5.
一つ返事で承諾したものの、決して容易なことではない。
昼の池袋はただでさえ人で溢れ返っている。学生らしき若者に、ランチへ出掛ける会社員。移動中の営業マン。ネズミの姿などどこにもない。仮に紛れていたとして、この間のように露骨な尾行でもしてくれなければ見つけ出すのは難しい。
だったら、どうすべきか。相手に出てきてもらえばよい。
碓氷が向かったのは、ショッピングセンターやアミューズメント施設でもなければ、レストランや喫茶店でもない。一般人が絶対に足を踏み入れたがらない場所。池袋五丁目だった。
池一が池一と呼ばれる理由でもある、管轄区域に含まれる、裏社会の住民の巣窟。彼らの暮らしの拠点である以外にも、昨日の大倉ビルの一件のように、裏取引もひっそりと行われている。無論、白昼堂々と行われるわけではなく、異保官の巡回も夜間が中心になる。しかし、昼間の犯罪もゼロではない。それに、周囲は裏社会の住民しかいないわけだ。特に、先程の碓氷の醜態が既に広まっていれば――あまり考えたくはないが――一人でのこのこ敵地にやってきた『番犬』を潰しに掛かるに違いない。
足を踏み入れた瞬間、空気がガラリと変わったのがわかった。
全身に鳥肌が立ち、どこからか視線を感じる。霊的なものではなく、いきなり知らない人に襲われるかもしれないという恐怖を抱かせるような、そんな空気だ。
人気のない一軒家と古いアパートがひたすら立ち並ぶ。窓越しに見えるのは、いずれも変色したカーテンや山積みのダンボールだ。周囲の雑草も生え散らかり、家屋が蔦に覆われているものも見受けられる。
丁字路に当たり、碓氷は右に曲がった。閑静な住宅街から、商店街の跡地のような街並みへと移り変わる。
突然、ガサガサと物音が聞こえてきた。碓氷は反射的に振り向いた。
カラスが道端のダンボール箱の中を漁っているだけだった。近づくと、カラスは何もくわえずに飛び去った。
恐る恐る中を覗き込む。入っていたのは雑誌の山だった。自然と安堵の息が零れる。
しかし直後、背後から人の気配がした。一瞬で身を翻し、警棒代わりの鉄パイプを作り出して突きつける。
先端が何かに当たった。碓氷は何かいるはずの虚空を睨みつける。
「姿を見せなさい。さもなくば、これを槍に変えてブチ抜く」
見えない敵を捉えた鉄パイプの先端が、細く形を変えていく。伴い、微かに聞こえる息遣いが速くなった。
パイプから伝わっていた敵の感触がなくなった。前方から逃げる足音が聞こえてくる。
碓氷は鉄パイプを下ろし、軽く振った。たちまち糸のような極細の鎖へと変わり、道路を伝って前へ前へと伸びていった。
ついに透明人間の背中を捕えた。先端を鉤状に変形させ、不可視の衣服に引っ掛ける。
碓氷は細長い尻尾を掴みながら、尾行を始めた。
*
モニタに移る資料を眺めながら、寒河は日本酒を嗜んでいた。口元からグラスが離れ、テーブルに置かれる。感嘆とは程遠い溜息が零れた。
「いたちごっこだな」
寒河は事務椅子の背もたれにぐったりと寄り掛かり、天井を仰いだ。
今朝の不動産屋の件が引っ掛かっていた。まるで碓氷が来るのをあらかじめ知っていたような早さで駆けつけた暗殺代行集団。監視か、あるいは盗聴か。異保までも欺こうとする徹底ぶりには、執念すら覚える。
――連休までに解決しないと、被験者収容所の監視に飛ばされるから。
碓氷の声が蘇り、思わず苦い表情が浮かんだ。テーブルの上のグラスを探り当て、口に酒を流し込む。
最中、ドアを叩く音が聞こえた。寒河の目つきが険しくなる。
「予約を入れるよう、周知していなかったか? 今忙しいんだ、出直してくれ」
「俺を帰していいのか?」
男の特徴的な低い声が返ってきた。寒河の目が軽く見開かれた。
キーボードのAltとTabキーを押し、Enterキーを押すと、部屋の鍵が解除される音がした。
ドアが開いた。閉じられるのと同時に、何もない空間から身長差のある二つの人影が現れた。
低身長ながらも恰幅のいい、黒シャツを着た強面のオールバック。白ジャケットを腕捲くりした、金髪の高身長の若者。
「数日ぶりだな。何か痩せたか?」
背の低いほう――香川繁久が、薄っすらと笑みを浮かべながら挨拶した。隣の風嵐糸穏も、ニタリと笑いながら寒河を見下ろす。
