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番犬と狐  作者: 汐越陽
8/19

8.

 日付の変わり目が近づいてくる。

 多くの異保官は碓氷の身辺調査に掛かり切りだった。足跡すら見つからない花山と違い、碓氷はそこら中に宝物の原石が転がっている状態だ。自宅、職場、携帯電話などの私物や人間関係に至るまで、丸裸も同然だった。花山に繋がる手掛かりはすぐに見つかると思われていた。

 捜査開始から十時間。掴めたものは何もなかった。ここまで捜査が難航するとは、誰一人として予想していなかった。

 ――一人を除いて。

 野崎はバインダーに目を落としながら、廊下を歩いていた。読んでいたのは、碓氷の個人情報に関する書類だった。無論、他の異保官たちと違って事件の捜査のためではない。

 このまま周囲を欺き続けることができるかと言われれば、おそらく無理だろう。今後も長期的にごまかしていくには、碓氷の協力が不可欠だった。だから、彼女を丸め込むために――あるいは利用するために、弱みを見つける必要があった。

 他の異保官とすれ違うたび、喉から心臓が飛び出しそうになる。ひょっとして、怪しまれているのではないか。もしかすると、ばれているかもしれない。いきなり指されて内通者呼ばわりされる光景が頭に浮かんだ。

 何事もなく通り過ぎていくと、これ以上ないくらいの安心感に包まれた。

 一人になりたかった。さもなくば心が持たない。

 野崎は休憩室に入った。電気を点けると、テーブルと椅子だけの質素な空間が露わになった。先客がいないことを確認し、ドアを閉めて鍵を掛けた。そのまま椅子にもたれかかる。口から大きな息が吐き出された。

 今日一日の疲れが、どっと押し寄せた。椅子に吸い込まれていると錯覚するほど身体が重い。心は安堵と罪悪感に引き裂かれそうだ。

 激しい運動後のような動悸と発汗。眩暈。全身が悲鳴を上げていた。

 頬を膨らまし、冷たい息を吐き出す。口を窄めて空気を吸い込む。何度か繰り返すうちに、身体は落ち着いていった。

 改めて、手元の資料に目をやる。一年間、畏怖の対象としてマークしてきたわけだが、そこに並んでいるのは知らないことばかりだった。九歳のとき、両親が暴力団関係者に殺害されたこと。七つ年の離れた兄がおり、安地組の内部捜査に一役買ったこと。その最中に暴力団組員に逆恨みされ、殺害されたこと。

 傲慢で独りよがりな人物だから、てっきり成功体験ばかりが続いているのかと思っていたが、違っていた。さらに読み進めようと、指先を舐めて紙をめくる。

 胸ポケットから振動を感じた。怪訝な目で胸元を見つめ、スマホを取り出す。

 知らない番号だった。香川の仲間だろうか? 躊躇いが生じ、通話に出ることができない。しかし、この手の電話は九割が花山とその関係者で、残る一割が営業電話だ。

 ――神経質になりすぎだ。

 野崎はおそるおそる応答アイコンに指を近づけ、思い切り押した。

『部下に濡れ衣を着せた感想を窺いたい』

野崎の頭は真っ白になった。相手は九割でも一割でもなく、さらには香川の仲間でもなかった。

 昨日、不動産屋に向かわせた碓氷の暗殺が失敗に終わり、男二人を連行することになったとき。ワイン色のTシャツ姿の男から、こう耳打ちされた。

「あの犬、狐とつるんでやがりますよ」

「狐?」

何を指しているのかわからなかった。男はそのまま護送車に連れていかれ、回答は得られなかった。

 今になって、ようやく思い出した。かつては扱う種類や専門の違う情報屋がたくさんあり、それぞれに因んだ動物名で呼び分けされていた――そう花山から教わった。

『狐っていう、有能なのが現れましてね。金は掛かるんですけど、正直奴一匹で足りるんですよ。そのうち市場も食い荒らされるんじゃないかな?』

事実、その通りになった。野崎がたった今までその呼び名を思い出せなかったことが証明している。

 野崎は不必要な笑みを必死に繕い、こう答えた。

「情報屋か? すっきりした。ここまで清々しい気分になったのは初めてだ」

『ほう? では、部下の死体を直接目の当たりにしたときも、清々しく思ったのか?』

途端に、野崎は唇を噛み締めた。力の入りすぎた顎が、プルプルと震え出す。

『まぁ、とっさに命を奪えるくらいだ。何も――』

「畜生が」

溜息のような声が零れた。相手が沈黙する。

「畜生めが!」

今度は怒鳴り声だった。勢いのまま、握っていたスマホをテーブルに叩きつけようとする。だが、すぐに思い留まり、振り上げていた腕をゆっくり下ろした。同時に頭が力なく俯かれる。

