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番犬と狐  作者: 汐越陽
4/19

4.

「おはようございます」

掃除を終えた狭山が、声を潜めて挨拶した。

「おはよう」

碓氷も同じ調子で返す。そこで初めてオフィスの中が異様に静まり返っていることに気づいた。

「例の事件の捜査、進展はあった?」

「いいえ、何も。班長はどうですか?」

碓氷の頭に花山勝の名前が浮かぶ。だが、口にすることはできなかった。

 突然、オフィスのドアが勢いよく開いた。

 入ってきたのは、野崎とコンビニ勤めらしき男性だった。野崎は面倒そうに溜息を吐くと、ぐるりと室内を見渡した。碓氷を見つけたところで、視線が定まる。

「碓氷。来い」

指名を食らい、碓氷は無言で席を立った。野崎たちと一緒に取調室へ入る。

 男性は五年前に脱退した元安地組の構成員だった。今は区内のコンビニでアルバイトをしているという。

「今朝、ゴミ箱のゴミ出しに行く途中男の人に声を掛けられました。花山さんが漸義会の香川たちに命を狙われている。異保に伝えたいが、自分はできないので代わりに行って欲しいって言われて――」

どうやら、野崎が捕まえたわけではなく、男性のほうから異保局に駆け込んだようだ。

 男性は落ち着かない様子で、顔を強張らせながら貧乏揺すりを続けていた。

「声を掛けてきた男というのは、どんな奴だった?」

話の途切れ目で野崎が訊ねる。

「マスクで顔隠れてたからわかりませんが……何でそんな質問を?」

「信用できるかどうかの判断材料になる。顔以外にもあるだろ。年齢、身長、服装」

 男性の貧乏揺すりが止まった。

「それって、確証がなきゃ動いてくれないってことですか?」

野崎は困ったように口ごもる。

「僕が花山さんを慕ってたことを知ってたんですよ? 花山さんの味方に違いない!」

男性が机を叩きながら強い口調で告げる。相変わらず野崎は遠い目をしながら腕を組み、碓氷は記録を取る以外の余計なことはしようとしなかった。

 取り調べが終わり、碓氷は席に戻って調書を睨んだ。

 男性に声を掛けた男。掛けられた当人は花山に近しい人物だと思い込んでいるようだが、碓氷の脳内にちらついたのは某バーの奥で佇む胡散臭い情報屋の姿だ。

 大きな溜息が漏れた。どうやら彼のお節介により、異保は花山保護に舵を切ることになりそうだ。

「それにしても不思議ですね」右隣から、調書を覗いていた狭山が零す。「どうして花山自ら助けを求めに来ないのでしょうか?」

「あー、確かに」

碓氷の左隣から同意の声が飛ぶ。若手異保官、大橋(おおはし)(あゆむ)だ。一見色白でデスクワークが似合いそうな公務員風の顔立ちをしているが、目つきだけは本職の人間顔負けの凶悪さを放っている。

「とっとと異保に匿ってもらったほうが、変に一人で逃げ回るより楽だし安全ですよね」

両隣で部下二人が首を傾げる中、碓氷は険しい表情を浮かべ、調書を机の隅に置いた。

「難しいんだと思う」

二人の目が碓氷のほうを向いた。さらに、

「ほう。何故だ?」

ちょうど資料を片手にやってきた野崎が、背後から訊ねた。

 碓氷は椅子を回転させ、後ろを向いた。

「昨日の聞き込み中、不審な人物に尾行されました。花山と異保が接触できないよう、香川が監視させているのではないでしょうか。花山が見つかればすぐに伝わるでしょうし、最悪その場で襲撃されます」