寒河は顔を曇らせながら、電源の落ちた機械のようにフリーズした。
「座るぞ?」
香川は許可を得る前にパイプ椅子に座った。座り心地が不満なのか、顔を顰めながら何度も座面を尻で押す。椅子の軋む音が鳴った。
「ったく。何でお前ばかり高そうな椅子に座って、こっちは安物で我慢しなきゃならない? お客様だぞ?」
我に返った寒河は、顔一面に憎悪の色を表し、香川を睨みつけた。
「立派なものを拵えてもすぐに破壊されるからだ。安物に変えてからのほうが物持ちがよくなった」
「客へのもてなしより自己都合か」
「勘違いするな、ここで提供するのは情報だけだ。快適な空間はサービスに含まれていない」
「なるほど、物置きだもんな」香川が鼻を鳴らした。「客を物置きに閉じ込めるなんぞ、どうかしている。椅子の前に、そのふざけた名前を変えろ」
「マスターに言ってくれ。漸義会の名を絶賛していたマスターにな」
「漸義会と呼び始めたのは栗原だ」
「あの真面目そうな青年か」
寒河が自身のグラスに酒を注ぐ。香川が物言いたげな視線を送るが、寒河は頑なに席を立とうとはしなかった。
「それで? 何の用だ。花山だったら他を当たれ。それとも、この間の提案の件か?」
寒河は投げやりに訊ね、グラスの酒を一気に飲み干す。
「そういえば、そんなのもあったな。まぁいい」
香川はワインを一瞥すると、前のめりになった。
「池一三課の異保官のデータが欲しい」
力加減を誤って置かれたグラスが、大きな音を立てた。寒河は大きく見張った目を香川に向ける。
香川は机の上で手を組んだ。
「この間の定期市の件がどうも引っ掛かってな。場所は毎度変動、スパンもまちまち。だからこそ今まで異保に見つからなかったわけだが、あの日は違った。よりにもよって、件の奇臓を取引するはずだった日に、白髭の爺さんが捕まった。不自然だと思わないか?」
「何者かが異保に入れ知恵した、そう思ったわけか」
寒河がつまらなそうに零し、さらに続けた。
「闇市や売人の事情に精通し、かつ異保に密告する動機を持つ人物。確かに一人存在するな」
「異保に告げ口したのは奴で間違いない。問題はどうやって吹き込んだかだ。わざわざ匿名でやる意味はないし、一昨日時点で異保は花山を匿っている様子はなかった。つまり、異保という組織にではなく異保内の個人に伝えた。内通者がいる」
香川が仰々しく話をする前で、寒河は無遠慮に酒を注いだ。
「それで?」
「昨日、探偵を雇って調べてもらったよ。しかしまぁ、使えない連中でな。尾行に失敗しましたと抜かしやがる。しまいには『刑事役をやってる俳優さんのほうが上手いと思います』とまで――」
「訊きたいのはそれじゃない。いくら出せる?」
寒河の刺すような視線が、香川の目をまっすぐ見据えた。香川はとぼけたように瞬きを繰り返すだけで、答えようとしなかった。
寒河は舌打ちし、大きく溜息を吐いた。
「また脅迫か? めでたい奴だ、カネがなくとも暴力で何とでもなると思ってやがる。情報屋にとって信用は最大の要だ。たかが脅しでホイホイ口を割っていたら、商売が続かなくなる。潰れても構わないなら勝手にしろ、他に宛があるとは思えないが」
「蛇もハゲワシもみんな餓死した、誰かさんのせいでな」
「だったら金を出せ」
「払うつもりはない」
「なら帰れ。今すぐ」
寒河が目で圧力を掛ける。しかし、香川は金を出そうとも、席を立とうともしない。
寒河の眉間に刻まれる皺の数が増えていく。噛み締めるように閉じていた口を再度開き掛けたそのとき、香川がきっぱりとこう告げた。
「金など出さなくても、お前は口を割る。そうだろ?」
寒河の怒り顔の中に動揺の色が浮かんだ。
香川が含み笑いを浮かべ、面白がるように覗き込んだ。寒河はごまかそうと、わざと苦々しい表情を繕った。
「何を言っている?」
「とぼけるなよ。お前、風嵐を避けてるだろ?」
寒河の顔は一瞬にして恐怖に歪んだ表情に変わった。
「何言ってるんですか、香川さん。さっき『たかが脅し』って言ってた奴が、俺にびびってるわけないでしょう。ねぇ、情報屋さーん?」
風嵐がわざとらしい口調でそう言い、寒河に詰め寄る。寒河は背もたれに身体をぴったりと押しつけながら、相手を視界に入れないよう俯いた。
