10.
独房のドアが開かれた。
現れたのは、朝食を持った大橋と狭山だった。二人とも普段より活気が見られず、どこかやつれている。
碓氷の前に食事を置くと、大橋はガラガラ声で嫌味を綴り出した。
「いいですね、班長はひとりでゆっくり休めて。こっちは一晩中調査に掛かりっ切りでしたよ。だって怪しいものが何一つ出てこないんですもん。班長って犯罪者制圧だけじゃなくて、証拠隠滅も得意だったんですね」
マシンガンの如く吐き出される愚痴は、しばらく止まりそうにない。
二人と変わらず疲弊した顔を浮かべる碓氷は、焦点の定まらない目で朝食を見つめていた。昨晩、様々な負の感情に頭の中を埋め尽くされ、一睡もできなかった。記憶が正しければ、今日が左遷猶予期間の最終日のはずだ。当初は予想だにしなかった、左遷よりも最悪な結末を迎えることになりそうだ。
手札に残るのは、絶望、ただひとつだけだった。
泥沼にズルズルと飲み込まれていくような感覚に襲われる。一度沈めば、抜け出せない。そんな確信があったが、抵抗はしなかった。次第に気が遠のいていく。目を開いたまま眠るように、碓氷は虚脱状態へと陥ろうとしていた――。
「え、ちょっと、狭山さん?」
突然、大橋が困惑と驚愕の混じった声を上げた。碓氷は現実に返り、顔を上げた。
あろうことか、狭山が背後から大橋の両手を掴み、拘束しようとしていた。碓氷は大橋と同じ表情を浮かべて固まる。
「碓氷班長!」
呼び掛けられた碓氷が、思い出したように瞬きをして狭山のほうを見た。
「中に抑止剤とテープが入っています!」
真摯な眼差しが、決して生半可な気持ちでやっているわけではないことを物語っていた。
碓氷の瞳に活気が灯る。しっかりと頷くと、素早く立ち上がった。狭山のほうに歩み寄り、ポーチを開ける。
「いやいや、おかしいですよちょっと……ンッ」
取り出したダクトテープで、真っ先に大橋の口を塞いだ。それから手錠と能力抑止剤を探し出す。
大橋は全身をくねらせ、必死に抵抗していた。両手を押さえていた狭山が、とうとう頸動脈を絞め上げた。
まもなく、大橋がその場に崩れ落ちた。意識が戻らないうちに手錠を掛け、抑止剤を打つ。
「こんなことをさせて、ごめんなさい」
慣れない手つきで注射器を処理する狭山に、テープで両足を固定しながらぽつりと零した。
「謝らないでください」
狭山が使用済針入れから碓氷に目を移す。
「誘拐されたときに助けてくださったじゃないですか。そのお返しです」
「あんなのは全然――」
「大したことない、班長はそう思うかもしれません。ですが、もし失敗していたら二人ともただじゃ済まなかったはずです」
狭山が身体ごと碓氷のほうに向き直る。
「あのときの目を見て確信しました。班長は絶対に悪い奴らと手を組むような人じゃないって」
ポーチの奥から、引っ張り出されたものが差し出された。碓氷の私用スマホだった。
碓氷は改めて狭山の顔を見た。自然と表情が引き締まる。
「ありがとう」
スマホを受け取った。
狭山は顔を綻ばせた。
碓氷は留置場を飛び出した。ロッカールームからジャケットをくすねて羽織り、顔を隠すためにフードを深く被る。
朝からやけに忙しなく走り回る異保官たちの目を盗んで、こっそりと異保局を脱出した。
最初に向かったのは、外部の唯一の協力者のもとだった。夜は人目を引こうと眩く点灯している店名が息を潜めていたが、入口にはモーニングメニューの看板と「OPEN」の札が見えた。さっそく中に入ろうとドアノブに手を伸ばす。
突然、覆面の三人組が碓氷を取り囲むように現れた。碓氷はフードを脱ぎ、応戦しようと身構える。相手は途端に狼狽し始めた。
碓氷は怪訝な顔でしばらく様子を伺っていたが、結局三人は攻撃してくることはなかった。逃げるように離れていき、そのまま姿を消した。
不審に思いながらも、彼らのことは無視して店内に入った。他所には見向きもせず、関係者トイレにまっすぐ向かう。
「オーナーでしたら不在です」
不意にカウンターから声を掛けられ、半ば反射的に足が止まった。
