表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
番犬と狐  作者: 汐越陽
15/19

15.

 広間の端では、風嵐が足元にくたばる男を見下ろし、呆れと軽蔑を含んだ息を吐いた。

「ったく。こんな状態で能力使えるとかキモすぎだろ。ゴキブリかよ」

 寒河の背中に踵が立てられる。屍のように微動だにしなかった身体が、びくりと反応した。

 風嵐は薄ら笑いを浮かべ、前屈みになった。今度は、髪の毛を引っ掴んだ。苦痛に歪んでいた寒河の表情が、より険しくなる。

「おー、つらそ」

髪を引っ張る力が、さらに強まった。開いているかどうか定かでない目の周りが、ほんの少しだけ動いたように見えた。

「やっぱ殺すの惜しいわ。でも香川さんのためだしな」

風嵐が、溜息交じりに小さく唸る。しばらく悩んだ末に、手を掛けようと寒河の首に腕を伸ばした。

 寒河の口角が、ほんの微かに上がった。

 風嵐は目を疑った。伸ばし掛けていた手で両目を擦り、再度相手の顔を覗き込む。苦痛に耐え忍ぶ表情の中に、薄っすらとだが確かな微笑が浮かんでいた。

「おい。てめぇ、笑ってんのか?」

風嵐が顎を持ち上げ、額を突き合わせるようにして睨みつける。しかし、相手は動じない。

 風嵐は歯を軋ませ、唾を撒き散らす勢いで怒鳴りつけた。

「クソ野郎が、舐めやがって!」

その顔は、脅すために繕った見掛けの怒りではなく、心の底から湧き出た憤りを体現していた。風嵐は、感情任せに寒河の首元を鷲掴みし、電流を放った――はずだった。

 渾身のとどめは不発に終わった。

「は?」

もう一度放電を試みる。やはり結果は変わらない。三回、四回、と繰り返しても同じだった。風嵐の顔から、次第に血の気が引いていった。

「え……は? いや、どういうことだよ」

 寒河の頭が手から離れ、床に落ちる。

 風嵐は怯えた目で、空になった両手を見つめた。左右の掌を何度か交互に見やった後、文字通り頭を抱えた。

「おかしいだろ。だって抑止剤は打たれてねえし……」

両手の指の隙間から部屋中を見回す。中央で戦う碓氷と香川。倒れている代々木と組員たち。放置された抑止剤の袋。一周して、碓氷と香川の戦闘風景に戻る。それで全部だった。

 頭を抱えていた両手が、力なく下ろされる。

「いない――」

切羽詰まった表情の中、口が小さく動いた。それから我に返ると、風嵐は勢いよく香川のほうを向いた。

「香川さん! アビキャンが隠れてます!」

叫び声は全体に響き渡った。

 当然、香川の耳にも届いた。しかし、届いたのは声のみで、忠告の内容を即座に咀嚼することはできなかった。ブラックホールのような球体を作り出す途中、一瞬風嵐を一瞥しただけで、碓氷への攻撃を継続した。

