6.
罠に掛かったネズミは、一度大型駐車場に入って姿を現し、何者かと通話した後、街を這い回った。コンビニに始まり、本屋、百貨店と歩き、ファストフード店で早めの夕食を済ませる。そして、夜闇が顔を覗かせた頃、ようやく街の中心地を離れた。北の方角に進み、徐々に人通りが減っていく。
碓氷は通行人の振りをしようと、スマホを取り出した。
知らない番号からの不在着信が入っていた。一瞬、折り返すべきか迷ったが、尾行を優先することにした。
最終的に、昼間以来の池袋五丁目に帰ってきた。殺伐とした空気は日没後も変わらず、不規則に点滅する街灯には虫の一匹も寄りついていない。
男は足を弾ませながら鼻歌を歌っていた。今ここで弾丸を放ったら、殺せてしまえそうなほど無防備だった。しかし目的は、彼を殺害することではなく、あくまで情報を引き出すことだ。碓氷はブロック塀や電柱の陰に隠れながら、少しずつ近づいた。
男との距離が十メートルまで迫る。もし相手がもう少し警戒心を抱いていたら、息遣いで気づかれていたかもしれない。そのぐらい周囲は静まり返っていた。
碓氷は唾を飲み込むことも堪え、間隔を一定に保ちながら追跡を続けようとする。
突然、着信音が鳴った。碓氷と男が同時にびくりと跳ね上がる。
すぐに自分のスマホだと気づいた。気が動転するあまり、何もできずにあたふたする。その間にも、男は逃げ出してしまった。
尾行に気づかれながら敵のテリトリー内に留まるのは、リスクでしかない。碓氷は元来た道を引き返し、なおも鳴り続けるスマホを取り出した。
着信は狭山からだった。
「もしもし」
わずかに苛立ちの含まれた声が発せられる。
『班長、急にすいません』
焦燥交じりの上ずった声が返ってきた。
「どうした?」
『部屋に変な人たちがやってきて、ドアをドンドン叩いてきます。怒鳴り声も飛んできて、通報したら殺すとか言ってます。怖くて班長に電話しました、ごめんなさい』
狭山の声は、話しているうちに涙声に変わった。
通話越しには、鼻をすする音の他に何かを叩くような雑音が入ってくる。ドアを叩く音というよりも、もはや破壊しようとしている音だった。
「場所は? 寮で合ってる?」
『はい。三〇一号室です』
「了解」
碓氷は通話を切り、舌打ちした。着信がなかったら、先程のネズミは確保することができたかもしれない。かといって今更どうしようもない。それに助けを求めてきたのは、職場で唯一、普通に接してくれる部下だ。
五丁目を抜け、前から走ってくるタクシーに大きく手を振る。目の前に止まったところで急いで乗り込み、行き先を告げた。
タクシーが発進した。到着までの間、尾行した男を捕まえられなかった後悔がずっと尾を引いていた。
池袋二丁目の目的地が見えてきた。碓氷はタクシーを降り、駆け足で寮に向かいながら三階を見上げた。カーテンが閉じられていて、中の様子はわからない。
寮の前に着くと、迷わずエントランスに走った。入口から中に入ろうとしたとき、背後から車のエンジン音が聞こえてきた。振り向くと同時に、眩しいライトに照らされる。
手で覆いながら見ると、路肩に止まっていた黒のワンボックスカーが発進しようとしていた。車窓からは、狭山らしき人物のシルエットが見える。
碓氷はとっさに胸ポケットの中身を引き抜き、車体に向かって投げつけた。
車が発車した。投擲物はバックドアに直撃する。そのまま落下する直前で、碓氷が押し留めるように掌を伸ばした。直ちにボディが変形して窪みができ、投擲物を飲み込んだ。
車は加速を続け、あっという間に碓氷の視界から消えた。
碓氷はすぐに後を追った。スマホのメモ帳アプリからとあるページを呼び起こし、検索窓の履歴にある文字列を選択する。