「なるほどな」

野崎は納得したように頷いた。気に入らない部下の意見も、正しいと思えば受け入れる。それがこの男だった。

「それで、課長。何の用ですか」

「花山について聞き込みに行って欲しい。お前たち三人は、この二か所だ」

野崎がバインダーから一枚リストを抜き取り、碓氷に手渡した。碓氷はさっと目を通し、蛍光色のラインが引かれている行を見つける。

「異能研の被験者収容所と、不動産仲介会社ですか」

「そうだ。特に被験者収容所は、来月から世話になる誰かさんの職場見学にもなるし、良いと思ってな」

野崎はバインダーで自身の肩を叩きながら、その場を去った。

 碓氷はリストを膝に下ろし、二人の部下にこう告げた。

「私と大橋で不動産、収容所は狭山に任せる」

再び椅子を回転させ、狭山のほうを向いた。

「何かあったら、すぐに連絡ちょうだい」

「わかりました」

狭山が頷いた。しかし、

「いやいやいやいや、ちょっと待ってください」

すかさず大橋が止めに入った。二人は不思議そうに振り向く。

「狭山さん一人で異能研っておかしいですよ。どうかしてません?」

「何が? 厳重に管理されてる囚人に話を聞くのに、二人もいらないと思うけど」

「いやいやいやいや。でも配属されたばかりの新人ですよ? 一人で向かわせますか普通? 抑止剤打たれて拘束された状態で監視もついてるとはいえ、相手は元犯罪者ですよ? それも、実験に選ばれるような強力な能力者」