 周囲の鉄壁ごと飲み込んでしまう程のエネルギーを蓄えた、巨大な黒色物質が完成した。いよいよ香川の手元を離れようとしたその直後、黒い球体はあっという間に消滅した。

「ん?」

香川は怪訝そうに、何もない空間を凝視する。

「何があった?」

「ご愁傷様だ」

背後からの声に、香川が顔だけ振り向ける。

 何もない空間に、二つの人影が現れた。田島と栗原だった。

 肩から田島の右手が退けられると、香川は状況を悟った。

「アビキャンか。注射のほうばかり気を取られていて、すっかり忘れていた」

悔しそうに額を抱えて黙り込む。まもなくして、声を上げて笑った。

「参ったよ。お前たちの勝ちだ」

両腕が高々と掲げられる。瞼を閉じ、諦めたように俯く顔には微笑が浮かんでいた。完全に負けを認める表情だった。

 一方、

「香川さん……何言ってるんすか」

風嵐は、虚ろな声と表情で訴えかけた。香川は、表情一つ変えずこう答えた。

「挽回する術がない。残念だが諦めろ」

 絶望に打ちひしがれていた風嵐の顔に、怨恨の色が滲み出した。憤りの強さを示す眉間の皺が増え、唇がブルブルと震える。そして、

「クソ野郎! 畜生め!」

足元に横たわる男を掴み上げた。左手が拳骨をつくり、顔面を殴りつけようとする。

 突然、周囲から人が現れ、風嵐を取り囲んだ。

「なんだてめぇら!」

一八〇を優に超える若い図体が暴れて抵抗するも、一分としないうちに拘束された。

 集団の一人が、腕に装着した端末に呼び掛ける。

「こちら、としま第一ビル地下一階。香川と若い組員一名の身柄を確保しました」

その報告を合図に、部屋中で身を潜めていた異保官が次々と姿を現し、残る組員たちを拘束していった。外から聞こえる異保緊急車両のサイレン音が、目の前の光景が現実であることを知らしめる。異保官に連れられ、香川を筆頭に漸義会組員が続々と出て行く中、碓氷は人の流れと逆らうように、早足で広間を突き抜けた。

「碓氷班長!」

途中、狭山が主人を見つけた飼い犬のように駆け寄った。

「ご無事で何よりです」

隣に並んだ狭山が、さらに顔を綻ばせる。

 碓氷は狭山をちらりと見やり、前に向き直った。

「異保が何故ここに?」

「野崎課長の指示です」

一瞬、碓氷の足が止まり掛けた。気づく由もなく、狭山は続けた。

「初め、花山の罠じゃないかって揉めたんです。あと、場所を探すのにも時間が掛かってしまって。到着が遅くなり、申し訳ありません」

「いや、助かった。ありがとう」

 程なく、碓氷の足が止まった。狭山も合わせて立ち止まる。

 二人の視線の先には、異保官数名に囲まれて横たわる、重傷の男の姿があった。

「救急には連絡を入れてあります」

気づいた異保官が碓氷に告げた。

「ありがとうございます」

碓氷はその場で屈み、寒河の顔を覗き込んだ。苦痛に耐えながらも、どこか死を甘んじて受け入れそうな雰囲気があった。

 碓氷は軽く袖を捲り、おそるおそる寒河の口元に手をかざした。神経を研ぎ澄ませてようやく熱を感知できるほどの、虫の息だった。碓氷の口が一の字に結ばれる。

 寒河の瞼が、わずかに開かれた。

「寒河!」

碓氷の口から、無意識に声が出る。

 寒河も応じようと口を開いたが、声が出る前に顔を歪めた。

 碓氷は慌てて手で制すと、さらに深くしゃがみ込んだ。

「あなたには本当に助けられた。ありがとう、頼もしかった。花山も絶対捕まえる、だから――」

 寒河があまりにも満足そうに目を閉じようとしていたので、碓氷は怖くなって右手を掴んだ。心許ない体温が伝わってきた。その体温を逃すまいと、碓氷は握る力を強めた。

「初めは正直、邪魔だと思ってた。協力を持ち掛けられて、承諾したのも嫌々だったし、一人のほうがまだやれるんじゃないかって思ってた。でも今は違う。替えの利かない、最高の相方――本気でそう思ってる」

 外から救急車のサイレンが聞こえてきた。周囲にいた異保官たちがいっせいに立ち上がり、うち二人が外へと向かう。

 碓氷の額が、まるで祈るように寒河の手を包む両手に近づけられた。

「死なないで」

 サイレンの音が止んだ。まもなく救急隊がやってくるだろう。

「う――すい」

足音や環境音に掻き消されそうな、ひ弱な声が、耳に届いた。碓氷は顔を上げる。

 寒河の顔に、控えめな笑みが湛えられていた。

「こ、ん、ど、の、も、う」

普段以上に細められた両目が、しっかりと碓氷を捉える。

 安堵で自然と表情が綻んだ。碓氷は手を握り締めると大きく頷いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