画面いっぱいに豊島区の地図が現れた。地図中の赤い点は、ページを更新するたび少しずつ移動する。やがて劇場通りに入り、北へ進路を定めた。
碓氷は通信機を起動し、同僚たちの位置情報を確認した。劇場通りに、ちょうど大橋が出向いていた。すぐさま呼び出しを掛ける。三度のコールで繋がった。
『班長、どうしました?』
「今大丈夫?」
『聞き込み中です』
「そっちに黒いワンボックスが行ってる、足止めをお願いしたい」
『だから聞き込み……ちょっと待ってください、詳しい話を――』
「詳細は後で話す。車ごと燃やすのは避けて欲しい、よろしく」
一方的に通話を切ると、全力で走り出した。
目当ての通りに出た瞬間、歩道に突っ込んだまま立ち往生する黒のワンボックスが視界に飛び込んだ。左後輪から火を噴き、街行く人たちの注目を集めている。
碓氷は野次馬の間を掻い潜り、車に近づいた。
後部座席から、一人の男が顔を出す。燃えるタイヤを見ると、車内に何かを告げて頭を引っ込めた。
直後、車が動き出した。
碓氷は辺りを見回した。数メートル先で、駐車違反車の移動が行われようとしているのが目に入る。駆け足で向かい、業者の人にこう訊ねた。
「ここにあるの、使ってもいいですか?」
「はい?」
男性は目をぱちくりとさせる。
「お借りしますね」
鳩の糞に塗れた銀の軽自動車の鍵穴に、生成した小さな金属片を差し込む。捻ると、ロックが解除された。
驚いた顔で見つめる男性を他所に、碓氷は車に乗り込んだ。
車のドアを開けるときと同様にして、エンジンも掛けた。挙動に目立った問題はない。ガソリン残量も十分だ。碓氷はシートベルトを装着し、窓を開けた。
「用が済んだら戻りますので」
男性が何か言いたげに口を開くも、待たずにアクセルを踏んだ。
瞬く間に法定速度を超過し、時速百キロに達する直前で加速が止まった。思い出したようにフロントガラスの洗浄を行い、こびりついていた糞を落とす。
早くも該当車両を目前に捉えた。ハンドルを操作して真横につき、徐々に誰もいない歩道へ幅寄せする。気づいたワンボックスが、負けじと衝突する構えを見せた。
ルームミラーを一瞥すると、後続車とだいぶ離れているのがわかった。
ついに、ワンボックスが攻撃を仕掛けてきた。碓氷は思いきりブレーキを踏んだ。
甲高い音を鳴らしながら急停止する軽自動車の前をすり抜け、ワンボックスは勢い余って中央分離帯の植え込みに突っ込んだ。植物や縁石に掠りながらも、どうにか急旋回して元の車線に戻ろうとする。しかし、急な操作で制御が効かず、そのまま歩道へ乗り上げた。閉店中のシャッターへ突っ込み、完全に停止する。幸い、巻き込まれた人はいなかった。
一部始終を見ていた赤のセダンが知覚に停車した。中からチェックシャツの若い男性が出てくる。炎上するタイヤをちらっと見ると、運転席へ駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
応じるように、中からガタイのいい青の作業服の男が五人現れた。腕の腕章にはシャチを基調とした特徴的なロゴが入っている。
男たちは、あろうことか心配してくれていた男性を押し倒し、さらに車を強奪した。
最後尾の男が、ワンボックスに残っていた狭山を無理矢理引っ張り出し、乗り換えると、赤のセダンは出発した。
碓氷は後に続こうとした。
突然、歩道から赤いセダンの持ち主が飛び出し、目の前に立ちはだかった。
急ブレーキを踏み、クラクションを鳴らす。男性はフロントガラスをコンコンと叩いた。
碓氷は運転席の窓を開ける。
「危ないのでどいてください。急いでるんです」