「狭山は異論ないみたいだけど」

碓氷が、狭山の顔色を窺った上で答える。

「上司に反論できる新人なんて、滅多にいませんから!」

大橋が呆れ果てたように溜息を吐き、肩を落とした。

「これ以上話しても無意味そうなので。俺と狭山さんで異能研行きます。班長なら一人で問題ないでしょ、どうせ強いんだし」

大橋は、さらなる議論を拒絶するように眉間に皺を寄せながら目を閉じ、腕を組んだ。

 碓氷はさっそく席を立ち、決まり悪そうに俯く狭山の後ろを通ってオフィスを出た。



 外の壁に貼られた物件紹介の数々に対し、店内は殺風景だった。奥にカウンターがあるだけで、場所だけ買い取ってそのままの状態に等しい。何なら店員の姿すら見えない。

「異保です。話を伺いに来ました」

声を張って呼び掛けてみても、返事はなかった。カウンターの奥に関係者専用部屋らしきものが見えるが、来客に気づいていないのかもしれない。

 碓氷が扉に近づくと、覗き窓に「御用の方はこちらへ」と貼られているのが確認できた。カウンター席を跨ぎ、扉をノックする。

「失礼します、異保ですがどなたかいらっしゃいますか?」

やはり返事はない。どうも留守のようだ。最後にダメもとでノブを回してみる。

 扉が開いた。驚きのあまり一瞬手が止まったが、一気にドアを全開にした。

 表の店舗部分よりも遥かに広い部屋だった。ベッドや机などの家具から拘束具等の小物が隅に寄せられており、奥には撮影機材が揃っていた。どう見ても撮影スタジオだ。

「よいしょ」

端のほうから声が聞こえた。ラフな格好の男二人が、ソファーを運んでいるところだった。

 黒ジャージの男が肩のタオルで額の汗を拭うと、ワイン色のTシャツを着た男が碓氷のほうにやってきた。

「異保官さんですか。お待たせしてすいませんねぇ」

「こちらこそ、突然押し掛けて申し訳ないです。ここでは一体何を?」

「見ての通り、休憩ですよ。ほら。ベッドもあるでしょ?」

「ソファーを運んでいたようですが」

碓氷が訝しむように眉を顰める。

「相方がねぇ、部屋のど真ん中で休みたいって言うもんで」

Tシャツの男は、ニヤニヤ笑いながら不自然に距離を詰めてきた。

 不意に、男の手が首に伸びてきた。碓氷は反射的に手を払い、鳩尾に蹴りを見舞う。Tシャツ男が背中から倒れると、もう一人の攻撃に備えて身構えた。

 黒ジャージの姿は消えていた。

 碓氷は部屋中に視線を這わせながら、右腕を強く振った。たちまち手の中に鉄パイプが生成された。両手で刀を構えるように持ち、神経を研ぎ澄ませる。

 左後方から人の気配を察知した。瞬時に身を翻し、鈍器を振るう。呻き声が聞こえたかと思うと、何もない空間から黒ジャージが姿を現し、床に蹲った。

「番犬サマには敵わねえ」

Tシャツの男が自嘲気味にそう言い、両手を挙げる。黒ジャージも同様にして、無抵抗の意を示した。

 碓氷はパイプを投げ捨て、能力抑止剤を取り出した。黒ジャージの前に屈み、右腕に薬剤を打ち込む。

「最近、漸義会の花山って男がここに来なかった?」

注射器の中の液体が尽きそうになっても、相手の返答はない。

「花山について、誰かから話を聞いたことは?」

なおも返事はない。注射針を抜き、針の始末を済ませて手錠を掛ける。金具の音がはっきり耳に届いた。

 続いて、Tシャツの男に抑止剤を打つ。

「漸義会の花山が――」

「さぁな」

「花山について――」

「知らねぇ」

 注射針を引き抜いた直後、男の顔面を蹴りつけた。男は叫びながら仰向けに倒れる。

 碓氷は、相手が立ち上がろうとする間に注射器の処理を終え、胸倉を掴み上げた。

「最近、花山がここに来なかった?」

強い口調で最初の質問を訊き直す。今度は真面目に答えた。

「漸義会の連中はここに来ない。花山さんも安地組を出てからは来ていない」

「何か噂を聞いたりは?」

「ないな。ここに来る輩は、漸義会の話をしたがらないから」

残念ながら、有力な情報は望めないようだ。碓氷はTシャツの男の両手に手錠を掛けた。

 鍵の音がしなかった。

 突然、背後から口元を押さえられた。さらに複数の手が、碓氷の両腕・肩・腰・脚などを掴み、身動きを封じようとしてくる。

 碓氷は身体を激しく揺らし、拘束を振り解いた。なおもしつこく捕えようとする手を蹴り飛ばし、よろめきながら見えない敵の集団から距離を置く。急いで新たな鉄パイプを生成し、敵のほうを向いて構えた。

 敵が姿を現した。ざっと十人程の全身黒ずくめのフェイスマスクをした集団だった。今にも襲い掛かってくる様子はなく、静かに碓氷を見ていた。

 碓氷は真ん中の敵に狙いを定めようとした。しかし、視界がぐわんぐわんと動くせいで焦点が一向に合わない。

 異変は目だけではなかった。肢体の倦怠感と動悸、息苦しさを覚え始める。不調はだんだん強まっていき、とうとう持っていた鉄パイプを支えにしなければ立っていられなくなった。

 口元を押さえられた瞬間が頭を過る。麻酔を吸わされたか。

 碓氷は暴漢たちに視線を保ったまま、通信端末の側面に指を這わせた。すぐに、小さな出っ張りを探り当てた。異保官たちの間では「赤ボタン」の名で知られている、異常事態通報システムだ。緊急時に長押しすると、最寄りの異保局に援助要請が届く。

 躊躇うように、指が何度も空気を弾いた。いったん動きが止まると、ついに指紋ひとつない赤ボタンに触れた。

 右手が端末から離れ、シャツの胸ポケットをまさぐった。中から赤い御守袋が現れる。しかし直後、御守袋はポケットの中に戻っていった。

 ――何をしてるの、私は。

 十年間、兄を死なせてしまったことへの罪悪感を古傷に変えないようにしてきた。強い自分になるため、鞭打ち続けた。それを、ここで無下にするというのか? 能力増強剤に甘んじるなど、弱い人間のすることだ。弱い自分は許せない。

 空の右手が、改めて集団のほうを向いた。視界がぼやけ、足元は不安定な中、残った気力で金属弾を放った。

 集団全体に無数の弾が飛んでいくはずだった。現実は、BB弾のような金属片がひとつ射出されただけだった。しかも、敵に届く前に床へ落下した。

 碓氷の表情が凍りついた。

 心音が激しく時を刻み出す。冷たい穴に蝕まれるような感覚が、胸の中心から全身に広がっていく。同時に、記憶の奥深くで眠っていた感情が呼び起こされていった。

 長らく忘れていた生物の本能――死の恐怖だ。

 麻酔と恐怖に心身を支配された碓氷が動けなくなると、様子見に徹していた暴漢たちは、ようやく動き出した。

 不鮮明な視界の中で、黒い壁がじわじわと迫りくる。

 碓氷はただ震えて待つことしかできなかった。杖代わりの鉄パイプが左右に大きく揺れ、傾きそうになる。

 そのとき、部屋の入口からノック音が響いた。全員がぴたりと静止する。

 暴漢たちは顔を見合わせた。まもなく、一番大柄な者が様子を見に行った。

 碓氷は、通信端末の赤ボタンを見下ろした。異保の増援にしては、些か来るのが早すぎる。だとすれば、敵の増援か。心臓が床へと沈んでいくような感覚がした。

 まもなく、こちらに近づいてくる足音に気づき、碓氷は顔を上げた。額には玉になった脂汗がびっしりとこびりつき、顔全体を染める絶望色をごまかしていた。

 視界に入ったのは、弱々しく両手を挙げながら帰ってくる大柄の暴漢の姿だった。もう一人いる。黒ずくめを盾にして立つ黄土色のトレンチコート。じっとりした目つきで不気味な笑みを浮かべる猫背の男。

