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番犬と狐  作者: 汐越陽
14/19

14.

 堂々とやってきた敵を前に、漸義会の組員の間に緊張が走った。

 碓氷が一段下りるたび、集団は揃って後退する。唯一、香川だけが悠然と構えていた。

「これほど近くでお目見えするのは初めてだな。『番犬』の割には、ずいぶんと可愛らしいじゃないか」

 碓氷はこれ見よがしに眉を潜めた。香川は腰の後ろで手を組み、鼻で小さく笑う。

「おいおい、情報屋はびびってトンズラしたか?」

風嵐が嘲笑交じりに訊ねる。碓氷は無言を貫いた。

「まあまあ。敵とはいえ、女性一人ではさすがに気の毒だ。もう一度だけ逃げるチャンスを与えよう。無論、手出しはしない。約束しよう。どうだね?」

 両足が地下一階の床を踏み締めたのと同時に、碓氷は口を開いた。

「『可哀そうだから逃がしてやる』じゃなくて、『逃げて欲しい』の間違いでは?」

途端、全方位からの視線が鋭く棘を帯び出した。風嵐に至っては、キリキリと歯を噛みながら、殺意に満ちたオーラを放っている。

 なおも香川だけは笑っていた――否。口角が上がっているだけで、目元は完全な無表情だった。

「お前みたいなのが仲間にいたら、さぞかし愉快だろうな」

刹那、大蛇のような黒い影が現れた。身を反らせるや否や、目下の敵を叩き潰そうとする。

 わずかに、碓氷のほうが早かった。分厚い鈍色の柵が触手の攻撃を防ぐ。

「変換暗黒化体質――」

碓氷がぽつりと零した。余剰な力の入った手足が細かく震える。

「その呼び方は気に入らないな」

 触手がいったん引っ込められる。香川は顎を軽く引き、鼻を鳴らした。

「闇アビリティと呼んでくれ」

香川の足元を囲うように、今度は複数の触手がうねうねと生えてきた。

「力比べだ。虚勢を張ったこと、後悔させてやる」

香川の背丈と並んでいた先端が、たちまち天井近くまで伸びていく。先端が睨むように見下ろすと、碓氷は唾を飲み込み、身構えた。

 触手がいっせいに動き出した。先端を尖らせ、串刺しにしようと束で襲い掛かる。

 碓氷は顎を小さく上げた。瞬間、四方から円盤状の物体が飛び出した。目に留まらぬ速さで空を切り、触手を細かく裁断していく。ゴロっと落ちた黒い塊は、靄となって消滅した。

 消えた分と同じ数の触手が、香川の周囲に新たに出現する。

「小手先の攻撃は通用しないか」

そう呟く顔は、どこか愉快そうだった。

 触手の攻撃が再開した。今度は、傍で様子を伺っていた組員たちも加勢する。

 碓氷は敵全体を見据えると、右手に金属パイプを錬成した。軽い素振りで感触を確かめつつ、馴染む位置に握り直す。

 迫り来る魔の手の群れに、自ら突撃した。

 金属パイプは柔軟に変形を繰り返し、戦線を蹂躙した。触手を殴り、物理攻撃を跳ね返し、火炎などから碓氷を守る。

 隙が見えた。右手の直管が、たちどころに伸び始める。やがて生き物のようにのたうち回り、組員たちを次々と薙ぎ倒していった。

 敵戦力は着実に減っていった。

 突如、背後から気配を感知した。碓氷はすかさずパイプを振り、ワイヤーへ変形させる。先端の楔が天井に突き刺さると、碓氷の身体は一気に引き上げられた。背後からやってきた触手が足元を潜り抜け、そのまま漸義会の一群に突っ込んだ。