男性は驚いたように目を見張り、「女性……?」と呟いた。しかしすぐに険しい表情を繕い、こう告げた。
「乗せてください」
碓氷は耳を疑った。瞬きを二度繰り返し、ようやく口を開く。
「お断りします」
「さっきカーチェイスしてたでしょ? 車を取り戻したいんです、あいつらを追ってください」
「できません。危険すぎます」
「お願いします、壊されたくないんです」
とうとう碓氷はデバイスの異保証を提示した。男性の顔に驚愕と困惑の色が入り乱れる。
「さっきのは闇職の連中です、腕章から『赤シャチ』と呼ばれている誘拐業者で間違いありません」
「誘拐……?」
相手が犯罪組織と知ったことで、男性は慄いたようだった。これで引き下がってくれるだろう。碓氷はそう思った。
しかし、予想は外れた。男性は恐怖を振り払うように首を横に振ると、真剣な眼差しを向けて開口した。
「あれは死んだ兄が残してくれたものです。俺の命より大事なんです、お願いします」
男性が深く頭を下げる。碓氷は口を一の字に結んだ。
鍵が解除される音がした。男性が驚いたように顔を上げる。
「乗ってください。ただし、ひとつだけ約束してもらいます」
男性はぱっと晴れやかな表情を浮かべると、
「ありがとうございます!」
助手席に乗った。シートベルトの装着が済んだところで、碓氷が口を開く。
「殺されても絶対に死なないでください」
アクセルが踏み込まれた。車が勢いよく前に飛び出す。
「ぜぜぜぜ、善処します」
男性は絶叫マシンに乗車しているときのような声で答えた。
速度はたちまち上昇し、赤のセダンに接近していく。
「ところで、お名前は?」
「金平です。金平糖のこんぺいの部分で、金平です」
「承知しました、金平さん」
車のスピードに慣れてきたのか、金平の強張っていた肩から力が抜けた。
「ヤクザって、同類同士で裏でやり合ってるイメージがありました。一般人には優しい、そんな話も聞きますし」
「それはデタラメです。私欲のために平気で他人巻き込みます。実際に、暴力団と無関係の夫婦が奇臓目的で殺害された例もあります」
「うわぁ……クソ野郎ですね」
金平が嫌悪感を露わにする。
「奴らの素性を知らないとしたら、たまたま巻き込まれないで済んでいる、本当にそれだけです」
信号が赤に変わった。赤いセダンはいっさい減速せずに渡っていく。碓氷も後に続いた。
「すごい……映画みたいだ」
金平が運転席を軽く見やり、前に向き直る。
セダンの後部座席の窓から男が一人、身を乗り出した。碓氷たちを睨みつけ、右手人差し指を向ける。
「伏せて」
碓氷が鋭く叫んだ。金平は戸惑いながら固まる。
次の瞬間、バリッという鈍い音とともに、フロントガラスに大きなひびが入った。
「映画みたいだ」
金平の顔から生気が失われた。
「金平さん、能力者ですか?」
「いいえ」
碓氷は数秒悩み、口を開く。
「収納ボックスを開けてください」
金平は直ちに従った。目の前のグローブボックスを勢いよく開く。
「何が入っていますか?」
「脱出ハンマーです」
「ありがとうございます」少しの間が空く。「金平さん、物投げるのは得意ですか?」
金平は頭にクエスチョンマークを浮かべながら、瞬きを繰り返した。
「一応、野球をやってましたが。まさか車に?」
「いいえ、ご心配なく。車ではありません」
「よかった」
金平はほっとした。
「投げるのは人にです」
「え……」
安堵の顔が一瞬にして崩れた。
「勘弁してください。もっと嫌ですよ」
「私が殺したことにします」
「それでも嫌です。だったら運転変わります」
二発目の攻撃を食らった。フロントガラスが粉砕し、内側に細々とした破片が降り注ぐ。金平は反射的に腕で顔を覆った。