「ほう。仲間には攻撃しないのか。最低限の良心はお持ちのようで」

寒河証は、グレーの中折れ帽のつばを軽く持ち上げ、ほくそ笑んだ。

 次の瞬間。大柄の暴漢が仲間に向かって右掌を向けた。

 床の一部が凍り始め、集団の足元へ広がっていった。暴漢たちはすぐに逃げようとしたが、間に合わなかった。足を氷塊に捕えられたかと思うと、あっという間に膝まで侵食された。

 大柄が手を挙げた。虚空に無数の氷針が出現する。逃げ足を奪われた集団は、粘着シートに捕らわれたネズミのように無意味な抵抗を始めた。

 腕が下ろされた。

 氷針が容赦なく降り注ぎ、集団の頭、胸、腹と全身を貫いていく。成す術もなく、暴漢たちは足に続いて、命を奪われた。

 大柄が我に返った。仲間たちの無惨な姿を目の当たりにして、呆然とする。そこに、

「お勤めご苦労」

後ろから寒河が優しく肩を叩いた。

 すべてを察した大柄は、おろおろと左腕を上げると、自らのこめかみに人差し指を向けた。

 大柄が倒れた。光を失った碓氷の目が、床に転がる死体を捉える。その瞳孔には、微かに畏怖の色が表れていた。

 寒河が、碓氷の目の前までやってきた。帽子を取り、前屈みになる。

「返事を聞きに来た」

ブラックホールのような黒い瞳は、牙を剥かず静かに返事を待っていた。

 碓氷は唇を噛んだ。

 絶体絶命の危機に追いやられるという醜態を晒してしまった以上、自力でどうにかするという回答は通用しない。それ以前に、碓氷自身が己の実力不足を痛感していた。今回のようなことがまた起これば、被験者収容所へ飛ばされるより先に鬼籍入りしてしまう。

 碓氷は口を窄めて息を吸った。苦痛に耐えるように、眉間に皺が重なる。

「あなたが来てくれなかったら死んでいた。だから――」

碓氷の声が止まる。続く言葉は頭に用意してあるのに、喉を通っていかなかった。言ってしまったら、己の弱さを認めることになる。それがこんなにも重苦しく、勇気のいることだとは思わなかった。

 碓氷は、プライドを握り潰すように拳を強く握り、噛み締めていた唇を開いた。

「力を貸して欲しい」

 寒河の口元が小さく綻ぶ。

「承知した、碓氷異保官」

返事の最中、碓氷の身体が傾いた。寒河がすかさず抱え止める。

「ごめん、なさい」

「少し休んだほうがいいな。失礼するよ」

寒河は、碓氷の左腕を自らの肩に回すと、歩調を確かめるように壁に向かって歩いた。

「その呼び方、長いから、碓氷でいい」

途中、碓氷が萎れた声で告げた。わずかな沈黙の後、寒河が軽く噴き出した。

「そうだな。承知した、碓氷。確かにこっちのほうがしっくりくる」

寒河は目を閉じ、何か懐かしむように穏やかな笑みを浮かべた。

 壁際まで来ると、碓氷は壁に背中を預けるようにして座らされた。心地よい冷たさが身体に伝わり、少しずつだが活力が戻ってくる。

 寒河は背中を向け、床に鎮座するTシャツの男のほうへ歩き出した。

「待って」

碓氷が呼び止める。寒河の足が止まった。

「ひとつだけ。どうしてここがわかったの?」

 寒河は、背を向けたまま答えた。

「異保証だ。裏面に解答が載っている」

 碓氷は上着ポケットからカードケースを取り出した。中の異保証を引き抜き、裏返す。見慣れないシールが貼られていた。暗緑色ベースに、ランダム生成されたであろう白の文字列が記されている。

