパンが、やけに喉に詰まる。
味がしない。
ただの、甘いカロリーの塊だった。
終業を告げるチャイムの音が、ガラス窓を震わせる。
和人にとって、それは一日という名の戦闘の終わりを告げる、安堵のファンファーレのはずだった。
鞄を掴み、逃げるように教室を出る。
廊下は、解放感に満ちた生徒たちの声と、無数の足音で満ちていた。
その喧騒の中を、和人は息を潜めるようにすり抜ける。
誰かの背後にある染みも、天井に張り付く蜘蛛のような影も、今はすべて無視をする。
大丈夫だ。
彼らは俺に興味がないし、俺も彼らに興味はない。
昇降口へ向かう中央階段を下りていた、まさにその時だった。
どこからか、ピアノの音が聞こえてきた。
それは、あまりにも清冽で、孤独な旋律だった。
ショパンの幻想即興曲。技術的な困難さを微塵も感じさせないその演奏は、磨き抜かれた黒曜石の上を、月の雫が転がり落ちていくかのように、完璧な静寂の中を滑っていく。
放課後の音楽室。
誰かが練習しているのだろう。
この学校には、コンクールを目指す優秀な生徒が何人かいる。
ありふれた光景だ。
和人は足を止めなかった。
むしろ、足を速めた。
美しい音楽は、人の心を惹きつける。
今の彼にとって、それは避けるべきリスクでしかなかった。
しかし、歩き続けているうちに、彼はその異常性に気づく。
音が、全く変化しないのだ。
昇降口へ向かって遠ざかっているはずなのに、音量が少しも減衰しない。
まるで、彼の耳元で、すぐそこで鳴り響いているかのように、同じ音圧を保ち続けている。
その音は、彼だけを選んで追いかけてくる、見えない狩人のようだった。
和人は、とうとう足を止めた。
踊り場の真ん中で、彼は動けなくなった。
背筋を、氷のように冷たい汗が流れ落ちる。
(関わるな)
頭の中で、最後の理性が悲鳴を上げる。
これは罠だ。
お前が踏み込んではいけない、世界の裏側への招待状だ。
それでも、足は勝手に、音のする方へと向きを変えていた。
一段、また一段と、帰り道とは逆方向の階段を上っていく。
自分の意志ではない。
まるで、見えない絹糸に手足を引き寄せられているかのように、身体が動く。
ピアノの音は、ますます明瞭になっていく。
悲しいくらいに美しく、美しいくらいに悲しい旋律。
その一音一音が、和人の心の扉を、鍵を壊してこじ開けようとしていた。
たどり着いたのは、特別棟の三階にある第一音楽室だった。
夕暮れの最後の光も届かない廊下は、シンと静まり返っている。
他の教室からは、何の物音もしない。
世界から切り離されたような、孤独な空間。
ピアノの音だけが、この分厚い扉の向こうから、飽和した水のように漏れ出してきていた。
和人は、乾いた喉をごくりと鳴らした。
扉の金属製のノブに手をかける。
覚悟していたはずなのに、その氷のような冷たさに心臓が跳ねた。
ゆっくりと、音を立てないように、扉を引く。
目に飛び込んできた光景に、和人は呼吸を忘れた。
広い音楽室の真ん中に、一台のグランドピアノが鎮座していた。
その黒い巨体は、大きな窓から差し込む月光を浴びて、濡れたように艶めかしく輝いている。
床に落ちた月の光は、まるでスポットライトのようだ。
鍵盤の上を、白い指が幻のように舞っていた。
その指の持ち主は、この学校の制服を着た、半透明の少女だった。
月光が彼女の身体を透かし、向こう側の窓枠の影がうっすらと見える。
長い髪を揺らし、一心不乱に鍵盤を叩いている。
彼女こそが、この世ならざる独奏会の主だった。
そして。
和人はもう一人、部屋の中にいる人影に気づいた。
ピアノのすぐそばの椅子に、一人の女生徒が腰かけていた。
彼女は演奏を邪魔しないように、ただ静かに、頬杖をついてその光景を眺めている。
月明かりが、その横顔を柔らかく縁取っていた。
艶やかな黒髪。
長い睫毛。
その瞳は、まるで貴重な研究対象を観察する学者のように、真剣な好奇心と、ほんの少しの切なさを湛えていた。
西園寺麗奈。
二年生で、常に学年トップの成績を維持し、そのモデルのような容姿で知られる、学校の有名人だ。
だが、彼女は決して孤高の存在ではなかった。
誰にでも分け隔てなく、明るく話しかける。
その人懐っこい笑顔と、時折見せる少し天然な言動から、男女問わず絶大な人気を誇っていた。
その彼女が、なぜ、こんな場所に?