ガラス屑の雨が止み、金平がおそるおそる腕を下ろしたところで、碓氷がこう訊ねた。
「車と人以外にならできますか?」
「はい」
即答だった。
「お願いします」
さっそく金平は緊急脱出用ハンマーを投げようと構えた。気づいた碓氷が、慌てて口を挟む。
「ハンマーじゃないです、ごめんなさい」
「え? じゃあどれを?」
質問に応じるように、金平の膝の上にソフトボール大の銀白色の球が現れた。金平はハンマーを戻し、食い入るように見つめる。
「それを、前の車より前に投げてください」
「わかりました」
「着地したら教えてください」
シートベルトが外され、座席が後ろに倒される。金平は球体を手に取り、夜空を見据えた。
球体が放たれた。割れたフロントガラスの穴を通り抜け、空へ上っていく。そのまま緩やかな弧を描き、地面へ向きを変えた。
「落ちました。多分!」
碓氷が小さく頷いた。
球体が落ちた地点に、金属製のガードレールが現れた。行く手を阻まれた前の車は、その場に急停止する。
碓氷もブレーキを深く踏み込み、停車させた。
セダンから作業服たちがぞろぞろと降り始めた。三人が狭山を連れて先に逃走し、残る二人が碓氷たちのほうにやってくる。
碓氷が前に手を出すのと同時に、車の前に金属壁が出現した。
直後、激しく壁を叩く音が断続的に聞こえてきた。金平が思わず身を引き、両耳を塞ぐ。
程なくして音が止んだ。碓氷は素早くシートベルトを外し、ドアを開く。
「金平さん、ご協力ありがとうございました」
縮こまったままの金平にそう言い残し、車を降りた。金属壁の陰に駆け寄り、そっと敵の様子を覗き見る。
すでに二人は立ち去っていた。碓氷は壁を消し、急いで後を追う。
作業服たちは幹線道路で足止めを食らっていた。しかし、後ろから迫ってくる碓氷に気づくと、躊躇なく車道に飛び込んだ。
横切ろうとした車が急停止し、ブーイング代わりのクラクションを鳴らす。
作業服たちが渡り終え、車が動き出そうとする。その矢先に、今度は碓氷が飛び出した。
クラクションが二度、高らかに鳴り響いた。
作業服たちは通り沿いのファミリーレストランへ入っていった。入れ替わるように、中からぞろぞろと客が悲鳴を上げながら出てくる。
碓氷は流れに逆らい、店内に押し入った。
中はほとんど空席で、恐怖のあまり放心する客と、対応に困っている店員数名だけが取り残されていた。窓際から作業服たちの怒声が上がるたび、客たちは震え上がった。
碓氷が客席に現れると、怒号が止んだ。五人全員が碓氷に視線をロックし、半歩後退した。
碓氷は強気に前へ出る。攻撃姿勢を構えようとしたそのとき、
「動くな。客の命が飛ぶぞ」
真ん中のリーダー格の男が牽制した。碓氷はその姿勢のままぴたりと静止する。
男たちが目配せし、キャップ帽を被った痩身が碓氷に近づいた。作業着のポケットに忍ばせていた手が能力抑止剤を握り、顔を出す。間の距離が狭まったそのとき、突如碓氷が股間を強く蹴った。男が叫びながら背中を丸める。程よい位置に頭が下がると、今度は覆い被さるようにして、頸動脈を絞め上げた。
残る四人が、すぐさま身構えようとする。碓氷も男から抑止剤を奪い取り、前に立たせて羽交い絞めにする。作業服たちは、攻めようにもキャップ帽が障壁になり手出しができないでいた。その間に、碓氷はキャップ帽の首元に抑止剤を打った。注射を打ち終えると、四人から目を離さぬまま注射器を床に落とし、踏み潰した。
「狭山を誘拐した目的は?」
キャップ帽のこめかみに指が突きつけられる。人質の動揺は作業服たちにも伝染した。
「仲間を放して欲しかったら言って」
「んだと? 客を殺してやる」
リーダー格が手を伸ばし、周囲に向ける。客たちがさらに怖気づいた。