 碓氷はワイヤーから手を離し、両手両脚で着地した。

 気づいた触手がぐるりと向きを変え、接近する。先端を花弁のように開くと、頭上から覆い被さるように食らいつこうとした。

 天井から無数の刃が降り注いだ。すべて触手に命中し、黒い塊を削いでいく。床に転がる断片が消失すると、碓氷は傘代わりに生成していたアルミニウムの屋根を取り払った。

 場は静まり返った。

 碓氷の目に映る人影は、とうとう香川と風嵐だけとなった。

「これが裏社会随一の強さを誇る集団、ね」

碓氷がメガネを正しながら零すと、風嵐はますます不愉快そうに顔を歪めた。

「失望させて申し訳ない」

香川が声を張りながら答え、さらに続ける。

「本番はここからだ。ようやく弱点が見えてきた」

何か企むように笑みを浮かべ、足を踏み鳴らした。再び黒い触手がひとつ現れる。

 碓氷は右手を前に伸ばした。足元に散乱していた刃が吸い込まれるように集まり、一本のパイプを形成する。左手を添えながら構え、先端を標的に向けた。

 黒い影が前へ飛び出し、鈍色の凶器が頭を振った。

 ついに、両者が衝突した。乾いた音を鳴らし、かち合った状態で静止する。

 触手を弾き飛ばそうと、碓氷は力を強めた。

 そのとき、目の前の物体は細かな粒子に分散した。ただし、今度は消滅しなかった。束のまま碓氷の顔に降り掛かる。

 碓氷は反射的に目を閉じ、息を止めながら鼻と口を手で覆った。

 目を開くと、視界は真っ黒だった。ようやく香川の狙いを理解した。急いでメガネを毟り取る。確保できた視界は、ぼやけていた。あらゆる輪郭や境界線が不明瞭かつ重なって見える。前方に立つ二人の男も衣服の色でしか判別できないほどだ。

 碓氷が必死に目を凝らす間にも、香川は次の一手を打とうとしていた。新たな黒い魔物を呼び出し、前へ送り込む。

 碓氷はパイプを放り投げ、右手人差し指を正面に向けた。指先と、ぶれる黒いシルエットが重なる。

 弾丸が射出された。くすんだ光沢を放ち、回転しながら触手に命中すると、内径より大きな穴を穿った。触手は力を失い、その場にへたり込む。

 弾丸は止まらなかった。貫通してもなお勢いを保ち、直進する。そして、新たな障害物――香川の右目に飛び込んだ。

「んぐッ!」

香川が右目を両手で強く押さえ、屈み込む。

「香川さん!」

すぐさま風嵐が駆けつける。しかし、動揺のあまりひたすら狼狽するだけだった。

 その間、碓氷は服の袖でレンズの汚れを拭き取り、掛け直した。途端に視界の解像度がぐんと引き上がる。香川と風嵐を視界の隅に捉えながら、下に転がるパイプを拾った。

 風嵐が音に反応して振り向く。不安の色に染まっていた目が、みるみるうちに憎悪へ塗り替えられていく。

「畜生が……クソイヌの分際で」

 大きく開かれた掌が碓氷に向けられた。

 刹那、強烈な稲光が空気中に放たれた。

 パイプを捨てる隙もなく、碓氷の視界は真っ白になった。唯一、瞼だけが脊髄反社で閉じられる。

 痛みはなかった。眩しさがなくなり、ゆっくりと目を開く。

 後方からカランと音が鳴った。碓氷が髪を振り乱す勢いで振り向く。

 正体は、床に投げ出されたパイプだった。碓氷は自らの空の両手を一瞥し、再びパイプを見つめた。その傍で、大きな木の根が蠢きながら、床に吸い込まれるように消えていく。

 同じ様を見ていた風嵐は、唖然としていた。そんな彼の虚を突くように、足元から霜が発生し、瞬く間に膝まで侵食した。風嵐は視線を落とすと、煩わしそうに顔を顰めて舌打ちした。

