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番犬と狐  作者: 汐越陽
3/19

3.

「前も言いましたけど、最後に香川さんがうちに来たのは三月末でした。桜の話で盛り上がったので」

心底面倒そうに聴取に応じるのは、西池袋三丁目の飲食街に個人店を構える男性だ。頭には寝癖が残っており、上下ちぐはぐな色のジャージを着ていた。朝早くからわざわざアパートにまで話を聞きに来た碓氷を寝ぼけ眼で睨んでいる。

「桜の話以外には何を?」

部屋の前で質問を続ける碓氷の背後をアパートの住民が通り過ぎていく。

「言いませんでしたっけ? お礼ですよ。安地組から恐喝がなくなったって」

碓氷は通信機の画面に触れ、以前の聴取資料を開いた。

「安地組に地代を要求されていたようですね。それが、半年前に香川から『払わなくていい』と言われた」

資料の内容を読み上げながら、彼女の目は「半年前」の単語を捉えて静止した。

「香川さんの言う通りにしたら、安地組の連中に脅されるようになったんです。だから香川さんに相談して、お金出す代わりに用心棒してもらいました。それで恐喝が消えたんです」

概ね資料通りだった。碓氷は険しい顔を男性に向け、口を開こうとする。

「異保官さんが言いたいことはわかりますよ、私だって理解してます。でも、安地組に払ってた額より遥かに少ないですし……」

「いえ。私が気になったのはそのことではなく」

 男性は面食らったように瞬きを繰り返した。

「いくつかあるんですが。ではまず、恐喝に来た安地組組員の様子はどうでしたか?」

「どう? ああ、そりゃもう凄まじかったですよ。何が何でも金をブン取ってやるって気概が見え見えでしたから」

「香川が安地組から脱退した経緯について、何か聞いたことはありますか?」

「いいえ。辞めることになったとしか」

「そうですか」

碓氷の硬い表情が崩れることはなかった。

「朝早くからお時間をいただき、ありがとうございました」

碓氷は頭を下げ、その場を後にした。

 休憩を挟むことなく聞き込みを続け、空と地上の明るさが逆転した頃、ようやく時間の存在を思い出した。全身の疲労がどっと押し寄せてくる。それでも碓氷は、コンビニでパンを一個買うだけだった。パンを齧りながら得た情報を脳内でまとめ、次の聴取先へ向かう。

 何度も出てきた「半年前」というキーワード。宇都宮の結婚と事務所独立。香川の安地組脱退。さらにもうひとつ見えてきたのが、安地組の急速な衰退だ。直接関連していそうなのは、香川の脱退だろう。しかし、それだけが原因ではない気がするのだ。

 強大な金づるの損失があったとしたら。例えば、後援している事務所の顔と言うべきアイドルが、事務所を脱退したら。安地組の衰退ぶりは納得できるし、宇都宮が失踪する直前に脅迫に来ていたという話も頷ける。

 ただし、疑問もひとつ生じる。これまでの聞き込みから、香川と安地組は対立関係にある。安地組を窮地に陥れた宇都宮の事務所脱退は、香川からすれば美味しい話のはずだ。しかし、宇都宮殺人の嫌疑が掛かっているのは香川のほうである。この拗れは何なのか?

 碓氷はパンの袋を捻じって小さくし、近くのコンビニ前のゴミ箱に入れた。

 目の前のガラス窓に反射した映像の中に、怪しい人物が見えた。黒のニット帽を深く被ったグレーのスーツ姿の男。後方の木の下で新聞を広げながら、明らかに碓氷の様子を窺っている。

 あまりにもあからさますぎる尾行に不信感を覚えながらも、碓氷は堂々と男のほうへ近づいた。男は震えながら、しばらく碓氷と新聞の交互に視線を這わせていたが、距離が縮まると、新聞紙を投げ出し逃走した。

 碓氷は迷わず後を追った。男を見失わないようにしながら、人混みを掻き分け進んでいく。とうとう男は逃げられないと悟ったのか、車道を走る一台のバス目掛けて植物の弦を放った。サイドミラーを捕え、ぐるぐると巻きつく。

 男の身体は弦によって引っ張られ、バスの車体に貼りついた。

 碓氷は近くのタクシーを止め、通信機で異保証を提示した。

「あのバスを――男を追ってください」

 タクシーが発進した。やや強引な運転でたちまちバスとの距離を詰めていく。

 男は安堵の表情を浮かべていたが、後続のタクシーに碓氷が乗っているとわかると、途端に焦り始めた。周囲をきょろきょろと見回し、急げとでも言うようにバスの車体をガンガン蹴る。バスの速度は変わらなかった。一方で、タクシーは並走しようと加速する。