しかし次の瞬間、狭山がリーダー格に横から突進した。バランスを崩したところを、追い打ちで蹴りつける。
リーダー格が床に倒れた。他の作業服が狭山に注意を向け出すが、当人はすでにその場を逃げ出し、碓氷のところに帰っていた。
隣の仲間に引っ張られ、リーダー格が立ち上がる。
「女を返せ」
碓氷は苦々しい顔で黙り込んだ。しばらくして、キャップ帽を手放し前に蹴飛ばす。
「そいつで満足して帰ってくれるなら、今回だけは見逃す」
前へつんのめり躓きそうになったキャップ帽は、帽子を押さえながら駆け足で作業服たちのほうへ戻っていく。
リーダー格の不満げな表情は変わらなかった。
「女を返せと言った。一分以内に返さなければここにいる奴ら全員ぶっ殺す、いいな?」
宣言が終わるや否や、本当にカウントダウンが始まった。
碓氷の額に汗が滲み出す。彼らの、狭山に対する恐ろしい執着は何なのか。残念ながら考えている暇はない。隣では、早くも狭山が前へ踏み出そうとしている。
「抑止剤打たれた?」
足止めも兼ねて耳打ちすると、狭山の足が止まった。
「はい。すいません」
「了解」
一人で五人の手合いを請け負う。それ自体は決して難しくないが、ネックになるのが客の存在だ。作業服たちを倒すのに巻き込んでしまったら、元も子もない。
何かいい案はないか。碓氷は店内を見回す。
作業服たちの足元の近くに転がるコップと水溜まりが目についた。
「狭山って水アビだっけ?」
「はい、合ってます」
「奇臓活量は?」
「三五〇〇前後だったと思います」
「なら大丈夫ね」
一息置いて、碓氷がこう告げる。
「床の水を一点に集約して欲しい」
「わかりました。でも班長、抑止剤……」
「界隈で流通してるのは――」
碓氷が説明しようとすると、
「こそこそ喋ってんじゃねえ!」
すかさずリーダー格に咎められた。残り十秒を知らせる声が掻き消される。
「大丈夫」
碓氷はそれだけ言い、口を閉ざした。
タイムリミットが刻一刻と迫る。
男たちの意識が二人の異保官に向けられる間、足元では無色透明の液体が生き物のように蠢き、一か所に集おうとしている。
「五、四、三――」
カウントダウンが終わろうとしていたそのとき、碓氷の指先から金属片が放たれた。
黄みを帯びた光沢が敵の足元目掛けて直進する。初速を保ったままキャップ帽のくるぶしを掠り、水の塊に突っ込んだ。
束の間の静寂。
突然、紫色の閃光が走り、爆発した。白煙の発生と同時に、作業服たちは近くのテーブルや椅子の破片とともに、窓を突き破って外に投げ出された。
碓氷は右手を構えたまま、ゆっくり前進する。
煙が引き、破壊された床と派手に割れた窓ガラスが露わになった。歩調を上げて窓際に向かい、外の様子を見下ろす。
比較的怪我の軽い二人が、残る三人を引きずるようにして店から離れようとしていた。
碓氷はすぐにも追いかけようとした。しかし、彼らの前に一台の車が止まると、重傷者含む五人全員が手際よく車内に収まり、出発した。その間、三十秒と掛からなかった。
車の走行音が遠ざかり、店内の穏やかなBGMが聞こえるようになる。次第に、会話やすすり泣きも沸き起こった。
一報を入れるため、碓氷が通信端末を起動させた。
「班長!」
狭山が隣にやってきた。床の水に躓きそうになり、そのまま碓氷の身体に掴まる。
「大丈夫?」
「はい」狭山が顔を上げる。「班長のお陰で助かりました。ありがとうございます。本当にありがとうございます」
声が震え出したかと思うと、目から涙が零れ落ちた。
「すいません」
狭山は何度も謝りながら目元を拭う。
「よかった」
口から安堵の息とともに、無意識に零れた。