「不在?」
「昨晩出掛けたきり、帰ってきてません」
「行き先は? 何か聞いていたりは――」
「いいえ、何も」
碓氷は少しの間頭を抱えると、スマホを取り出した。寒河から初めて掛かってきた番号を選択し、発信する。
呼び出し音が虚しく時を刻み続けた。碓氷の目に浮かぶ諦観の色は、着実に強まっていった。今にも通話を切ろうとしたそのとき、呼び出し音とは違う音が聞こえてきた。ノイズに紛れて、カーナビ音声らしきものが耳に届く。しかし、一向に話し出す気配はない。
「もしもし? 寒河?」
『碓氷?』ようやく本人が応じた。『留置所じゃなかったのか?』
「狭山が逃がしてくれた、今ちょうどあなたに会おうとバーに来たところ。どこにいる? 誰かと一緒? 店の前で覆面の連中と会ったけど関係ある?」
急に通話先がざわつき始めた。
『俺らじゃない』
『花山か?』
若者の声と、低めの男の声が連続する。
『だとしたら、野崎がここにいるのも直に伝わるんじゃないか?』
寒河が、おそらく向こう側にいる人物たちに告げた。早口だったが、その内容は碓氷にもはっきりと伝わった。
「野崎……課長がそこに――」
突然、通話越しに何かが弾けて爆発する音が、碓氷の声を遮った。
『パチモン如きじゃ止められなかったみたいだな!』
聞き慣れた怒声が続いた。それを引き金に、激しい罵り合いが始まる。
しばらくして、衝突音のようなものが聞こえた。罵声が悲鳴に変わる。
「もしもし?」
『ああ、碓氷』即答だった。
「大丈夫?」
『大丈夫だ、ただ少々混乱している。後で掛け直していいか?』
「了解」
『別の番号から行くかもしれない、くれぐれも追手に気をつけてくれ』
「了解」
碓氷は通話を切り、フードを目深く被って店を出た。
人混みに紛れながら街の中を漂流し、池袋駅に辿り着く。ちょうど同じ頃、電話が掛かってきた。予告通り、未登録の番号が表示されている。
碓氷は通路の端に身を寄せ、電話に応じた。
『今大丈夫か?』
「大丈夫」
碓氷は小声で頷き、スマホの音量を上げる。
『承知した、まず初めに昨夜からの経緯を簡単に話す。野崎と会っていたところを香川に捕まり、野崎を利用して花山の予定を聞き出した。今朝、花山が飛ぶ予定の茨城空港に出発したが、先程事故があって逃げてきた。現在は埼玉県内を車で移動中だ』
「了解、ありがとう」
『君の状況は野崎から聞いている。正確には覗かせてもらった、か。あれから、異保に見つかったりはしてないか? できるならこの後落ち合いたい、場所は吉祥寺の友人宅を考えているが、大丈夫か?』
「大丈夫」
『承知した、後で地図を送る。こちらは十時頃到着予定だ』
碓氷は駅構内の時計に目をやる。八時二十分だった。
「了解」
『それでは後ほど』
通話が切れた。
間もなく、SMSで地図が送られてきた。碓氷はさっそく改札を潜り、目的地に向かった。
*
池袋警察署の駐車場に、一台の車が止まっている。中では、異保官が運転席に座り、通信機を通してメモの内容を報告していた。
「今から三十分前、埼玉県桶川市の国道四六八号で車の単独事故があったようです。当該車両は、池袋のレンタカーから貸し出されたものでした。事故発生後、現場近くのコンビニ駐車場の監視カメラに野崎三課長と男一人が別の車に乗り込む様子が記録されて――」
突如、異保官が苦悶の表情でもがき始めた。震える左手が、ゆっくりと首元に伸びていく。首を絞める見えない何かに触れる直前で、力尽きてだらりと垂れ落ちた。
助手席と後部座席から、五人の男たちが姿を現した。すぐに助手席の男が、異保官の息の有無を確認する。最中、後部座席から手が伸び、異保官の膝の上のメモを取る。
ガラクタを見下すようにそれを眺めるのは、花山だった。コンビニを発った車のナンバーと特徴が記されており、最後は「関越自動車道を南下中」で締め括られていた。
運転席から異保官の遺体が後ろに運ばれた。入れ替わりで、後部座席から一人、運転席に移動する。
「練馬インターだ。待ち伏せする」
花山の一声を合図に、車が発進した。