17.
供述を一通り聞き終わると、碓氷はすぐに取調室を出た。つい先ほど、国民的アイドル行方不明事件の重要参考人が身柄を確保されたというニュースが、世間に放たれたのだ。当然、花山の耳にも届いているはずだ。
すなわち、彼らも動き出す。
廊下に立っていた狭山に、碓氷が声を掛けた。
「課長はどこ?」
「わかりません」
即答だった。碓氷は困惑の表情を浮かべる。
「あれ? 香川確保に向かうよう指示したの、野崎課長じゃなかったっけ?」
「確かに指示したのは課長ですが、電話だったので」
碓氷は、神妙な面持ちで首を傾げた。だったら、野崎は今どこにいるのか。思い当たる場所も特に浮かばず、その場で立ち尽くしていると、
「班長ぉ!」
こちらに向かって走ってくる人影が見えた。目を凝らすと、資料を持った大橋だった。
大橋は二人のところまで来ると、呼吸を乱したまま口を開いた。
「班長、至急大会議室に来てください」
碓氷は頷く前に、早足で歩き出した。大橋がつらそうに碓氷の歩調に合わせ、横に並ぶ。
「花山の居場所に心当たりはありませんか?」
大会議室に向かいながら、大橋が訊ねる。
「自家用ジェットで茨城空港から飛ぶ予定だったっては聞いてる」
「ということは、空港ですか」
「もしくは飛行場」
大橋は、さっそくスマホで検索し始めた。
「えっと――都内だと羽田、八丈島、調布、新島、神津島、大島、三宅島ですか。結構ありますね」
「離島から飛ぶことはないと思う。その中なら羽田か調布ね」
「都内以外で近そうなところだと、成田ぐらいでしょうかね。茨城と同じぐらいの距離なら、静岡なんかも」
大橋はスマホから顔を上げ、こう続けた。
「さすがに茨城からってことは……ないですよね?」
「ゼロではないけど、相当勇気がいるとは思う」
「ですよね。でも、ゼロじゃないなら一応警戒はしておいたほうがよくないですか?」
「それだと、極論全部の空港に対して同じことが言えない?」
大橋が、再びスマホを触り出す。数秒と経たないうちに、目を丸くしてこう告げた。
「国内の空港と飛行場、全部で九七箇所だそうです」
「きゅうじゅう……なな?」
碓氷は絶句した。
そのとき、ズボンのポケットから着信音が鳴った。碓氷はスマホを引っ張り出し、画面を確認する。
野崎だった。碓氷は即座に通話に応じた。
「課長? 今どこに――」
『香川が捕まったらしいな。ご苦労様、よくやった』
野崎が声を張り上げて言う。電話先からは、彼の声の他にも叫び声が微かに聞こえてきた。
「今どこにいますか?」
碓氷が遮られた質問を繰り返した。
『上空だ』
「ジョークー?」
地名だろうという思い込みが、理解を妨げる。気づいた野崎が、
『空だ、空』
と、笑いながらつけ加えた。ようやく合点がいったが、
『花山がこれから乗る予定の自家用機だ』
続く言葉を聞いた瞬間、驚きのあまり足が止まった。隣でスマホを睨んでいた大橋も、釣られて立ち止まる。
「乗る……予定?」
『本来茨城を発つつもりだったんなら、どこから逃げるにしろ機体自体はまだ茨城にあると思ってな、早めに向かったんだ。ギリギリ間に合った。本当、人生で一番ってほどに焦ったよ』
碓氷は依然としてきょとんとしていた。ついに、大橋が苛立ったように鼻息を荒げ、スマホの時刻を見せつけながら声を掛けようとする。しかし、
「それで、課長。花山は――」
通話相手が誰だか知ると、口を噤んだ。
野崎は、碓氷の質問を先読みしたようにこう告げた。
『東京競馬場だ』
「えっと、その……もう一度言っていただけますか?」
あまりの突飛な回答に、碓氷は聞き間違いを疑った。
『府中の競馬場だ』
野崎の返答は変わらなかった。それでも、碓氷は確信を得ることができなかった。
『信じ難いのはよくわかるが信じてくれ、時間がない。あと二十分としないうちに到着する。俺ひとりで花山を止めるのは厳しい。碓氷、来れるか?』
最早、返事を吟味する時間すら残されていなかった。
