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番犬と狐  作者: 汐越陽
1/19

1.

 颯爽と階段を上るスーツ姿の華奢なシルエットが、消灯した廊下の影に重なる。割れたガラス戸の先には、カラオケ店の面影が残るフロントが構えている。

 紺色の縁メガネを軽く持ち上げると、壁に身を寄せ、音だけで奥の様子を窺った。奇声と怒声が入り交じり、地鳴りのような振動が伝わる。

 最中、右耳のイヤホンから呼び出し音が鳴った。碓氷凛月(うすいりづき)は、左腕に装着したタブレット端末の画面を触れた。『野崎(のざき)(のぼる)』の名前が表示されていた。下の緑の応答アイコンをタップする。

『突入が前倒しになったってどういうことだ?』

険しい男の声が聞こえてきた。碓氷は、声のトーンを押さえて答えた。

「合図を勘違いして出た者がいたようです」

相手の男の焦り声と同じテンポ感でありながら、淡々とした声だった。

『こっちは現場までもうしばらく掛かるぞ。最低五分は足止めしてくれなきゃ困る、できそうか?』

「厳しいです」

 壁が大きく振動した。同時に、ガラス戸のほうから薄毛の歯が欠けた男が倒れてきた。男は、碓氷を見た瞬間、目を大きく見開いた。

「番犬――」

 碓氷は、表情一つ変えずに人差し指を向けた。指先から、金属弾が射出された。男は額を撃ち抜かれ、驚いた表情のまま絶命した。

 碓氷は通信機に視線を戻した。

「生死を問わないのでしたら話は変わってきますが」

『ああ、それでいい。()(ぞう)さえ回収できれば奴が犯人とわかったも同然だ』

通話中の画面が切り替わり、数名の男の顔写真と簡単な情報が羅列されたリストが表示される。一番上のオールバックの強面の中年男が、野崎の言う「奴」だった。


 香川繁久(かがわしげひさ)。四六歳。アビリティ:奇臓異常。(ぜん)義会(ぎかい)の実質的リーダー。


 碓氷の目は、それらの情報を軽く読み流し、下の男に移る。

『本人より付き添いのほうが厄介だ、気をつけろ……お前には必要ない助言かもな』

「いえ。ご忠告ありがとうございます」

碓氷は無心でそう答え、目つきの悪い金髪の若者の情報を睨んだ。


 風嵐糸穏(かざらししおん)。二五歳。アビリティ:電気(生来)、炎、金属、水、他


 やはり軽く読み流すだけで、次の人物に移る。

『被害者が有名アイドルだけに、世間の注目も大きい。しくじるなよ?』

「了解」

空返事で答えると、すぐに通話が切れた。画面に、悪人面の揃ったリストだけが残る。碓氷は画面を閉じ、左腕を下ろした。

 碓氷は壁に背中をつけたまま、曲面鏡を生成した。部屋の中を直接覗くことなく、内部の状況を観察する。

 生きているのは全部で五人だった。いずれも敵――暴力団側の人間だが、香川らしき人物はいない。フロントの両側には、奥に伸びる通路が左右に二つ見えた。

 時間がない。

 中の敵が、虚無空間から現れた金属弾に頭を撃ち抜かれ、いっせいに倒れた。

 碓氷は警戒しながら素早くガラス戸を越えた。ガラス破片と死体、血溜まりが辺りに散乱していた。その中に、身長一六〇センチ程度の小太りの中年男はいなかった。

 奥に伸びる二本の通路に目をやる。碓氷は、非常口誘導灯に導かれるように右側を選んだ。

 通路に入ると、右側の壁に曇りガラス戸の個室が三つ並んでいた。さっそく一番手前の個室を開く。フロントから零れる明かりだけでも、人がいないのはすぐにわかった。続く二部屋目も、もぬけの殻だった。

 最後の部屋は、中の照明が点いていた。碓氷は手すりに手を掛けるや否や、勢いよくドアを蹴飛ばし、突入した。

 人の姿はなかった。隠れている気配もない。碓氷はドアを閉め、廊下に出た。突き当たりで合流するもう一方の通路を確認しに、非常口のほうへ向かう。

 足元に何かが当たった。見下ろすと、非常口のドアノブカバーだった。碓氷の目は、そのまま垂直に移動し、非常口のドアノブを捉える。

 慎重にノブを回し、扉を開いた。涼しい風が屋内に入り込む。

 外を覗くと、誰もいなかった。足を踏み出し、扉を閉める。錆びた非常階段は、特別勢いをつけて駆け下りているわけでもないのに、ガンガンとうるさい音が鳴った。崩れてしまうのではと不安を覚えるほど、足元も激しく揺れる。

