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番犬と狐  作者: 汐越陽
7/19

7.

 一面黒い雲に覆われた空の下、碓氷はジャージ姿でジョギングしながら職場に向かっていた。

 兄の死の翌朝から始めた日課だった。危険な天候の日を除き、毎朝欠かさず続けてきた。今は、池袋異保局までの三キロメートルの迂回ルートを走っている。始めた当初は、今の半分以下の距離でも音を上げていたが、最近は負荷を感じなくなり、半ば形骸化していた。

 足音と呼吸音が一定のリズムを刻み続ける中、突然スマホの着信音が鳴った。碓氷は徐々に減速しながら、スマホを取り出し確認する。

 知らない番号だった。ただし、相手の見当はついている。迷わず応答アイコンを押した。

「もしもし」

『寒河た、朝早くから申し訳ない。今大丈夫か?』

想像通りの名前が告げられた。しかし、どうも知っている声とは違う。

「えっと。本当に寒河?」

『おっと、失礼した。今話しているのは憑依中の別人だ。本体は駅東口の喫茶店にいるが、確認しに来るかね?』

「いいや、大丈夫」

言葉選びや口調の節々から、相手が寒河であることは確信できた。

「用件は?」

『大事な話だ、周りに人がいるなら場所を移して欲しい』

おどけた口調が打って変わり、電話越しにも只事じゃない空気が伝わってくる。

「少し待って」

一度スマホを下ろし、辺りを見回す。数十メートル先に、電話ボックスを発見した。中に人がいないことを確認し、急いで駆け込む。不審物が仕掛けられていないかを手早く探し、外に怪しい人物が見張っていないことがわかると、通話を再開させた。

「移動終わった、どうぞ」

『要点から先に話す。今日十三時、雑司ヶ谷四丁目の民宿『鳥音(とりのね)(そう)』に花山が現れる』

 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。口を開けたまま呆然としていると、寒河はさらに続けた。

『昨晩通話中にあった来客が、花山の差し向けた代行業の輩だった。香川が来たと知って送りつけたようだ。四人来たうち一人の身体を拝借して、偽の情報を花山に吹き込んだ』

「予定を聞き出したんじゃなくて、誘導したわけね。だったらひとつ、気になることがあるんだけど。花山が直接来るって言ったの?」

それこそ危険を冒してまで本人が出向くより、同じようにして代行業者に任せれば済むはずだ。

『少数ならまだしも、宿ひとつ借りる人数の漸義会組員をまともに相手できる業者は、知っている限り存在しない』

「漸義会ってそんなに強かったのね」

『君からすれば、全員汚物に集るハエにしか見えないだろうがね』

「情報ありがとう、三課に持ち帰る」

礼を告げるも、反応がない。通話をこのまま切っていいのか悩んでいると、

『くれぐれも気をつけてくれ』

どこか冴えない声が返ってきた。

「了解」

 通話が終了し、電話ボックスを出る。

 絶望から始まった捜査に、ようやく光が見えた。確かな胸の高鳴りを感じる。

 碓氷はスマホをしまい、ジョギングを再開した。心なしか、普段より足取りが軽い。

 空を覆う雲は、今にも落ちそうなほど重々しい様相だった。



 車内時計の時刻が一分進み、十三時二〇分になった。

 運転席に座る私服の男性が、手元のスマホから目を外して顔を上げた。窓に映る雑司ヶ谷四丁目の集合住宅街は、閑散としていた。

「二十分オーバーしてますけど、本当に来るんですかね?」

男性はそう言い、一際存在感を放つ和風邸宅を見つめる。

 張り込みを開始してから一時間以上が経過した。『鳥音荘』ならびに駐車場は、まるで静止画のように動きが見られない。人の出入りもなければ、駐車場に並ぶ三台の高級車も居座ったままである。