 碓氷はいつでも降りられるよう、シートベルトに手を掛けた。

 突然、フロントガラスを巨大な蔦が叩いた。驚いた運転手が急ブレーキを踏む。幸い、碓氷たちとタクシーの車体は無傷だった。しかし、男を乗せたバスとの距離は一気に遠ざかってしまった。

 すぐにタクシーが追い上げようとするが、敢えなく信号に捕まった。バスは、次の交差点で右折した。

 信号が青に変わると同時に、タクシーが動き出した。交差点まで飛ぶように直進し、右折する。

 バスの後姿が見えた。だいぶ離れてしまったが、頑張ればまだ追いつける距離だ。

 タクシーは勢いよく加速し、あっという間に間隔を縮めていった。

 しかし、肝心な男の姿はどこにもなかった。碓氷が眉を顰めたのに合わせ、タクシーが減速する。

 碓氷は辺りを見回し、男を探した。通行人の中に、黒のニット帽姿は紛れていない。

「見失っちゃいましたね。すいません」

タクシーが完全に停止したところで、運転手が言った。

「いいえ。むしろ、お仕事中のところご協力いただき、ありがとうございました」

「どうしましょう? その辺走ってみましょうか?」

「大丈夫です」

碓氷はある一点を見つめ、きっぱりと返答した。

「ここで降ります」

 タクシーを降り、碓氷は顔を上げる。視線の先には、ネオンライトで光る「vertical bar」の看板があった。





 掛けられた「OPEN」の札が揺れ、扉が開く。

 薄明かりの照明と洒落たBGMに迎えられた。入口から向かって右側にはテーブル席が、左側にはカウンター席が並んでいた。

 碓氷はカウンター席のほうへ進んだ。一番手前の空いている席に腰を下ろすと、胸の内ポケットから黒の折財布を取り出した。

 まもなく、他の客と談笑中だったマスターがやってきた。三十歳前後のあっさりとした顔立ちの生真面目そうな男性。昨日、トレンチコートの男とこの店に入っていった人物だ。

「ご注文は?」

「これを返しに来たんですが」

 マスターの目がテーブル上の財布を捉える。どうやら持ち主に思い当たった様子だったが、

「ご注文は?」

同じ質問を、語調を強めて繰り返すだけだった。碓氷は仕方がなく、唯一記憶している名前を告げた。

「シャーリーテンプルで」

 マスターがカクテルを作る間、碓氷の隣に会社帰りの上司と部下らしき男性二人組が座った。

 程なく、碓氷の前に赤橙色のカクテルが置かれる。

「シャーリーテンプルです」

隣に伝票が伏せて置かれた。

 碓氷がノンアルコールカクテルを飲み始めると、マスターは隣に座る上司らしきほうの男性に声を掛けた。

佐藤(さとう)さん一週間ぶりですね。そちらの方は、お勤め先の後輩さんですか?」

「ええ、バーに行きたいって言うんで連れてきました」

「初めまして、マスター。バーティカルバーって変わった名前ですね」

「私がつけました」

マスターと二人が和やかに話す傍ら、碓氷は無表情でグラスの中身を飲み進め、伝票を見た。

『関係者トイレからまっすぐつきあたり 綺麗な物置き』

料金の代わりに、丸みを帯びた癖字でそう綴られていた。

 碓氷は驚いたように店内を見回した。カウンター席の左奥に、『関係者トイレ』が存在した。空のグラスをテーブルに置き、伝票を片手に立ち上がる。

 扉の前に立つと、碓氷は半信半疑でドアノブを引いた。

 まるで夜の病院のような、無機質な通路が現れた。扉が閉じると同時に、不気味な無音に包まれる。歩き出すと、微かに残響を帯びた足音が聞こえ始めた。

 突き当たりまでやって来ると、左右にひとつずつ部屋が確認できた。右側は、伝票の字と同じ筆跡で書かれた赤い文字『危険な空室』のプレートが掛かっていた。対し、左側は『綺麗な物置き』と印字された紙が貼られている。

 碓氷は左側の部屋の前に立ち、ドアを三回、ゆっくり叩いた。

「どうぞ」

ドア越しに、昨日の男の声が聞こえてきた。

「失礼します」

碓氷は両手でドアを開いた。

 照明とともに、奥に構える大量の酒瓶が並んだ大型ショーケースが視界に飛び込んできた。

「昨晩ぶりかな、碓氷異保官」

白い壁に囲まれた十畳間の中心で、昨日会った男がデスクの上に手を重ねながら事務椅子に座っていた。怠そうな半開きの目に胡散臭い笑み。ただし疲労感は薄れ、乱れていた髪型や服装は整っていた。