 テーブルに薄っすらと反射する顔は、悄然としていた。

 一息ついて、再びスマホを耳元に当てる。

「最低なことをした。車を爆発させた感触も、宿舎で見た中崎たちの死に顔も、血の匂いも、全部記憶にこびりついている。俺のせいでみんな死んだ。十字架なら死ぬまで背負っていくつもりだ」

 通話越しに、笑い声が聞こえてきた。悲しみに暮れていた野崎の顔に、たちまち苛立ちが浮かぶ。

「他人の懺悔がそんなに面白かったか?」

『失礼した、野崎異保官。目星がついていたとはいえ、花山の携帯に登録されていた【異保官さん】の特定があまりに早く済んだものでね』

 野崎の顔から、たちまち血の気が引いていく。

『おや、違っていたかな? てっきり現場にいた中では――』

「何の用があって連絡した?」

野崎が、焦燥交じりの声を潜めて訊ねた。

 わずかな沈黙があって、相手はこう告げた。

『直接会って話がしたい』

 絶対に応じてはいけない――野崎の親指が赤のアイコンを押そうとする。

『電話を切るつもりかね?』

動揺のあまり、その場で飛び上がった。弾みでスマホが手から転がり落ちる。野崎は慌てて拾い上げ、傷の有無を確かめた。画面にひびが入っていないことがわかり、ほっと息を吐いたも束の間、

『ご友人の連絡先は把握済みだ。そうだ、せっかくだから君の番号を手に入れたときの話でもしよう』

すぐに顔を強張らせ、危険物でも扱うようにスマホを耳まで運んだ。

「今度は何だよ……」

心の声が、泣きそうな呟き声となって外に出る。

『そちらのお仲間さんに化けて連絡先を確認していたんだが、ばれてしまってね』

もったいぶるような間が空く。野崎は息を飲んだ。

『殺されたよ。ガワだというのに、何の躊躇いもなかった』

 背筋が凍りついたのは、敵に憑依された仲間を躊躇なく殺した花山への恐怖からか、それともその話を嬉々と伝える相手の狂気からか。あるいは両方か。

『改めて訊くが、この後直接話がしたい。できるか?』

再び投げられた問いは、単なる都合確認から脅迫へと変わっていた。

 花山に知られたら殺される。野崎に選択肢は残されていなかった。

「どこに行けばいい?」

『PF・ミッドナイト、駅前の音楽バーだ』

「わかった、一人で行く」

『楽しみにしているよ』

 通話が切れると、野崎は直ちに池袋異保局を出た。

 タクシーを捕まえ、指定の店を告げる。

 心の準備を始める前に到着した。厳つい表情を繕い、大きく深呼吸してから店内に入る。

 青系統の薄明りに照らされた落ち着いた空間が現れた。手前にあるカウンター席は空席ばかりが目についたが、その理由は奥を見たときにわかった。

 客で埋まったテーブル席が並び、さらにその奥にステージがあった。ちょうどピアノとチェロの二重奏が始まったところだった。

 ざっと見渡す間に、約束の相手は見つからなかった。仕方なく、野崎は適当なカウンター席に腰を下ろした。

 店の雰囲気と、ゆったりとした中低音のメロディーは、今というシチュエーションでなかったら、心地よい癒しを感じただろう。演奏中も、常に野崎の心は張り詰めていて、演奏終わりの拍手にさえびくりと反応するぐらいだった。

 ステージから降壇する演奏者を見送りながら、素面にも関わらずやたらうるさく鳴る心音に辟易していると、

「チェロで人を殴ったことがあるかね?」

突然、隣から声がした。誰もいなかったはずの席に、トレンチコートを着たくたびれた男が座っていた。

 野崎が唖然としながら見つめていると、相手はさらに話を続けた。

「弦楽器は中が空洞だ、本来は音を響かせやすくする目的があるわけだが、アングラの連中が別の用途を見出した」

「物入れか」野崎が険しい表情に直る。「確か、前に中に隠れて逃亡した話もあったな」

「それは楽器ケースだな、コントラバスの。そう、楽器ケースに密輸品を忍ばせるのはある程度認知されるようになってきたが、楽器本体はまだ警戒されにくい。ただし、当然ケースより容量は入らないのに加え、詰めるにもf字孔から入れるか、一度楽器を解体しなければならない。そこで、密輸用に特化したチェロが作られた。特殊な工具なしで解体・組み立てができ、耐久性に優れる。楽器の特性を捨てる代わり、重さや重心・形状を少し変えた鈍器としての性能を極め、弓には抑止剤を仕込めるようになった。現在最も流通しているタイプがこれだ」