和人が抱いた疑問に答えるように、麗奈がふと、彼の存在に気づいて顔を上げた。
射抜くような視線ではない。
むしろ、暗闇に慣れた猫が、新しい気配に気づいて、興味深そうに首を傾げるような、そんな自然な反応だった。
「あ、こんばんは」
彼女の声は、ピアノの音色に溶け込むような、優しく、親しみやすい響きだった。
「もしかして、あなたもピアノの音、聞こえちゃった感じ?」
彼女は悪戯っぽく片目をつむり、人差し指を口元に当てる。
「しーっ」というかのように。
その仕草には、秘密を共有する共犯者を見つけたような、弾むような喜びが感じられた。
「こんな時間にここに来るってことは、やっぱり、そうだよね?」
麗奈は椅子から立ち上がると、軽やかな足取りで和人に近づいてきた。
ふわりと、シャンプーの清潔な香りがする。
「〝見えてる〟でしょ? あそこで弾いてる、彼女のこと」
核心を突く言葉に、和人の心臓が大きく軋む。
肯定も、否定もできない。
ただ、凍り付いたように立ち尽くす彼を見て、麗奈は困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「だよねー、わかる。私も最初、そうだったもん。びっくりするよね」
彼女は、あっけらかんと言った。
「でも、大丈夫。私、こういうの専門だから。ちょっと見てて」
彼女はそう言うと、カバンをごそごそと漁り、取り出したのは一冊の分厚い本だった。
『世界の怪異と超常現象大全』と表紙にある。
「ふむふむ、記録によれば、特定の場所に留まる情念の集合体、いわゆる地縛霊は、強い執着がエネルギー源になってる、と。対話による解決が望ましいけど、それが困難な場合は、高周波音や純粋な指向性エネルギーによる干渉が有効なケースも…」
ぶつぶつと専門用語を呟きながら、今度はスマートフォンを取り出し、何かのアプリを起動した。
「よし、まずはアプリで生成した特殊な高周波音で、彼女の情念の波長に干渉してみるね。ちょっとだけ、耳塞いでた方がいいかも」
麗奈が画面をタップすると、人間には聞こえない、しかし空気がキーンと震えるような、不快な音が鳴り響いた。
その瞬間。
ピアノの音が、がしゃん、と不協和音を奏でた。
演奏していた少女が、びくりと肩を震わせ、苦しげに顔を歪める。
音楽室の空気が、水圧がかかったように、ずしりと重くなった。
窓が、カタカタカタ、と激しく震え始める。
「あ、あれ? おかしいな…理論上は、これで少し落ち着くはずなんだけど…」
麗奈は慌ててスマホの音を止めた。
彼女の顔には、焦りと、目の前の少女に対する純粋な心配の色が浮かんでいる。
「ご、ごめんね! 嫌だったよね? 大丈夫?」
彼女は、幽霊の少女に必死に話しかけるが、少女の悲しみは増すばかりだった。
「やめた方がいい」
和人は、ほとんど無意識に、言葉を発していた。
「え…?」
「それは、逆効果だ」
和人の静かな、しかし有無を言わせぬ響きを持った声に、麗奈は戸惑ったように彼を見つめた。
彼は、ゆっくりと幽霊の少女に歩み寄っていく。
カタカタという窓の震えが、彼の歩みに合わせて強くなる。
だが、和人は止まらない。
恐怖はない。
ただ、目の前で悲しみに暮れている存在がいる。
その事実だけが、彼の心を捉えていた。
ピアノのすぐそばまで来たところで、和人は立ち止まった。
少女は、もうピアノを弾いてはいなかった。
ただ、鍵盤の上に指を置き、俯いて、肩を震わせている。
声にならない嗚咽が、静かな音楽室に響いていた。
「もう一度、弾きたかった…」
か細い、消え入りそうな声。
「コンクールの舞台で…私のピアノを、みんなに聞いてほしかった…! それが叶わないなら、ここにいる意味なんて、ない…!」
少女の無念が、怨念となって空気を満たす。
びりびりと肌が痺れるような感覚。
麗奈が息をのむのが、和人の背後で聞こえた。
和人は、ただ静かに、その言葉が空間に溶けていくのを待っていた。
しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。
「そっか。弾きたかったんだね」
その声には、同情も、憐れみもなかった。
ただ、目の前の現実を、そのまま受け止める、穏やかな響きがあった。
「その、『こうじゃなきゃダメだ』って気持ちが、今、君をここに縛り付けている一番の鎖なのかもしれないね」
「…なに…?」
少女が、初めて顔を上げた。
涙に濡れた瞳が、和人を捉える。