 以前、これとそっくりなものが異保内で共有されたことを思い出した。位置情報チップだ。海外から密輸されたものが裏で出回っており、ここ一・二年の間に急速に普及したという。そのときの講座で紹介されたURLが手元に残っていた。碓氷はスマホのメモ帳アプリに残したURLから、サイトにジャンプした。

 いかにも素人が作成したような簡素なページが表示された。上部の検索窓に、異保証の貼られた文字列を入力する。隣のOKを押すと、画面が切り替わった。無駄に色鮮やかなマップが全画面表示された。地名はすべて横文字だが、よく見るとIkebukuro(池袋)」や「Toshima City Hall(豊島区役所)」、「Sunshine Cityサンシャインシティ」と身近な場所ばかりだ。

 その中に、一際目を引く赤い点があった。拡大してみると、碓氷の現在地を示していた。

 碓氷は位置情報チップを一瞥し、幻滅した顔で寒河を見る。当の本人は気づく由もなく、Tシャツの男に詰問を始めていた。

「黒ずくめはここの者ではないようだが。君らが呼んだのか?」

「番犬に襲われたからな」

「それにしては、来るのが早すぎやしないかね?」

男は目を泳がせながら黙り込んだ。寒河は訝しそうにしていた目を、さらに細める。

「まぁいい。君の頭に直接訊くとしよう」

 寒河の右手が、Tシャツの男の顎を軽く持ち上げた。男は反射的に顔を背けようとしたが、すかさず左手で押さえつけられ、顔の向きが固定された。

 男の怯える目を、暗闇を宿した瞳がしっかり捉える。今にも憑依が始まろうとしているのがわかった。

 そのとき、外からサイレンの音が聞こえてきた。異常事態通報システムを受けた異保がやってきたのだ。

 寒河の手から男が解放された。男はふらふらとその場で崩れ落ちる。

 寒河はコートを正し、碓氷のほうを振り向いた。

「先に失礼するよ」

「帰るの?」

「個人間の契約だ、異保に協力するつもりはない。無償労働は大嫌いなのでね、取調べは遠慮させてもらうよ。何かあったら連絡する。それでは」

宣言通り、寒河はその場を後にした。残された碓氷が、ぽかんとその後姿を見つめる。

 まもなく、応援が到着した。緊迫した面持ちで突入してきた異保官たちは、明らかに事態が収まった光景を目の当たりにすると、途端に困惑した。

「これ、お前がやったのか?」

野崎が碓氷と死体を交互に見ながら恐々と訊ねる。碓氷は返答に迷いながらも、頷くことにした。口外しないほうが、おそらく寒河本人のためでもあると思ったからだ。幸い、黒ジャージとTシャツ男から突っ込みが入ることはなかった。

「こりゃたまげたな」

野崎が感嘆の声を漏らす。その一方で、大きな溜息を零す者もいた。

「聞き込みをわざわざ中断して来たってのに、何だこれは?」

茶色がかった丸刈りで、はっきり二重の細身高身長。碓氷の同輩・中崎(なかさき)竜也(たつや)だ。

「ひょっとして、有能アピールするためにわざとやったのか? はぁ、忙しいときに勝手に巻き込みやがって。自己中な同僚なんて持つもんじゃねえな」

直接言うでもなく、本人に聞こえる声でわざと吐き捨てる。そんな彼に、隣にいた若い男性異保官が遠慮がちにこう言った。

「中崎班長。そういうのは、その、あまり言わないほうがいいと思います」

「あ……そうだな。悪い」

中崎は部下にだけ謝罪し、ばつの悪そうに黙り込んだ。

 中崎以外誰一人として文句を零さなかったものの、冷たい目線や些細な挙動・態度から、少なからず不満を抱いているのはひしひしと伝わった。碓氷は居心地の悪さに肩を窄めた。

 二人の男が護送されるのを見送ったところで、野崎がやってきた。

「碓氷。赤ボタン押したってことは、タダじゃ済まなかったんだろ? 医者に診てもらえ。その後、お前にはネズミ駆除を頼みたい」

ネズミ駆除。そのままの意味ではなく、異保周りを嗅ぎ回る香川の手先を指しているのは明らかだった。

「わかりました」

碓氷は頷き、部屋を出ようとした。

「待て。医者までなら送ってやるぞ?」

「結構です。もう動けますし、時間もありませんので」

碓氷はきっぱりと断り、部屋の扉をぴしゃりと閉じた。

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