19.
「祝杯って……何の?」
『綺麗な物置き』で、新品のパイプ椅子に腰掛けた碓氷が、空のグラスを見つめながら訊ねた。
仕事のほうが一段落し、久しぶりの休息だった。とはいえ、明日からはまた予定が詰まっているので、寛げるのはこの昼間の時間帯だけである。
「君の名誉回復祝だ。だいぶ遅くなったがね」
テーブルの上に、グラスが二本並べられる。向かいに座る人物は、数か月前に瀕死の重傷を負ったとは信じられないほど、ピンピンしていた。
「本当は、安地組の撲滅祝も兼ねたいところだったが。ドブネズミは存外しぶといものでね。根絶にはまだ時間が掛かりそうだ」
「暴力団とは言え、一応客でしょ?」
「不思議なことを言うな。逆に訊くが、君は犯罪が減ったら仕事がなくなると嘆くのか?」
反論の余地もない正論を返され、碓氷は黙り込んだ。とはいえ、異保官である碓氷と一情報屋の寒河では立場が違うはずだ。
初めて寒河と出会ったときのことを思い出した。あのとき感じた、どの裏社会の住民とも異なる異質な雰囲気は、間違っていなかったようだ。そんなことを考えていると、目の前の男は椅子をくるりと回転させ、背後のショーケースを眺めた。
「ご希望は? 特にないなら、勝手に選ばせてもらうが」
「それじゃあ――」碓氷が悩みながら口を開く。「兄が好きだったやつ。確か、『十三代』みたいな名前だったと思うんだけど……」
寒河は、座ったまま椅子ごとショーケースへ移動した。キャスターがゴロゴロと音を立てる。ちょうど真ん前、目の高さにある酒瓶を迷わず手に取ると、行き同様に戻ってきた。握られていた瓶のラベルには、「十四代」と書かれていた。碓氷は、恥ずかしそうに俯いた。
先に、碓氷のグラスに酒が注がれた。寒河の分も注ぎ終わったところで、碓氷がグラスを持ち上げた。
「それでは」寒河が口を開く。「碓氷異捜官の名誉回復と、安地組の衰退を祝って」
「誰かさんの退院祝いも」
碓氷がそうつけ加えると、寒河は微笑した。
グラスがかち合う。碓氷は初めての日本酒を口にした。
「ん」
目が大きく開く。そのまま夢中で飲み進め、あっという間にグラスを空にした。
「もっと飲むかい?」
「いいの? その、ほら、高いお酒だったら申し訳ないから――」
碓氷が遠慮がちに訊ねる間にも、寒河は酒を注ぎ足した。
「そういや、君の兄さんには、例の事件が片づいたこと、報告したのか?」
突然、寒河が思い出したように問い掛けた。碓氷は目をぱちくりとさせる。
「まだ。怪我の治療もあったし、バタバタしてて……って、もうすぐ命日だ」
「その後には盆が続いている」
寒河が少量の酒を口に含み、グラスを置いた。
「じっくり話したいなら、混む前に会いに行ったらどうだ?」
「そうね」碓氷は返事するも、浮かない顔をしていた。
「どうした?」
「明日から出張だから、盆明けになりそうだなって」
「今日中には厳しいのか?」
「遅くとも、夜までには向こうに着いておきたいから、難しいと思う」
「だったら、今すぐ行ったほうがいい」寒河が真剣な表情で言った。「兄さんにはしばらく会っていないだろう? 私なら、店が開いているときならいつでも話せる」
説得に押され、碓氷は頷いた。手早く荷物をまとめ、席を立つ。
「ごちそうさま。今日はありがとう」
「また飲みたくなったら、いつでも来てくれ。君なら歓迎する」
「多分、また来る」
碓氷は真面目な表情を取り繕ってそう言い、部屋を出た。
蝉の叫び声が、暑さを掻き立てる。首を流れる汗が、ワイシャツの襟を濡らした。
日向の眠る場所へと立ち寄るのは、約一年ぶりだった。大々的な墓掃除が必要になるだろうと覚悟していたが、不思議なことに墓石は綺麗な状態で保たれていた。ついでに周囲の雑草も処理済みで、碓氷は面食らいながら、仕事をなくした掃除道具を地面に下ろした。
花を供え、ペットボトルの水を上から掛ける。墓石が水を浴びる様子を見て、心なしか碓氷までもが涼しく感じた。
空になったペットボトルを足元に置き、線香を供える。お墓の前で畏まると、静かに手を合わせ、目を閉じた。
十年前から変わらない兄の姿が、頭の中へ鮮明に呼び起こされる。
――ひゅうくん。大事件があったけど、無事に解決したよ。御守に助けられました。ありがとう。
そのとき、優しい風が頭を撫でた。
「お前ならもう大丈夫だ」
日向の声が聞こえたような気がし、思わず目を開く。無論、兄の姿はどこにもない。
常に心の片隅に感じていた日向の存在が、少しだけ小さくなったように感じる。しかし、寂しさや心細さは微塵もない。
墓地を去る碓氷の足取りは、堂々としていた。
アイドル殺人事件編完結です。
続きは亀になりますが、章ごと完成次第投稿していく予定です。