 地上に降りると、そこは細い裏路地だった。人ひとり通るのがやっとで、右側には暗闇が広がっている。一方、左側の前方では大通りが横切っていた。オレンジ色の街灯と車の走行音が聞こえてくる。

 そのやや手前で、こちらに背中を向けて歩く人影が見えた。塀に手を突きながら、路地から抜け出そうとしている。

 碓氷は左に曲がり、足を速めた。

 視界全体が徐々に明るく色づいてくる。全身に纏わりつく陰湿な空気も離れていき、聞き慣れた日常音が大きくなっていく。

 前を行く人物との距離が縮んでいく。

 ちょうど裏路地から出たタイミングだった。碓氷の右手が、前を歩いていた人物の肩を掴んだ。

異保(いほ)です」

左腕の通信機を掲げる。『異保証』と表示された画面には、持ち主と同じ顔の黒色短髪のメガネを掛けた中性的な顔立ちの女性が映し出されていた。

 相手は頭のみを振り向けた。じっとりとした半開きの目が、端末の画面を睨むように一瞥する。それから碓氷を見下ろすと、観念したように身体ごと翻した。

「先程まで大蔵(おおくら)ビルにいましたよね?」

碓氷は質問しながら、相手の様相を観察した。ぼさぼさの白髪交じりの頭、皺だらけのトレンチコート。中のシャツも若干はだけている。やつれた顔と、こめかみを流れる汗。特筆すべきは、全身から漂う独特な雰囲気だ。一般人とはかけ離れた胡散臭さをまといながら、どの裏社会の人間たちとも異なる得も言われぬ何かが、この男にはあった。

 男が一向に口を開こうとしないので、碓氷は質問を重ねた。

「今まで何をしていましたか?」

一瞬、男の顔があからさまに引き攣った。

「散歩だよ」

男はごまかすように言った。声は掠れていた。

「こんな時間に、こんな場所で?」

「そうだ」

「散歩ですか?」

「そうだ」

面倒そうに応じながら、さりげなく逃げようとする男の肩を、碓氷はしっかりと捕える。その間、左手はウエストポーチから袋に入った注射器を取り出していた。ラベルには『能力抑止剤』と記載されている。

「どのルートを?」

「近所をぐるっと」

「自宅はどの辺りに?」

碓氷の質問に、男は投げやりに来た方角を指さした。

「なるほど、(いけ)(ぶくろ)五丁目ですか」

碓氷の言葉に、男はしまったというような顔を浮かべた。

池一イケイチまでご同行願える?」

碓氷は左手に持っていた袋を引き破った。ラベルシールが二つに裂け、注射器が露わになる。

 男は注射器から碓氷の目に視線を戻すと、拒絶するように顔を背けた。

「残念だが応じることはできない」

「お仲間さんを守るため?」

「庇う仲間などいない」

「だったら何故?」

 とうとう男は黙り込んだ。大きく溜息を吐き、顔を手で覆いながら俯く。

「とりあえず局まで来てください」

碓氷は注射針のキャップを外すと、顔を覆っていた右腕を掴み、引っ張った。

 目が合った。

 出口のない深淵のような黒い瞳に、意識が吸い寄せられた。まるで魅了魔術に掛かったように、目を離すことができない。

 突然、意識が混濁し始めた。自我の中に、得体の知れない感情・記憶・思考が侵入してくる。抵抗しようにも、何をすべきかわからない。

 狼狽える間にも、碓氷の意識は着実に食い潰されていった。感じていた気持ち悪さも、自我の衰弱とともに薄れていく。

 淀んでいく視界。靄掛かる音。

 無感覚。


 我に返ると、碓氷は停車中のタクシーの後部座席に座っていた。

 狐につままれるというのは、こういうことを指すのだろう。碓氷は直ちに辺りを見回した。

 脇の車窓から、ネオンライトで「vertical bar」と示されたレンガ造りの店が見えた。入口には先程のトレンチコートの男と、彼を介抱するカマーベストの男の後姿が並んでいた。碓氷が車を降りる間もなく、二人は店の中に消えた。扉に下げられた「CLOSE」の看板が揺れる。

 碓氷は肩を落とし、項垂れた。

 脚に寄り掛かるように鎮座する黒の折財布が視界に入った。碓氷は怪訝な目で睨み、拾い上げる。見覚えのないものだった。おそらく男の忘れ物だろう。中を開けると、真っ先に「帰り代」と殴り書きされた付箋が現れた。

 さらに中身を漁ろうとしたところ、

「お客さん」

前から声を掛けられ、碓氷の身体が大きく跳ねた。

「どちらまで行かれますか?」

「えっと……」

碓氷の目は再び車窓の外に向けられる。ネオンライトの照明は消えていた。


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