「どうだか」

後部座席に座る女性異保官が呟いた。

 車内で唯一、碓氷だけが花山が来ると信じていた。助手席の真後ろから、車窓に映る鳥音荘を凝視する。

 コツ、とフロントガラスに何かが当たる音がした。三人同時に振り向く。

 正体は雨粒だった。ガラスに当たって弾けると、軌跡を残しながら緩やかに落ちていった。

 雨脚は瞬く間に強まった。男性が慌ててワイパーを起動させる。雨が車体を叩く音と、ワイパーが擦れる音だけが聞こえてくる。

 突如、イヤホンから呼び出し音が流れた。

『こちら中崎。花山がすでに来ている可能性を考えて中に入りたいです』

『野崎だ、許可する』

『中崎、了解しました』

短いやり取りが終了し、再び静寂の時間が訪れる。

「俺たちは車で待機ですか」

男性異保官が寂しそうに呟いた。その後ろでは、女性異保官が溜息を零す。

 不満なのは碓氷も同様だった。この一年、犯罪者集団の検挙や現場制圧に大きく貢献してきた。「番犬」の呼び名もそれ故についたものだ。しかし同時に、後衛に飛ばされた理由にも心当たりはあった。だから、文句を口にすることは憚られた。

 万一の突入に備えて、碓氷はスマホの電源を落とすことにした。昨晩のように、大事な局面で鳴られては困る。

 サイドボタンを押した瞬間、メールの通知が表示された。


『(件名)位相撤退いそげ

(本文)まにあわないならにげろ』


 一度で内容が頭に入ってこなかった。読み返そうとしたそのとき、助手席のドアを叩く音が聞こえた。見上げると、野崎だった。反射的にサイドボタンを長押しする。

 ドアが開き、全身ずぶ濡れの野崎が急いで乗り込んだ。ドアを閉めるや否や、濡れたカバンからタオルを引っ張り出す。

「課長、お疲れ様です」

隣から男性異保官がスマホをしまい、会釈する。

 野崎はタオルで全身の水滴を叩くように取りながら、部下たちにこう呼びかけた。

「お前たちこそ。飯は食ったか?」

 碓氷以外の二人が、驚いたように目を見合わせる。

「いいえ」

代表して男性異保官が答えた。返事を聞くや否や、野崎はタオルを前に置き、カバンの中から皺くちゃのビニール袋を取り出した。

「碓氷。飯の時間ぐらい確保してやれ」

「わかりました」

 袋から取り出されたソーセージパンがひとつ、後部座席に差し出される。それがどちらに向けられているのかは、両者とも理解していた。

「ありがとうございます!」

女性異保官が嬉々として受け取った。続いて、運転席にもサンドイッチが手渡される。男性が顔を綻ばせながら礼を言い、受け取った。最後に出されたのはゼリー飲料だったが、そのまま野崎が開封した。

「悪いな。三つしか買ってなかった」

「お気遣いなく」碓氷は無表情で返した。

 三人が黙々と食事を始める。

 碓氷は居心地の悪さを紛らわせるため、車窓に目をやった。大雨以外、数分前と何ひとつ変わらない光景がそこにあった。花山は来るはずだという確信は、たちまち弱まっていった。

『至急至急、応援部隊を要請します』

突然、中崎の緊迫した声が聞こえてきた。碓氷は我に返る。

 野崎はゼリーを口から離し、口の中のものを急いで飲み込みながら、キャップを閉めた。

「応援『部隊』だと?」

『助けてください!』

音割れするほどの悲鳴が鼓膜をつんざく。

「落ち着け中崎、状況を――」

ついに、無機質なノイズしか聞こえなくなった。

 野崎は直ちに本局と連絡を取り始めた。

「池袋異保局の野崎です、三課の。大至急機動隊の派遣を要請します、場所は現在送信中……え? 何ですか? 敵の詳細? わかりません!」

野崎のこめかみを、雨粒と異なる滴が伝っていく。

 碓氷の脳内で、中崎の断末魔がこだまする。

 同僚の死なら何度も見てきた。心が動いたことは一度もなかった。意識の中には、常に自分と敵・守るべき市民だけが存在していた。それが今になって、見向きもしなかったものに気づき始めている。