風嵐は椅子の背もたれを掴み、向かい合わせになるよう回した。顔を背けようとする相手の髪の毛をぐっと引っ掴み、目を合わせる。
「おいおい、目ェ閉じんなよ。そんなに俺の顔がブサイクって言いたいのか? え?」
寒河は薄っすらと目を開け、耐えるように奥歯を噛み締めた。手すりを掴む両手は小さく震え、汗ばんでいる。
「ウケる。輪姦される前の処女じゃん、この反応」
風嵐の口角が不気味に吊り上がった。再度髪を引っ張り上げ、額を突きつける。
「ほら、言ってみろや。情報欲しけりゃカネを出せってな。」
寒河の瞼の隙間から覗く瞳は、微かに潤んでいた。口は力なく開いたまま動かない。
風嵐はほくそ笑むと、勢いよく寒河の首を絞めるように掴んだ。次の瞬間、寒河の身体がビクンと大きく跳ねた。
「風嵐、何してる? 不要な攻撃はよせ」
ずっと傍観しているだけだった香川が、血相を変えて立ち上がる。しかし、寒河の表情は苦悶の顔から変わらない。香川は眉を顰め、無言の圧力を掛ける。
程なく、風嵐が電撃を止めた。両手を離し、椅子の上に投げ出す。
寒河は額に大粒の汗を浮かべ、ぐったりと椅子にもたれかかると、荒い呼吸を繰り返しながら香川のほうを向いた。
「要求は呑む。その代わり、彼に離れるよう言って欲しい」
「あ? んだと?」
風嵐が乱暴に寒河の胸倉を掴んだ。
「また痛い目見たいか? この野郎」
「いい加減にしろ、風嵐」
胸倉を掴んでいた手の力が弱まった。寒河がほっと息を吐いたその瞬間、強力な電流が全身を駆け抜けた。呻き声を漏らし、椅子の上に崩れ落ちる。
風嵐は清々しい顔で香川のほうに向き直った。
「すんません。つい遊んじゃいました」
悪びれる様子もなく、笑いながら報告する。
香川は無表情のままだった。風嵐の顔から次第に笑みが引き、口が閉じられる。
「出ていけ」
無慈悲な命令が下された。風嵐は鳩が豆鉄砲を食ったような顔を浮かべるも、すぐに猛禽類のような目で香川を睨み、わざとらしく足を踏み鳴らして立ち去った。
ドアの閉まる音がうるさく響いた。香川は申し訳なさそうに寒河のほうへ向き直った。
「すまないな。軽くけしかけるつもりが、予想以上に効いてしまったらしい」
「ペットを連れ出すのは躾が済んでからにしろ」
寒河がハンカチで汗を拭う。香川は困ったように笑った。
「まぁ、あいつもいなくなったことだ。物も言いやすくなっただろう」
「その通りだな」ハンカチが机に投げ出された。「情報が欲しけりゃ金を出せ」
途端に、香川の顔から温度が消えた。感情のない目が、何を訴えるでもなく寒河を見る。
「わかった。金は出そう」
香川は荷物を持って立ち上がった。
「ただし、風嵐の前でもう一度同じことが言えたらな」
パイプ椅子が蹴り飛ばされ、机に衝突する。香川は背中を向けて、ドアのほうに向かった。
寒河は苦虫を噛み潰したような顔で俯きながら、机の上で拳を震わせていた。
香川の手がドアノブに触れようとしたとき、スマホの通知音が鳴った。香川はズボンのポケットからスマホを取り出し、画面を確認する。差出人不明のデータファイルの共有を訊ねるメッセージが表示されていた。
「パスは?」香川が振り向きざまに訊く。
「60u1u8oi2ou3kbjbbB――最後のBだけ大文字だ」
寒河は項垂れながらも、一文字ずつはっきりと告げた。
香川は踵を返し、聞き取った文字を入力しながらパイプ椅子に腰を下ろした。無事にファイルが開かれたところで、さっと目を通してはスワイプしていく。
ある異保官のデータが目に留まった。香川の指の動きが止まる。
「こういうのは大抵、新人が怪しかったりするものだ」
スマホが机の上に投げ出された。寒河が覗き込む。
狭山杏夏のデータだった。経歴を見ると、地方の一短大を卒業後に訓練学校で一年寄宿生活を送り、今年池袋に配属されたことがわかる。
寒河は難しい表情でこう告げた。
「花山と接触する機会がまったく見当たらないが?」
「そこが落とし穴だ」香川が自信満々に言う。「怪しまれないように、経歴詐称しているに違いない。叩いてみる価値はありそうだ」
香川は椅子を引きずり、立ち上がる。礼と別れの挨拶を兼ねるように右手を振り、部屋を出た。
ドアが静かに閉じられた。寒河は急いでスマホを取り出した。