部下が無事に帰ってきたことに、こんなにも胸が満たされる。狭山を救うことができてよかった。今はただそれだけだった。知らないうちに、半日追い回した男を取り逃がした後悔は、跡形もなく消えていた。
碓氷が異保に報告する間に、狭山は空いた客席で深い眠りに入っていた。極度の恐怖に晒され続けた反動だろう。いずれにせよ現場検証までは動けないので、狭山は寝かせておくことにした。
その隙に、碓氷はスマホを取り出し、尾行中にあった不在着信へ折り返しの電話を入れた。
*
机の上に放られたスマホが、低く唸って振動した。気怠そうな目が一瞥するも、すぐに隣のグラスを捉えた。ドボドボと赤ワインが注がれていく。
なおもスマホは震え続けるが、酒の注がれる音は止まない。
半分よりやや多めに満たされたところで、瓶の中が空になった。口から最後の一滴が落ち切ると、乱暴に机の隅へ置かれた。隣には、空のワイン瓶がもう一本並んでいた。
グラスの中身が一気に呷られ、机に投げやりに戻される。空いた手がようやくスマホを握った。
「はい?」
目つきと同じ、気怠さをまとった声だった。
『一時間くらい前に連絡を頂いた者ですが、どちら様でしょうか』
活気失せた目が、わずかに見開かれた。
「寒河だ、情報屋の」
寒河は、スマホを耳と肩に挟みながら立ち上がり、しっかりした足取りで新たな酒を取りに行った。
『所用で返せなかった、ごめんなさい。用件は?』
「君のところの新人異保官だ、今どこにいる?」
背伸びをしながら赤ワインを一本手に取り、ケースの扉を足で閉じる。席に戻ろうとすると、
『狭山なら一緒にいるけど』
予想外の返答に、一瞬足が止まった。
『っていうのも、所用っていうのがさっきまで……』
「それなら問題ない」
寒河は椅子へ座り、瓶を机の上に載せた。その後、スマホのスピーカーアイコンを押し、グラスの隣にそっと置く。
『何故狭山のことを?』
「香川がうちに来た」
『え?』
ワインのコルクが、軽快な音を立てて抜き取られた。
通話越しにも、相手が何か言いたそうにしているのがわかる。その言葉を許す前に、寒河は栓抜きを放り出し、こう続けた。
「異保に花山の内通者がいると睨んだようだ。それで、何故か新人に目をつけていった」
『――内通者?』
「しばらくは用心したほうがいい。少しでも怪しまれれば掻っ攫われてしまうだろう、新人のように。まぁ、君は問題ないだろうがね」
グラスのワインをほんの少量、口に含む。寒河の目は、再びとろんと細められた。
『それはどうも。ただ……その、もし内通者がいるなら、花山が接触できるように何かしら計らうと思うんだけど』
「そいつもまた、香川を恐れているのかもしれない」
『なるほど。確かに、どこにでも潜んでるからね。今日もそれらしき人につけられたし』
「今日?」
驚くあまり上ずった声が出る。香川の話では、探偵に尾行を頼んだのは昨日だったはずだ。
寒河が口を開こうとした瞬間、扉を叩く音が聞こえた。見開かれた目が、そのまま部屋の出口に向けられる。
扉は重圧感を放ちながら沈黙していた。
寒河は慌ててグラスを置き、スピーカー機能を消してスマホを耳元に当てた。
「来客があったので失礼するよ。何かあったら連絡する、この番号ではないかもしれないが」
『了解』
「遅くまでお疲れさん、休憩も忘れずにな」
通話を切り、スマホを握ったまま右腕をぶら下げる。口からは震えた息が零れた。
再度、扉がノックされた。先程より大きな音だった。
寒河は唾を飲むと、グラスの酒を一気に飲み干し、徐に席を立った。扉を睨みながら近づき、手前で立ち止まる。
目をきつく閉じ、俯いた。深呼吸をして目を開けると、やけくそにドアを開いた。
そこにいたのは、黒服の四人組だった。