相手は一度、グラスの中の茶色い酒を口の中に流し込んだ。

「最近はどこの需要か知らんが、演奏もできる密輸用チェロも出てきているらしい。以前は聴くに堪えない音だったが、今は素人なら騙せる程度まで進化したようだ。ところで、さっきの演奏はどう思ったかね?」

想定外の質問を振られ、野崎は当惑した。しかし意図に気づくと、勢いよくステージのほうを振り向いた。当然、楽器はすでに撤去されていた。

「さて、本題に入るとしよう。お忙しい中、わざわざ来ていただいて感謝するよ、野崎異保官」

 野崎は前に向き直り、改めて寒河の顔を見据えた。視線が合った瞬間に目を細められると、角を立てて睨み返した。

「そう思っているなら早く済ませろ」

「そうしてやりたい気持ちは山々だが、合意を得た上で協力してもらうつもりでいる。まずは説明から始めたい」

「つまり、こちらにも拒否権はあるんだな?」

寒河は返事の代わりに、含み笑いを浮かべた。

「さっそく説明に入ろう。単刀直入に言うと、君にはガワになってもらう」

「それはつまり、お前が俺の身体に憑りついて好き放題するってことか?」

「命の保証はしよう。君にとっても最も生き長らえる可能性の高い選択になるはずだ、悪い話ではないと思うが」

「いいや、却下だ」

野崎は身を乗り出し、テーブルを叩いた。

「好条件みたいな言い方をしているが、命が助かったところで、結局は花山と一緒に監獄行きだろ? 冗談じゃない、譲歩してくれ」

「それは無理な注文だ、こちらも碓氷を助ける必要がある。それに、犯罪者のために同僚を殺すような人間に譲歩する理由はない」

「変わってるな、お前」

野崎が肩を落としながらぽつりと零す。程なく寒河に向けられた目は、奇特な生き物でも眺めているようだった。

「そこまで偉い正義感を持ちながら、何故アングラ連中相手に商売なんかしてる?」

 寒河はアルコールを口に含んだ。だが、一向に答えようとはしなかった。

「まぁいい。もともと花山に近づいたのは反社連中の動向を探るためだった」

野崎の脳内に、池袋異保局三課に配属された当時の記憶が蘇った。

 暴力団の凄惨な事件は何度も見てきたし、話もたくさん聞いてきた。仲良くする気は毛頭なく、むしろ叩き潰すつもりだった。それは当然、花山にも共通していた。

 初めて花山と接触したのは、安地組関係者の不審死の捜査がきっかけだった。指定された和風料理店の個室で二人きり。常に仏頂面の野崎と、柔和な顔の花山が向かい合わせに座る。