 男の右手側にも作業デスクが置かれていたが、スペースの大部分をパソコンと周辺機器が占有していた。

 あまりに奇妙すぎる眺めに、碓氷は口を開いて唖然とする。

「わざわざ来ていただいて申し訳ない。だいぶお疲れのようだ、掛けるといい」

そう促され、碓氷は男と向かい合わせに設置されたパイプ椅子に腰を下ろした。入れ替わるように男が席を立ち、奥の冷蔵ショーケースのほうへ向かった。

「ワインと日本酒、どちらがお好みで?」

脇の棚からグラスを二本取り出し、ずらりと並んだ酒瓶を見つめる。

「結構です。用が済んだら帰るので」

「赤と白、お好きなのは」

 碓氷の眉がぴくりと動く。

「白で」

投げやりに答えると、男は気味の悪い笑みを浮かべて瓶を一本手に取った。

 男が席に戻ってくる。机の上に「白龍」と書かれた一升瓶とグラスが二つ置かれた。さっそく瓶が開封され、グラスに酒が注がれる。

「この部屋、ずいぶんと変わった名前ですね。マスターが考えたんですか?」

「その通り」

「向かいの部屋も?」

「無論」

「あっちには何が?」

「名前の通りだ、空室だよ」

 碓氷の前に、日本酒の注がれたグラスが置かれた。

「今はね」

男は薄笑いを浮かべながら、自分のグラスに酒を注ぐ。

「この部屋のレイアウトを考えたのも、マスター?」

「いいや、私だ」

「奥に並んでいるお酒は全部本物? 高そうなのもあるけど」

「本物だ、中身も入ってる」

「じゃあ、これも本物?」

酒瓶が床に置かれるのと同時に、机の上に身分証が載せられた。

 男の財布に入っていた異能力使用許可証だった。能力者とその能力にまつわる事柄全般を取り扱い、異保の上位組織でもある公的機関・異能省から発行される、特定条件下での能力使用を認めるものだ。記載された内容によると、この男の名は寒河証(かんごうあかし)、年齢三六歳、職業不動産賃貸業、アビリティは精神であるらしい。

 男は涼しい顔で酒を口に含み、こう答えた。

「れっきとした本物だよ、許可証そのものはね。お上に問い合わせてみるといい」

どうも引っ掛かる言い回しだが、問い合わせろとまで言うからには本物で間違いないだろう。碓氷は許可証を財布にしまい、改めて前に差し出した。

「何であれ、貴重品を丸一日預かってしまって申し訳なかったと――」

「ああ、構わないよ。そもそもこっちが一方的に押しつけたようなものだ」

寒河は財布を受け取ると、パソコン台のひきだしを開いて何かを取り出した。

「返ってくるとは信じていたが、万一のことを考えて担保を預かっていた」

渡されたのは、異保証だった。碓氷は大きく目を見開いた。まさか盗まれていたとは思っていなかった。それもそのはず、通信端末が浸透してからアナログの異保証が使用されることはめっきりなくなった。出番があるとすれば、端末の故障や充電切れのときぐらいだ。

「お陰で、異能省に潜ることなく新鮮なデータが手に入った」

寒河が含みのある笑みを浮かべる。

 碓氷は異保証を奪い取り、寒河を睨んだ。それから茶色いカードケースにしまいこみ、胸ポケットに入れた。

「私はこれで」

碓氷は勢いよく立ち上がる。

「おや? 取り調べはいいのかい?」

「急いでるので」

 裏社会が活発になる時間帯が始まろうとしていた。昨夜異保が捕えた白髭の老人のように、重要な鍵を握る人物が見つかるかもしれない。否、見つけようとするならこの時間帯しかない。

