15.
広間の端では、風嵐が足元にくたばる男を見下ろし、呆れと軽蔑を含んだ息を吐いた。
「ったく。こんな状態で能力使えるとかキモすぎだろ。ゴキブリかよ」
寒河の背中に踵が立てられる。屍のように微動だにしなかった身体が、びくりと反応した。
風嵐は薄ら笑いを浮かべ、前屈みになった。今度は、髪の毛を引っ掴んだ。苦痛に歪んでいた寒河の表情が、より険しくなる。
「おー、つらそ」
髪を引っ張る力が、さらに強まった。開いているかどうか定かでない目の周りが、ほんの少しだけ動いたように見えた。
「やっぱ殺すの惜しいわ。でも香川さんのためだしな」
風嵐が、溜息交じりに小さく唸る。しばらく悩んだ末に、手を掛けようと寒河の首に腕を伸ばした。
寒河の口角が、ほんの微かに上がった。
風嵐は目を疑った。伸ばし掛けていた手で両目を擦り、再度相手の顔を覗き込む。苦痛に耐え忍ぶ表情の中に、薄っすらとだが確かな微笑が浮かんでいた。
「おい。てめぇ、笑ってんのか?」
風嵐が顎を持ち上げ、額を突き合わせるようにして睨みつける。しかし、相手は動じない。
風嵐は歯を軋ませ、唾を撒き散らす勢いで怒鳴りつけた。
「クソ野郎が、舐めやがって!」
その顔は、脅すために繕った見掛けの怒りではなく、心の底から湧き出た憤りを体現していた。風嵐は、感情任せに寒河の首元を鷲掴みし、電流を放った――はずだった。
渾身のとどめは不発に終わった。
「は?」
もう一度放電を試みる。やはり結果は変わらない。三回、四回、と繰り返しても同じだった。風嵐の顔から、次第に血の気が引いていった。
「え……は? いや、どういうことだよ」
寒河の頭が手から離れ、床に落ちる。
風嵐は怯えた目で、空になった両手を見つめた。左右の掌を何度か交互に見やった後、文字通り頭を抱えた。
「おかしいだろ。だって抑止剤は打たれてねえし……」
両手の指の隙間から部屋中を見回す。中央で戦う碓氷と香川。倒れている代々木と組員たち。放置された抑止剤の袋。一周して、碓氷と香川の戦闘風景に戻る。それで全部だった。
頭を抱えていた両手が、力なく下ろされる。
「いない――」
切羽詰まった表情の中、口が小さく動いた。それから我に返ると、風嵐は勢いよく香川のほうを向いた。
「香川さん! アビキャンが隠れてます!」
叫び声は全体に響き渡った。
当然、香川の耳にも届いた。しかし、届いたのは声のみで、忠告の内容を即座に咀嚼することはできなかった。ブラックホールのような球体を作り出す途中、一瞬風嵐を一瞥しただけで、碓氷への攻撃を継続した。
周囲の鉄壁ごと飲み込んでしまう程のエネルギーを蓄えた、巨大な黒色物質が完成した。いよいよ香川の手元を離れようとしたその直後、黒い球体はあっという間に消滅した。
「ん?」
香川は怪訝そうに、何もない空間を凝視する。
「何があった?」
「ご愁傷様だ」
背後からの声に、香川が顔だけ振り向ける。
何もない空間に、二つの人影が現れた。田島と栗原だった。
肩から田島の右手が退けられると、香川は状況を悟った。
「アビキャンか。注射のほうばかり気を取られていて、すっかり忘れていた」
悔しそうに額を抱えて黙り込む。まもなくして、声を上げて笑った。
「参ったよ。お前たちの勝ちだ」
両腕が高々と掲げられる。瞼を閉じ、諦めたように俯く顔には微笑が浮かんでいた。完全に負けを認める表情だった。
一方、
「香川さん……何言ってるんすか」
風嵐は、虚ろな声と表情で訴えかけた。香川は、表情一つ変えずこう答えた。