 まるで動画の早送りを見ているように霜が解けていき、水蒸気へ変わった。

 風嵐は血眼で周りを見回した。ついに、隅の柱の陰で身を潜める代々木の姿を発見する。

「てめぇ!」

手の関節がパキパキと音を鳴らす。

「ネズミみたくコソコソしやがって!」

風嵐の右手が、新たな標的に狙いを定めた。そこに、

「風嵐」

脇から諭すような声が掛かる。

 香川だった。右目を閉じたまま、両手を突いて重々しく立ち上がる。

「大丈夫ですか?」

「右目がなくても人は潰せる」

香川は掌に付着したゴミを払い、大きく息を吸った。

「奴を止めても無駄だ。本体を探せ」

 風嵐は不敵な笑みを浮かべて頷いた。

 直後、氷針が二人目掛けて飛んできた。風嵐が慌てるまでもなく火炎弾を放ち、相殺する。白い煙が上がり、消滅した。

「お前に情報屋を任せる。番犬の面倒はしばらく俺がやる」

「逆じゃなくていいんすか?」

「とっとと始末して合流しろと言っている」

「了解」

 風嵐が香川から離れようとしたそのとき、四本の鎖が床から現れ、足を捕えようとした。だが、あえなく黒い触手に追い払われた。

 香川の左目が、まっすぐ碓氷を見据える。

「番犬。相手はこっちだ」

 碓氷は唇を噛むと、上目で睨み返した。


 場の中央で、銀白色の光と黒い影が激しく衝突する。その後ろで、冷ややかな怒りの目と怪しく細められた目が対峙していた。

 攻撃を裁きながら、碓氷は敵の特性を観察した。真っ先に気になったのが、攻めてくる位置だった。本来狙うべきポイントから少しズレているように感じる。様子見を続けるうちに、右目を失ったことによる空間認知能力の欠如が原因らしいとわかった。相手も探りながら修正しているようで、ズレは少しずつ改善されていた。

 複能力はあり得ないから、黒色物体のみを警戒すればいい。懸念材料があるとしたら、散々力を浪費してきたにも関わらず、体力の消耗が一向に見られないことか。耐久戦で劣るとは微塵も思っていなかったが、もし寒河が先にやられてしまえば、香川よりも面倒な敵が加わることになる。わずかな心配が汗となって額に薄っすら滲み出した。