 碓氷の手がドアノブに触れようとしたそのとき、

「香川はある人物を探していた」

背後からそう告げられた。

 碓氷は伸ばしていた手を徐に引っ込め、振り向いた。部屋の中央で座る男は、首を傾げながら様子を窺っていた。

 碓氷はドアから離れ、引き返した。

「――何者?」

「その人物かい?」

「いいや。あなた」

碓氷は恐れ知らずの目で相手を視察した。この男と香川ないし香川の探している人物との関係によっては、提供される情報の意味合いが変わってくる。

 寒河は怪しい笑みを浮かべた。

「香川に限らず、ここに来る人間はすべて客であり、商品だ」

「情報屋――」

 寒河の口角がわずかに上がる。彼はグラスを手に取ると、碓氷に座れと促すようにパイプ椅子に目をやった。

 碓氷は再び席に着いた。

「香川が探してる人物って?」

質問したところで、思い出したように慌てて両手を振った。

「待って、先に情報料を――」

花山(はなやま)(まさる)、三一歳。香川と一緒に安地組を出た漸義会の一員だ」

寒河は面白そうに碓氷を見ながらグラスを軽く揺さぶった。アルコールが優雅に波打ち、顔を青くする女性を映す。

「生来のアビリティは炎だが、今は複能力(マルチ)。最低七つは持っている。感じのよさそうな外面の八方美人。安地組にいたときから各方面の組員に慕われていたが、一方で失敗には厳しく、組織内でもトップクラスの戦闘力も持っているため、恐れられてもいる」

「それで、香川が花山を探している理由は?」

「わからない」

あまりに潔い即答だった。寒河はさらに続ける。

「香川から直接聞くのは至難の業でね。勝手な印象からの憶測に過ぎないが、それこそ口止めのような良くないほうの理由に思えた。実際、花山も行方を眩ませている。親しい者でも連絡が取れないそうだ。かなり本気のかくれんぼだよ、ただ――」

からかい混じりの笑みが、途端に含み笑いへと変わった。

「花山を追えば、香川と接触できるかもしれない」

 碓氷の喉仏が上下に動いた。

 異保を警戒しているであろう香川を直に追うより、別の方向からアプローチするのも悪くない。それに、宇都宮・安地組・香川の三者の関係性には、拭い切れない違和感が存在している。花山が解決の糸口になる可能性は十分にある。

 碓氷は礼を言おうと口を開いた。しかし、寒河のほうが早かった。

「あくまで個人間の契約になるが、花山の身柄確保なら協力可能だ。どうかね?」

 碓氷は訝しげに相手の目を覗き込んだ。予想通りの反応だったのか、寒河は軽く鼻で笑い、こう続けた。

「自覚はないだろうが、昨夜君が来てくれたお陰で救われた。要は礼の代わりだ。対価はいらない」

次第に寒河の顔からは笑みが引き、真剣そのものに変わっていった。

 奇妙なことに、この男が嘘を吐いているようには見えなかった。とはいえ、相手が信用できることと、提言を受け入れることは別物だ。

「花山のこと聞かせてくれてありがとう、助かった」

碓氷は席を立ち、扉のほうに向かった。寒河は驚いたように顔を上げる。

「動機が不十分だったか? それとも信用の問題か?」

「話が聞けただけでも十分力になった」

「それで香川確保にありつけるなら構わないがね。結果を出さなければ、地べたを這いつくばった君の評価は上がらないぞ?」

 碓氷の表情が強張った。ドアを向いていた視線が寒河に移り、不気味なものでも眺めるように睨みつける。

「情報屋って、そんなことまで知ってるのね」

「失礼ながら、君の身体を乗っ取ったときに記憶を覗かせてもらった」

寒河が自身のこめかみをトントンと叩く。

 ブラックホールのような重々しい瞳。自我を蝕まれていく不快感。混濁。昨晩、意識を失った直前の出来事が紙芝居のように蘇る。

「不快にさせてしまったのなら申し訳ない」

寒河が目を伏せながら言った。

「いいや、大丈夫」

それでも碓氷は、部屋を出ようとする。

「まだ気懸かりな点が?」

「急いでるの。連休までに解決しないと、被験者収容所の監視に飛ばされるから」

「待て、何の話だ?」

寒河の顔に焦りの色が浮かぶ。

「今朝の話だから知らないと思う」

「一人で解決できる算段はあるのか?」

「間に合わなかったら、それが私の実力」

碓氷の右手がドアノブを握った。

「何故他人の手を借りようとしない?」

まだ続く寒河の質問に、碓氷は目でしつこいと訴えた。寒河は探りを入れるような目で睨み返し、こう訊いた。

碓氷日向(ひゅうが)の影響か?」

 碓氷の瞳孔が大きく開かれた。ドアノブを握っていた手が離れる。

 寒河は前のめりになると、机の上のグラスを隅に移し、空いたスペースに両手を重ねた。

「だとしたら、君の兄さんはとんでもない呪いを残していったな。如何せん、君は大きな誤解をしている」

「ああ、そう。私以上に兄に詳しいみたいね。流石情報屋」

碓氷が目に角を立てながら、嫌味混じりに言った。そして、ドアノブを握り直し、勢いよく扉を開いた。

 寒河が慌てて口を開く。

「最後にもう一度訊く、は――」

「考えさせて」

ドアが乱暴に閉じられた。『綺麗な物置き』と書かれた紙が衝撃でふわりと浮いた。

 心許ない蛍光灯が照らす暗闇の中、碓氷は足元を見下ろしながらずかずかと進んだ。腹の底から無限に湧いてくる苛立ちが、荒い鼻息となって排出される。

 小さい頃からの憧れで、この十年間背中を追い続けていた人物を、たった一度記憶を覗いただけの男から「呪いを残した」と揶揄される。その程度で怒りが込み上げるほど、碓氷日向は特別な人間だった。