「野崎さんってお堅いですよね。今まで会ってきた異保官さんフレンドリーな人ばかりだったので、てっきりそういう教育でも受けてるものだと思ってましたが」

花山が唐突に切り出した。

 野崎はお茶を飲むのを止め、鼻を鳴らした。

「話を引き出すために心を開かせようってのは言われているが、俺はそう思わん。馴れ馴れしくしたら仲良くなれる? どうせ誤解だ、内心では舐められてるに決まってる」

再びお茶を飲み始める。すると、

「僕と一緒だ」

正面から意外な言葉が飛んできた。野崎はお茶を噴き出した。慌ててポケットティッシュを取り出し、粗相を掃除する。

「大丈夫ですか?」

花山もすぐに加わった。野崎は珍しいものでも眺めるように、目の前の男を見つめる。

 知らずのうちに手が止まっていた。我に返り、手を動かそうとするも、すでに飛沫は拭き取られていた。

 野崎が謝ろうと口を開き掛ける。しかし、花山に先手を打たれた。

「僕、容赦ない奴って多分異保さんの間でも言われてると思うんですけど、あれって舐められないためなんですよ」

花山の前に、使用済みティッシュの山ができる。

 野崎がお茶を軽く飲むと、花山も一口お茶を含んだ。

「上に立つ者、弱みを知られてはいけない。僕ら、立場は敵同士ですけど同じ孤独を抱える同類同士ですね」

花山はにこやかに笑い掛けた。

 これまで、彼の笑顔にそこはかとない恐怖を感じていた。まるで、本心をカモフラージュしているように見えたからだ。

 今は違う。本音を晒せる相手にしか見せない、真実の笑み。野崎には、そうとしか思えなかった。

 無言で口をぽかんと開いたままの野崎に、花山は急にあたふたとし始めた。

「あ、勝手に同類扱いしてすいません。怒ってますよね?」

「あ、いや……」野崎の表情がようやく動く。

 この瞬間から、花山の印象は一八〇度変わった。

 その後も、定期的に密会は行われた。部下に弱音を吐けない者同士として何度も相談を重ねるうちに、単なる暴力団(てき)の一員という存在には収まらなくなっていた。

 プライベートだけではない。花山の顔の広さに助けられ、捜査が進展することも少なからずあった。

 池袋異保局三課長の座に漕ぎ着けることができたのは、紛れもなく花山からの「借り」の積み重ねがあったからだ。彼が困ったときは、今度は自分が助けなければならない。

 ついに、異保官とヤクザの越えてはいけない一線を越えてしまった。

「要は義理って奴だ」

回想から戻り、野崎が告げる。

「あんたにもわかるだろう? 碓氷を助けようとしてるのだって、そうなんじゃないのか?」

途端、寒河は難しい表情を浮かべ、俯いた。野崎は首を傾げる。

 程なくして、寒河がグラスを持ち上げ、口を開いた。

「あれは、義理というより義務だ」

「義務? 弱みでも握られてるのか?」

 寒河がカクテルを一気に飲み干す。空のグラスが大きな音を立て、テーブルに置かれた。

「しんゆ――」

 突然、店のドアが勢いよく開いた。

「池袋異保局の野崎! どこにいる?」

若い男の怒声が響き渡る。呼ばれた当人は、驚くあまり椅子からひっくり返りそうになった。

 店内は騒然とした。

 大声を上げる白ジャケットの金髪男を先頭に、人相の悪い男たちが続き、最後尾を一際背の低いオールバックが堂々と歩く。

 野崎は最後尾の中年男を見た瞬間、目を見張った。

「香川? 何故ここに?」

たちまち顔が青ざめる。わなわなと集団から目を外し、寒河に掴み掛かった。

「おい、どういうことだ? お前が呼んだのか?」

だが、どうも様子がおかしい。寒河は、野崎以上に動揺していた。

 わけもわからず瞬きを繰り返し、相手を手放す。同時に、背後から肩をがっしりと掴まれた。

「てめぇが花山と繋がってる異保官だな?」

そのまま身体をぐるりと返され、男たちに取り囲まれる。

「何の話だ?」

「とぼけんじゃねぇ! てめえが異保の覆面車ぶち壊してるとこ、うちのが見てんだよ」

「嘘だ、見間違いに決まってる」

 風嵐と野崎が言い争い、組員たちが取り囲む。その様子を横から傍観していた香川は、近くで震えている人物の存在に気づいた。

「おや、誰かと思えば」

薄ら笑いを浮かべながら、隣の空いている席に腰を下ろす。

 なおも放心している様子だったので、香川は肩をポンと叩いた。寒河はビクリと反応し、怯えと焦燥の入り混じった顔を向けた。

「野崎と何をしていた?」

香川は、カウンターテーブルの上で腕を組み、寒河に詰め寄った。

「偶々席が隣だった」

寒河が目を逸らしながら答える。

「話し込んでいるように見えたが?」

「絡まれた。酔ってたんだろう」

 香川は大袈裟に身を乗り出し、言い争い中の野崎を覗き込んだ。

「素面にしか見えないな」

 寒河は黙り込んだ。唇を噛み締め、絶望したように俯く。

 強面集団のほうも、決着はついたようだった。苦しい言い訳を続けようとする野崎を、風嵐たちが強引に外へ連れ出して行った。

「さて」

香川が立ち上がり、隣で沈む男の肩を掴んだ。

「お前も来い」

耳元にわざと低い声で囁いた。

 寒河の震えはピタリと鎮まった。一方、その場から動き出そうとする気配はない。

 香川は額を抱えながら溜息を吐くと、先程と同様の調子で語り掛けた。

「どうした、充電切れか? 待ってろ、風嵐を連れ戻してきてやる」

ようやく寒河が動いた。香川が胸を撫で下ろしたのも束の間、相手の身体は横に傾いた。香川がとっさに両手で支える。

「おいおい、飲みすぎか? 珍しいな」

呆れ交じりに顔を覗き込むと、寒河は失神していた。

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