 正面から、黒い粒の群れが押し寄せてきた。すかさず金属壁でカバーする。

 攻撃が止むのを待ちながら、密かに相方の状況を確認した。斜め前方にいる代々木は、すでに呼吸が乱れていた。

 額の汗が一粒こめかみを伝っていく。腕には無意識のうちに力が入り、小刻みに震えるのがわかった。

「碓氷」

突然、背後から男性のやや高い声が聞こえた。ちらっと振り向くも、人の姿はない。声が小さかったこともあり、気のせいだと思って無視することにした。

「光アビ持ちの青年だ、姿を消している」

幻聴ではなかった。今度は顔ごと振り向いた。

「聞こえるか?」

「聞こえてる」

 攻撃の種類が変わったのか、壁を殴る音が途端に喧しくなった。碓氷は顔を顰めて壁を一瞥し、耳に神経を集中させる。

 先程よりも近い位置から、栗原が声量を上げてこう告げた。

「今さっき、本体のほうが抑止剤を手に入れた。隙を見て香川から打ちたい。可能な限りで構わない、援護してくれると助かる」

「了解」

碓氷はあっさり承諾するも、直後ハッとしたようにこう訊ねた。

「香川が先?」

戦闘力を鑑みるなら、より厄介な風嵐から無力化すべきだろう。そう思ったからだ。

「生け捕り必須だからな。一方が打たれたら、もう一方は警戒を強める。そうなると、抑止剤よりも力で捻じ伏せるほうが、かえって容易だったりする」

「なるほど。金髪には最悪、強硬手段が使えるからってことね」

 目の前で、見えない相手が頷いたように感じる。

 そのとき、金属壁の上から触手の先端が覗き込んできた。碓氷は軽く見やると、屋根代わりの金属板で頭上を防いだ。

「了解。香川の注意をなるべく引きつけるよう、努力する」

「助かるよ、よろしく」

 微かな足音が遠ざかっていった。

 壁を叩く断続的な音は消えていた。碓氷は曲面鏡を生成し、壁越しの状態を確認した。すでに黒色物質は消えていた。

 壁を払うと、両者の間を隔てるものは何もなくなった。互いに先手を撃とうとはせず、相手の様子を窺う。

 その最中、突如香川が右目を押さえてしゃがみ込んだ。図らずも降ってきた絶好のチャンスに、碓氷は迷わず攻撃態勢を構えた。

「香川さん!」

気づいた風嵐が代々木との戦闘を中断する。香川に向けられていた視線が碓氷に移ると、たちまち顔全体に焦燥感が表れた。

 風嵐のマークから外れた代々木が、ここぞとばかりに攻め立てようとする。

 風嵐の視線が代々木に戻り、碓氷、香川と一巡する。そして、意を決したように両手の拳を握り、こう叫んだ。

「香川さん、すいません!」

 フロア全体に電流が放たれた。風嵐以外の全員が鋭い激痛に襲われた。同時に身体の自由も奪われ、その場に崩れ落ちる。

 罪悪感に俯く風嵐と、悶えながら跪く碓氷たち。静まり返った空間に、突然笑い声が響き渡る。

「いやぁ、助かったよ。風嵐」

香川だった。若干苦しそうに顔を歪めるも、どこか安心したような笑みが浮かんでいる。

「いやー、本当に助かった。もしお前のフォローがなかったら、抑止剤を打たれていた」

その目線の先には、数メートル先でうずくまる寒河の姿があった。周囲にはたくさんの能力抑止剤が散乱している。

 碓氷ははっとして周りを見回した。後方に、意識を失って横たわる栗原を見つけた。さらに、離れた場所で倒れる代々木と田島も発見する。

 碓氷が呆然とする中、早くも香川が腰を上げた。

「惜しかったな、情報屋」

掌に着いたゴミを払い落し、腕を組む。寒河も立ち上がろうとしたが、まだ足腰の筋肉は強張ったままだった。

「この状況だ、おとなしく諦めろ」

香川が鼻を鳴らす。寒河は悔しそうに歯を食いしばったが、目だけはまだ反抗心を露わにしていた。

 傍から見ていた碓氷が、這いつくばりながら右腕をそっと動かした。香川に狙いを定め、人差し指を構える。いよいよ攻撃を仕掛けようとした瞬間、こめかみに指が突きつけられた。

「撃ったら殺す」

耳元に冷淡な声が囁き掛ける。碓氷はピタリと硬直した。

 風嵐は満足げに笑い、香川たちのほうを向いた。

「お前の誠意次第では見逃してやらんでもないぞ?」

香川が嘲笑交じりに告げると、寒河は拒絶するように顔を背けた。

「何が諦めろだ。君らにとっては、目に見えている状況こそがすべてなのか? 足をすくわれるぞ?」

「その顔で言われてもなぁ」

香川が頭を掻きながら蔑んだ目で見下ろす。寒河は悔しそうに眉根を寄せると、噛みつくような勢いで口を開いた。だが声を発する直前に、背後から生えてきた触手に塞がれた。

 寒河が何か訴えるような眼差しを送るも、香川は冷めた表情で傍観するだけだった。

「無駄口は勘弁してくれ、時間が惜しいんだ」

直後、新たな触手が寒河の腹を貫いた。寒河は顔を引き攣らせ、鼻から苦しそうに息を漏らす。

「ああ、少しズレたな。まぁいい」

やや左に逸れた位置から頭を覗かせる触手を見て、香川が軽口にそう言い、わざとらしく頭を抱えた。

 尖った黒の先端から、絶え間なく血が垂れ落ちていった。徐々に青白くなっていく寒河の顔から、大量の脂汗が噴き出す。苦痛と敵意のどちらとも取れる険しい視線が、なおも香川を捉えて離さない。

 香川は涼しい顔で口を開いた。

「そう怖い顔するな。すぐ楽にしてやる」

 腹を突き破った触手が、寒河の腰回りをぐるりと一周し、締め上げた。

「さて、言い残すことはあるか? なければ、さっきの負け惜しみが遺言になるが」

軽侮を含む声が、形ばかりの情けを掛ける。当然、口を押さえつけられている状態で答えられるわけがない。それ以前に、寒河の表情から声を発する余裕は残っていないように見えた。