「挽回する術がない。残念だが諦めろ」
絶望に打ちひしがれていた風嵐の顔に、怨恨の色が滲み出した。憤りの強さを示す眉間の皺が増え、唇がブルブルと震える。そして、
「クソ野郎! 畜生め!」
足元に横たわる男を掴み上げた。左手が拳骨をつくり、顔面を殴りつけようとする。
突然、周囲から人が現れ、風嵐を取り囲んだ。
「なんだてめぇら!」
一八〇を優に超える若い図体が暴れて抵抗するも、一分としないうちに拘束された。
集団の一人が、腕に装着した端末に呼び掛ける。
「こちら、としま第一ビル地下一階。香川と若い組員一名の身柄を確保しました」
その報告を合図に、部屋中で身を潜めていた異保官が次々と姿を現し、残る組員たちを拘束していった。外から聞こえる異保緊急車両のサイレン音が、目の前の光景が現実であることを知らしめる。異保官に連れられ、香川を筆頭に漸義会組員が続々と出て行く中、碓氷は人の流れと逆らうように、早足で広間を突き抜けた。
「碓氷班長!」
途中、狭山が主人を見つけた飼い犬のように駆け寄った。
「ご無事で何よりです」
隣に並んだ狭山が、さらに顔を綻ばせる。
碓氷は狭山をちらりと見やり、前に向き直った。
「異保が何故ここに?」
「野崎課長の指示です」
一瞬、碓氷の足が止まり掛けた。気づく由もなく、狭山は続けた。
「初め、花山の罠じゃないかって揉めたんです。あと、場所を探すのにも時間が掛かってしまって。到着が遅くなり、申し訳ありません」
「いや、助かった。ありがとう」
程なく、碓氷の足が止まった。狭山も合わせて立ち止まる。
二人の視線の先には、異保官数名に囲まれて横たわる、重傷の男の姿があった。
「救急には連絡を入れてあります」
気づいた異保官が碓氷に告げた。
「ありがとうございます」
碓氷はその場で屈み、寒河の顔を覗き込んだ。苦痛に耐えながらも、どこか死を甘んじて受け入れそうな雰囲気があった。
碓氷は軽く袖を捲り、おそるおそる寒河の口元に手をかざした。神経を研ぎ澄ませてようやく熱を感知できるほどの、虫の息だった。碓氷の口が一の字に結ばれる。
寒河の瞼が、わずかに開かれた。
「寒河!」
碓氷の口から、無意識に声が出る。
寒河も応じようと口を開いたが、声が出る前に顔を歪めた。
碓氷は慌てて手で制すと、さらに深くしゃがみ込んだ。
「あなたには本当に助けられた。ありがとう、頼もしかった。花山も絶対捕まえる、だから――」
寒河があまりにも満足そうに目を閉じようとしていたので、碓氷は怖くなって右手を掴んだ。心許ない体温が伝わってきた。その体温を逃すまいと、碓氷は握る力を強めた。
「初めは正直、邪魔だと思ってた。協力を持ち掛けられて、承諾したのも嫌々だったし、一人のほうがまだやれるんじゃないかって思ってた。でも今は違う。替えの利かない、最高の相方――本気でそう思ってる」
外から救急車のサイレンが聞こえてきた。周囲にいた異保官たちがいっせいに立ち上がり、うち二人が外へと向かう。
碓氷の額が、まるで祈るように寒河の手を包む両手に近づけられた。
「死なないで」
サイレンの音が止んだ。まもなく救急隊がやってくるだろう。
「う――すい」
足音や環境音に掻き消されそうな、ひ弱な声が、耳に届いた。碓氷は顔を上げる。
寒河の顔に、控えめな笑みが湛えられていた。
「こ、ん、ど、の、も、う」
普段以上に細められた両目が、しっかりと碓氷を捉える。
安堵で自然と表情が綻んだ。碓氷は手を握り締めると大きく頷いた。