「舞台に立ちたい。みんなに認められたい。その気持ちがすごく強くて、君はそれ以外のものを全部、見えなくしちゃってるんじゃないかな」
和人は、ピアノの木目を指でそっとなぞった。
「でもさ、その鎖って、君自身が作ったものだから、君自身で外すこともできるんだよ」
彼は続けた。
説教ではない。
ただ、目の前にあるもう一つの可能性を、そっと提示するように。
「少しだけ、思い出してみない? 君が、どうしてピアノを弾き始めたのか。コンクールのため? 誰かに褒めてもらうため? 多分、違うよね」
「……」
「ただ、好きだったんじゃないかな。鍵盤に触れるのが。指先から、綺麗な音が生まれるのが。誰のためでもなく、自分のためだけに弾いてた、最初の頃の気持ち。その時も、君はすごく、満たされていたはずだ」
少女の瞳が、大きく見開かれた。
彼女の脳裏に、遠い記憶が鮮やかに蘇る。
初めてピアノに触れた日。
指一本で、たどたどしく音を鳴らした時の、胸のときめき。難しい曲が弾けるようになった時の、純粋な喜び。誰に聞かせるでもなく、ただ夢中で、月の光が差し込む自分の部屋でピアノを弾いていた、あの夜。
そうだ。
私は、ただ、ピアノが好きだった。
音が、好きだったんだ。
舞台も、拍手も、その先にある結果に過ぎなかった。
私の始まりは、もっとずっと、ささやかで、個人的な喜びだったはずだ。
少女の半透明の身体から、まとわりついていた黒い靄のようなものが、すうっと音もなく消えていく。
頬を伝うのは、もう無念の涙ではなかった。解放と、安堵の涙だった。
「…そっか…私、そうだった…」
少女は、ふわりと微笑んだ。
それは、この音楽室で奏でられたどんな旋律よりも美しい、安らかな笑顔だった。
「ありがとう」
その言葉と共に、彼女の身体は、月光に溶けるように、きらきらとした無数の光の粒子となって、静かに消えていった。
後に残されたのは、完全な静寂と、床に落ちた麗奈の本。
そして、その奇跡のような光景を目の当たりにした西園寺麗奈と、早くこの場から立ち去りたい相田和人の二人だけだった。
「…………すごい」
しばらくの沈黙を破ったのは、麗奈だった。
彼女は、和人の元へ駆け寄ると、キラキラと輝く瞳で彼を見上げた。
その顔には、先程までの困惑はなく、純粋な感動と興奮が満ち溢れていた。
「今の、すごかった! すごいよ、相田君! どうやったの!? あれは、どんな理論に基づいているの? 共感性精神同調? それとも、残留思念への直接的意味介入!?」
矢継ぎ早に、しかし嬉々として問い詰めてくる麗奈に、和人は思わず一歩後ずさった。
「いや、別に、そういうのじゃ…」
「謙遜しないで! 私、ずっと探してたんだ! 私の知識と、あなたのその力があれば、きっと最強だよ!」
麗奈は、和人の両手を、ぐっと握りしめた。
その手は、驚くほど温かかった。
「単刀直入に言うね! お願い、私の部に入ってください!」
「え、部?」
「うん! オカルト研究会! 通称、オカ研! 部員は今のところ、私一人なんだけど…」
少し寂しそうに付け加える麗奈。
「でも、相田君が来てくれたら、今日から二人だね! これから、もっとたくさんの、声なき声を救いに行こうよ! それって、すっごく、ワクワクしない!?」
彼女の瞳には、一点の曇りもない。
純粋な善意と、探究心と、そしてようやく仲間を見つけたという、抑えきれない喜びが溢れていた。
脅迫めいた響きはどこにもない。
ただ、ひたむきな、まっすぐな願いだった。
だからこそ、和人は困ってしまった。
力ずくで来られた方が、よほど断りやすい。
こんな風に、期待に満ちたキラキラした目で見つめられては、「嫌だ」と突き放すことなんてできそうにない。
和人は、天を仰いだ。
どうして、こうなった。
ただ、平穏に過ごしたかっただけなのに。
目の前には、才色兼備の完璧超人であり、人懐っこすぎる情熱家が、子犬のように彼の返事を待っている。
彼の凪いだ水面のような日常は、もう元には戻らないだろう。
大きなため息を一つついて、和人は観念した。
「…わかったよ」
その言葉に、麗奈の顔が、ぱあっと満開の花のように輝いた。
「本当!? やったあ! これからよろしくね、相だ…いや、和人君って呼んでいい?」
「…まあ、好きにすれば」
「じゃあ、私のことも麗奈って呼んで! ね、和人君!」
「……。」
ぐいぐいと距離を詰めてくる麗奈に、和人はなすすべもなくされるがままになっていた。
こうして、相田和人の、全く望んでいない、非凡で、そして少々騒がしい日常が、その幕を開けたのだった。