 居ても立っても居られなくなった碓氷が、手足に力を入れ、立ち上がろうとした。しかし、漏れなく風嵐に察知され、電撃を食らう。治り掛けていた四肢の筋肉は、再び制御不能に陥った。

「調子乗りやがって」

舌打ちと同時に、右手を踏みつけられる。碓氷の眉間の皺は、いっそう深くなった。風嵐は嬉々としながら歯を見せて笑い、踏む力を一段と強める。

「何もないようだな。それじゃあ、さらばだ」

香川が目を細め、軽く手を挙げた。

 触手がたちまち天井まで伸びると、寒河をコンクリートの壁の角に勢いよく叩きつけた。打撃音とともに、寒河の身体が床に落下する。

 辛うじて意識は残っていた。寒河は這いつくばりながら、苦しそうに強打した胸を押さえた。直後、血の塊を吐き出すと、突っ伏すように倒れて動かなくなった。

 碓氷は急いで左手をポケットに突っ込んだ。手汗と焦燥で指が滑り、スマホを掴むことができない。

「おっと」

気づいた風嵐が、空いているほうの足で左腕を踏み潰した。碓氷が苦しそうに声を漏らすと、風嵐は調子に乗って踏みつける力を強めた。踵が深く食い込むあまり、皮膚は変色していた。もはや痛みどころか、感覚すらない。

 碓氷は身体での抵抗を止め、充血した目で風嵐を睨みつけた。

「あ? 殺されてぇのか?」

風嵐の『番犬』に対する畏怖の念は、微塵もなくなっていた。返ってきたのは、まさに碓氷と同じ温度感の目だった。そこに、

「待たせたな」

香川が堂々とした足取りでやってきた。碓氷と風嵐の視線が同時に向けられる。

「途中で役割が変わってしまったが、臨機応変って奴だ。よくやった、風嵐」

香川は、二人の目の前に来ると、ゆっくりと屈み込んだ。

「お気の毒になぁ。手を組む相手は選ぶべきだった」

 勝ち誇ったように細められた目が、碓氷を見下ろす。痛みと屈辱に唇を震わせながら、碓氷は俯いた。香川がよりいっそう表情を綻ばせる。

 そんな中、離れた位置から物音が聞こえた。三人はいっせいに振り向いた。

 栗原だった。ちょうど意識が戻り、起き上がろうとしているところだった。程なくして、正気に返ると、戸惑い気味にこう訊ねた。

「えっと……香川さん、これは?」

「抑止剤を持ってこい」

淡々とした声が質問を無視して指示を下した。栗原は困惑しながらも頷き、奥の部屋へと走った。

 碓氷の瞳から光が消えた。栗原が自我を取り戻したということは、すなわち寒河の憑依が解かれたことを意味する。勝機への導線となるはずだった手札は、すべて失われてしまった。