 胸の中に冷たい穴を穿たれたような感覚がした。

「課長、見てきます」

返事を聞くつもりは毛頭なかった。言ったそばからドアを開き、土砂降りの中に飛び出す。

「待て、碓氷。応援が来るまで待機していろ」

通報を終えた野崎は、とっさに呼び止めた。碓氷は前を向いたまま足を止める。

「応援っていつ来るんですか? 雨が止んだらですか?」

 野崎はもどかしそうに顔を歪め、黙り込んだ。それを返事と受け取った碓氷は、車のドアを閉める。

「碓氷!」

助手席の窓が内側からガンガンと叩かれる。碓氷は無視して足早に立ち去ろうとしていた。

 野崎は慌てて車から降りる。

「落ち着け碓氷。お前ひとり加わったところで……」

「何も変わらないとおっしゃるんですか?」

雨に打たれる背中から、ぴしゃりと放たれる。野崎はまたもや返事に窮し、悔しそうに白い息を零した。

 そのときだった。

「あ」

車内から男性異保官の声が上がった。

「花山だ」

 全員の目がいっせいに鳥音荘へ向けられる。

 温和そうな顔立ちの大男が、厳つい黒服たちと一緒に駐車場の車に乗り込んだ。窓越しに見える男の顔には、余裕に満ちた笑みを浮かんでいる。

 碓氷はすぐに野崎たちのほうを振り向いた。

「花山の追跡をお願いします」

そう言い残し、自分は鳥音荘へ走る。

 駐車場から、ちょうど花山を乗せた車が出発した。

 雨の冷たさを忘れるほど、碓氷の頭は混乱していた。宿の中で何が起きているのか。中崎たちを襲ったのは何者か。香川の差し向けた刺客だろうか? それにしては、花山のさっきの顔は奇妙だ。

 だったら、中崎は花山の仲間と戦っていたというのか。ますますおかしな話だ、自分で自分の首を絞めていることになる。

 いや――違和感が脳裏を過った。

 闇市への突入。左遷宣告。不動産屋の一件。未遂に終わった尾行。狭山の誘拐。

『異保に花山の内通者が――』寒河の声。

 もし前提条件が違っていたらどうなる? 具体的に、被害者の遺品を証拠として見做すのをやめてみる。すなわち、

 ――花山が宇都宮を殺した真犯人だったとしたら?

 刹那。背後で大きな爆発音が鳴った。背中に生温い空気を浴びる。

 碓氷は足を止め、おそるおそる後ろを振り向いた。

 灰色の煙を噴く火だるまがあった。部下たちの乗った車だった。その前で、野崎が背中を向けて仁王立ちしている。火だるまに向けられていた手を下ろし、強張っていた肩が落ちる。

 奈落の底へ突き落されたような絶望が襲い掛かった。悪夢であって欲しい。碓氷は願う。しかし非常にも、冷ややかな雨が現実であることを知らしめてくる。

 足が鉛のようで動かない。視界から色が失われる。溝色の渦が、頭の中をぐるぐると駆け巡る。


*


 我に返ると、そこは見慣れたオフィスだった。

 あの後、何があったのかは覚えていない。ただ、よくわからない断片的な記憶は残っている。薄汚れたカーペットの大広間。赤黒い染み。横たわる死体の数々。割れた窓ガラス。鳥音荘の中で見た光景だろう。

 オフィスの扉が開かれた。野崎を先頭に、屈強そうな異保官が数名入ってくる。

「花山も例の犯行に関わってるとしか考えられない」

野崎はそう言い、碓氷のほうを見た。他の異保官たちも同様に視線を向ける。

 野崎はずかずかと歩み寄り、碓氷の胸倉を掴んだ。

「今回のタレコミは誰からあったんだ? え?」

碓氷は答えることができなかった。寒河の名前を出したくなかった以前に、声を出せるほどの気力が残っていなかった。

「花山と共謀して、異保を陥れようとしたんだろ? 違うか?」

 碓氷は知っている。今、目の前で事実を捏造している上司が、花山を追おうとした部下たちの車を爆発させたことを。しかし、伝えることができない。それに何より、誰一人として彼の話を疑う者はいないだろう。

 腕に刺される能力抑止剤。両手を拘束する手錠。あっという間に取り押さえられる。

 私物をすべて没収され、碓氷は留置所に閉じ込められた。


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