「急いで向かいます」
『わかった』
通話が終わってすぐ、碓氷は「競馬場に行ってくる」と言い残し、走り去った。
「競馬場? ちょっと班長、会議は――」
大橋の声を尻目に、碓氷は異捜局を飛び出す。駐車場に止まる緊急車両に飛び乗り、即刻発進させた。
甲州街道に、けたたましいサイレンが鳴り響いた。車、歩行者、信号――阻むものは何もない。ただ、ひたすらに走り続ける。目的地は着実に近づいていった。
府中市に入り、競馬場が迫ってきたときだった。突如、交通規制区間が立ちはだかった。碓氷は、険しい顔でブレーキを踏んだ。流れるようにエンジンを止め、鍵を挿したまま車を降りる。走りながら車道を見ると、どうやら連休中に開催される音楽フェスの凱旋パレードの準備と、それに対する抗議活動が行われているようだった。抗議の集団は、若者から老人まで幅広い年齢層で構成されていた。
「陸雅くんが亡くなったばかりなのに、パレードなんておかしい!」
「フェスもやめろ!」
抗議者の中には、宇都宮の写真を掲げる者も少なくなかった。
碓氷は集団の間を縫うようにしながら、前に進んだ。
車なら一瞬で過ぎる距離が、やけに長く感じた。
目的地がまだ見えないところで、時間切れを知らせる着信が入った。碓氷は足を止めずに、応答のアイコンを押した。
『もう間もなく着く』
予想通りの声が聞こえてくる。安堵ではなく、焦燥が込み上がった。
「申し訳ありません、課長。間に合いません」
息を切らしながらそう伝える。苦笑が返ってきた。
脳内に、最悪の展開が過った。自家用機が競馬場へ上陸し、乗っていた野崎は花山たちに殺される。花山を乗せた飛行機は、誰にも止められることなく飛び去っていく。
急速に、足の疲れが押し寄せてきた。足取りは一気に重くなり、今にもその場でへたり込みそうになる。
冷たい穴に蝕まれるような感覚が、胸の中心から全身に広がっていった。覚えのある感覚だった。
『明日から連休か。こりゃあ、人生最悪のゴールデンウィークになりそうだ』
わざとらしく繕われた明るい声が耳に入る。碓氷も、それに合わせた口調で答えた。
「人気アイドルの殺人犯を取り逃がした異保、ですか。忙しくなりそうですね……いや、私は異能研でしたか」
『さすがにそれはなくなった。あっても留置場だ、完全に疑いが晴れるまでな。早いところ神様に会って疑惑が晴れるようお願いしたいところだが、こっちもこっちで三途の川渡りというイベントがあってな。風呂で溺れかけたことがあるから、心配だ』
演技じみた溜息が聞こえてくる。碓氷は返す言葉が見つからず、黙り込んだ。
遠くから、飛行機の音が近づいてきた。不甲斐なさと熱烈な悔しさが込み上げてくる。
「課長、私――」
『逃がしたくないんだろ?』
的確に言い当てられ、碓氷は驚いたように顔を上げた。
唾を飲む音に続き、野崎がこう告げた。
『なぁ、碓氷。お前には本当、悪いことをした。言い訳がましいかもしれないが、この一年、ずっとお前のことが怖くて堪らなかった。優秀な異保官とは聞いていたが、想像をはるかに超えていた。いずれ花山もやられる。そう思って、失脚させることばかり考えていた。だけど、今は――味方になったお前は、とても心強い』
頭上の轟音が、急激に大きくなる。それに合わせるかのように、野崎の声はだんだんと張り上がっていった。
碓氷の瞳に、低空を飛ぶ小型飛行機の姿が映る。
『だから託すぞ。足止めするから、必ず花山を捕まえろ』
飛行機のエンジン音は、周囲の音すべてを飲み込むほどうるさく唸っていた。それでも、不思議と野崎の声は、はっきりと碓氷の耳に届いた。
「了解しました」
飛行機のエンジン音が、わずかに遠ざかっていく。碓氷は、スマホの「通話終了」の文字を見つめた。
直後。激しい爆発音が聞こえた。競馬場の辺りから黒煙が上がる。
周囲の人たちが、驚いたように煙を見上げた。その中で、碓氷はスマホを持つ手を下ろして表情を引き締めると、再び全力で走り出した。