 部下の背中を見送った香川が、再び碓氷のほうに向き直った。絶望に打ちひしがれる相手を見下ろし、どこか他人事な同情の眼差しを向ける。

「何。さっきのような手荒な真似はしない。死に方の希望があれば、最大限聞き入れてやろう」

「救急車を呼んで」

虚ろな声が即答した。途端に風嵐が噴き出す。

「おいおい。パニクって聞こえてなかったか?」

「残念だがそいつは無理だ」

香川が続けた。

 碓氷は切実な目で見上げ、食らいつくように口を開いた。しかし、

「いったん落ち着け、訊きたいことがある」

あえなく香川に遮られた。口を一の字に結ぶ。

 香川は、床に尻をつけて足を崩した。

「お前さん、野崎は丸め込んだのか?」

 碓氷は唾を飲み込んだ。

 花山たちとの接触の後、タクシーに同乗していた野崎が駅に向かっていった様子が蘇る。それを答えようと口を開き掛けたが、声に出す直前ではっとした。

 質問の意図がわからないのだ。香川の思惑次第で、こちらの取るべき選択――事実を伝えるか、伏せるべきか、あるいは嘘を騙るべきかが変わる。

 腹の内を探るべく、目の前の男の目を覗き込んだ。見えたのは、真っ黒い瞳に反射する動揺した女性の顔だけだった。

 詮索ばかりで何も答えようとしない碓氷に痺れを切らした風嵐が、わざと大きく舌打ちし、髪の毛を掴み上げた。

「おい。とっとと吐けよクソ犬」

「よせ」

すかさず香川が止めに入る。風嵐は苛立ちを露わにしたまま、雑に手を離した。

 香川は大きく息を吐き、真顔で碓氷を見据えた。

「要は、利用価値が残っているなら生かしてやろうって話だ」

 碓氷の瞳孔が、わずかに見開かれた。

 野崎を香川側に引き込むことができれば、この場で殺されることはない。その隙に、絶望的な状況からも抜け出すことができるかもしれない。しかし、もし抜け出すことができなかったら、香川たちだけに甘い汁を吸わせておしまいだ。それだけは、異保官としてのプライドが許せなかった。

 賭けに出るか、尊厳を守るか。心は揺れ動き、決断できない。

 ついに香川も待ちきれなくなり、荒い鼻息を吐きながら立ち上がった。

「時間がない、今から十秒以内に答えろ」

まもなく、風嵐のやや速いカウントダウンが始まった。

 判断を迫られ、碓氷の思考は余計に混乱していった。一秒、また一秒と減るごとに、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。

「三、二、一――」

 碓氷は瞼をきつく閉じ、半ば投げやりに口を開いた。

「香川さん、遅くなりました!」

返事を告げるより先に、栗原が戻ってきた。能力抑止剤の入った袋を抱え、飼い犬のように主人の指示を待つ。

 調子が狂うと言わんばかりに、香川は煩わしそうに頭を掻いた。

「そこに置いとけ」

「はい」

栗原は指示通り、床に袋を置いた。

 直後だった。突然、栗原の手が香川に向けられた。次の瞬間、指先からレーザー弾を放った。

 光は香川の髪を掠り、床の一部を焦がした。

 明らかに事故ではなく、味方撃ちだった。碓氷と風嵐は唖然とする。

 香川は無表情で、指を向ける部下に詰め寄った。

「――何の真似だ?」

「逃げてください!」

予想外の即答だった。香川は目を白黒させる。

「どういうことだ?」

「意識が――何かが邪魔するんです」

 その場にいる全員が、やっと事態を理解した。すぐさま風嵐が碓氷から離れ、栗原を電気ショックで気絶させる。

 香川は得体の知れないものでも見るかのように、遠くに倒れる寒河へと、怯えた眼差しを向けた。そこに、栗原を黙らせた風嵐が、目をギラつかせながら戻ってくる。

「トドメぶっ刺してきます」

香川は呆然と立ち尽くすだけで、返事はなかった。風嵐は、返事を得る前に獲物のほうへ向かった。

 解放された碓氷は、突っ伏した姿勢のまま、痛みに耐えながら右腕を伸ばした。震える人差し指が、遠ざかる背中に狙いを定める。

 そのとき、周囲から取り囲むように五本の触手が現れた。中心の碓氷を閉じ込めるようにして先端を捻じり合わせる。

 磨り潰そうとしているのがわかった。碓氷は、不気味に蠕動する黒い影を睨んだ。

 無数の弾丸が、全方位に向かって放たれた。黒い塊はたちどころに蜂の巣状態になり、萎んで床に倒れ込む。

 無傷で現れた中の人物を視認すると、香川は不満そうに口先を尖らせた。

「背中を狙うとは、ずいぶん汚い真似をするじゃないか」

その顔には、微かに疲れの色が表れていた。

 碓氷の目に、薄っすらと希望の光が灯った。絶望の淵から、どうにか這い上がることができたようだ。その場に立ち上がると、衣服の汚れを叩き落し、改めて敵の姿を見据えた。

 ――諦めるにはまだ早い。

 重傷を負いながらも、必死に戦おうとする相方の存在が、背中に強くのしかかる。

 碓氷は、靴跡がはっきり残る腕を香川のほうへ伸ばすと、攻撃を再開した。

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