 すべての始まりは二十年前だった。碓氷が九歳のとき、両親の結婚記念日のケーキとプレゼントを買いに、兄・日向と午後いっぱい出掛けていた。

 午後六時頃、二人は帰宅した。花束を抱えた碓氷が真っ先に家の中へ駆け込む。

「ただいま!」

返事はなかった。しかも異様に静かだ。

 碓氷は両親のサプライズだと思ったが、すぐに日向が怖い顔でこう告げた。

「凛月はここで待ってて」

兄の言いつけ通り、碓氷は玄関で花束をぷらぷら揺らしながら待った。

 一人様子を見に行った日向は、なかなか帰ってこなかった。痺れを切らした碓氷は、頬を膨らませながら居間に向かった。

「ひゅうくん、遅い!」

電話をしていた日向は、碓氷に気づくと大声を上げた。

「凛月、戻れ! こっちに来るな!」

しかしすでに遅かった。

 変わり果てた姿の両親が床で横になっていた。どちらもはらわたを抉り抜かれ、周りに黒い血溜まりができていた。

 花束が床に落下した。碓氷は愕然としながら、その場に崩れ落ちた。

 後日、暴力団関係者の男が逮捕された。奇臓目的の犯行だった。碓氷家とは面識がなく、以前父親が能力を使っている様子を見掛けたため襲撃したらしい。

 事件が一段落してからも、碓氷は虚脱状態が続いた。突然愛する両親を失った悲しみ以上に、恐怖が心を支配していた。特に、日没後――夜になると、両親の凄惨な死体が脳裏に蘇るのだ。恐ろしさのあまり、なかなか眠りにつくことができない。できても、悪夢にうなされる。とうとう一睡もできなくなると、兄の布団で震えるようになった。

 そんな妹を見兼ねた日向は、ある日こう宣言した。

「凛月が安心して暮らせるように、俺、悪い奴ぶっ潰すわ」

 当時まだ高校生だった日向は、受験勉強で忙しい中だったにも関わらず、ほとんど一人で家のことをこなした。現役で難関私大に合格すると、アルバイトに励みながらも一度として特待生制度から漏れることなく卒業した。

 日向は、異保官になったと告げた。

 日向が就職して一年ほど経過した頃のことだった。

「仕事の事情で詳しくは話せないんだけど、しばらく会えなくなる」

「出張?」

「そう、そんな感じ。それで、これ。何かあったときの御守り」

手渡されたのは、大きめの御守り袋だった。

「能力増強剤が入ってる。戦闘経験のない人でも十分に力が発揮できるようになるって。俺も凛月も安心かなって思ったんだけど」

 日向の気持ちは素直に嬉しかった。御守もその中身も、実用的でありがたい。しかし同時に、純粋な感謝の気持ち以外の感情も湧き上がる。

 ――ひゅうくんは本当にこれで良かったの?

 異保官になった動機は妹を救うためであり、本人の内側には存在しない。それがどうも引っ掛かっていたのだ。

 碓氷の内心が表情に出ていたのか、浮かれていた日向は急に畏まった。

「ごめん。不満だったか?」

碓氷はすぐに笑顔を繕い、首を横に振った。

「ううん。嬉しいよ、ありがとう」

 日向が後悔していないのなら、それでいい。碓氷はそう思うことにした。

 両親の死から十年後のことだった。日向が殉職した。

 碓氷は自分を呪った。兄が異保官になるきっかけを作ったのは自分だ。もし自分が弱い人間でなければ、兄は異保官になって早死にすることなどなかった。

 弱い自分が許せなかった。兄のように、誰に頼らずとも生きていける強い人間にならなければいけない。

 呪いだと思ったことはない。どちらかといえば、義務や贖罪と言ったほうが正しい。

 あれから十年経ち、碓氷は『番犬』の異名を轟かせるほどの脅威になった。毎晩泣いていたときに感じた死の恐怖は、遠い存在になっていた。

 それでもまだ足りない。今日もさらに強くなろうとする碓氷を、開かずの御守袋が見守っている。

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