表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

エリンジウムの咲く庭で

作者: 伏目しい

 細い腕がすっと伸ばされるのを視界の端に捉えて、フィルリーシアは振り返った。

 フィルリーシアの数歩先、白いドレスをまとう少女の足元には、青く輝く花がゆれている。


「ナーシャ様」


 できるだけ穏やかな声で呼びかけると、白い指先がぴくりと震えた。

 枯草を靴の底で踏みつけながら、フィルリーシアは白いドレスにゆっくりと近付く。


「いけません。その花には棘があります」


 ドレスが、泡立つ波のようにふわりとゆれた。少女の透きとおるように輝く金色の髪を、風がやわらかくなでてゆく。


「棘があってはいけませんか? フィル」


 エメラルドの瞳がフィルリーシアを見上げた。

 少しふくらんだ頬の幼さに、フィルリーシアは小さく笑う。


「ナーシャ様に傷がつくようなことがあっては、わたしが大臣に叱られてしまいますよ」

「これくらい平気よ。旅をしている時には、もっと酷い怪我もたくさんあったもの。フィルも知っているでしょう?」


 くすくすと笑うナーシャにあわせて、銀の腕輪がしゃらりと音を立てた。


「デオルドにも困ったものだわ。彼にとって、わたくしは小さな子どものままなのね」

「ナーシャ様を心配しておられるのです。今日は、特に大切な日ですから」


 微笑んで、フィルリーシアは庭の隅に顔を向けた。その視線の先では、二人の侍女が静かに一礼している。

 もうそんな時間かと、ナーシャは人知れずため息をついた。花を愛でる暇さえない身の上を虚しく思うが、すぐにかぶりを振って思い直す。


 ――いけない。これが、私たちが選んだ道なのだから。


「次にお会いする時には、ナーシャ女王陛下ですね。陛下、とお呼びした方がよろしいですか?」


 俯くナーシャに、フィルリーシアが明るく声をかけた。いつになく軽い調子に、ナーシャの頬に笑みが浮かぶ。


「やめてください、フィル。あなたにそう呼ばれてしまうと、恥ずかしくて返事ができません。これまでと同じように、ナーシャと」


 そう返すと、生真面目な騎士の肩が小さくゆれた。彼なりに緊張をほぐそうとしてくれているのだとわかって、ナーシャはそっと息をはく。


 胸の内を、冷たい風が吹き抜けていった。


 すっと姿勢を正し、ナーシャはフィルリーシアを見上げる。まだ幼さの残る顔立ちは、ここ数年でずいぶんと凛々しくなった。

 深い海の色をした瞳からそっと目をそらして、囁くように、ナーシャは呟く。


「では、いってきますね。またあとで……フィル」


 城の向こう、正面広場の喧騒が、風に乗って耳に届いた。国中の人々が、新しい女王の誕生を待ち望んでいる。


 魔王を倒した聖女。伝説の姫巫女。エネルテル王家が残した最後の光。


 数多の名声とともに、今宵、女王ナーシャの名は世界中に轟くだろう。そして、その名は未来永劫語り継がれ、この先の時代を生きる人々の希望の光となるのだ。


 歩き出したナーシャの手を、フィルリーシアが優しくつかんだ。葉音とともに、ナーシャは足を止める。

 不思議そうに首をかしげるナーシャの足元に、フィルリーシアはそっと跪いた。

 騎士の誓いを立てた時と同じように、姫の手をとり頭を垂れる。


「この身が滅びるまで、わたしはナーシャ様とともにあります」


 いつかと同じ誓いの言葉に、エメラルドの瞳がゆれた。


「ありがとう、フィル」


 ナーシャが微笑むと、フィルリーシアも笑みを浮かべて立ち上がった。

 頭ひとつ高いところにある瞳には、いたずらを仕掛ける少年のような光がある。


「わたくしのフィル……とは、呼んでくださらないのですか。昔のように」


 目をぱちりとさせて、ナーシャは破顔した。


「からかわないでください、フィル」


 金色に輝く髪がゆれ、腕輪がしゃらしゃらと音を立てた。エメラルドの瞳をのぞき込んで、フィルリーシアもそっと目を細める。


「わたくしも、いつまでも幼い姫ではないのですよ」


 すました顔でそういうと、ナーシャは城へと歩き出した。

 その背中を見送るフィルリーシアの頭上では、月が、白く世界を照らしていた。




 ◆◆◆




 その日は、突然やってきた。


 太陽はふたつに割れ、月は赤く染まり、星は次々に堕ちていった。

 暗闇に覆われた世界の中で、人々は神に祈りを捧げたが、願いは届かなかった。

 魔が蔓延り、生き物は飢え、各地で戦乱の火が燃え上がった。


 混沌は、長く続いた。


 数百年の時が過ぎ、やがて、ひとりの預言者が現れて、天の言葉をみなに伝えた。


 曰く、これより百年ののち、エネルテル王家の血を継ぐ者が誕生するだろう。その者は聖なる光を持ち、力ある騎士を従えて、厄災の根源たる魔王を討ち滅ぼす。魔を滅した光が王座にある時、世界は闇から解放され、新たなる歴史の扉が開かれるだろう、と。


 人々は待った。

 聖なる光の誕生を。


 預言が歴史となり、記憶が記録に変わろうとも、人々は待ち続けた。


 やがて生まれた、聖なる光。

 エネルテル王家の最後の希望。

 生まれながらの聖女、それが、姫巫女ナーシャである。




 ◆◆◆




 戴冠式は厳かに進んだ。

 玉座の間に集まった者はみな固く口を結び、衣擦れの音ひとつ立てることはない。


 ナーシャの頭上に王冠を捧げた教皇の手が震えているのを、フィルリーシアは他人事のように見つめていた。

 無理もない、と思う。

 数百年の人類の願いが、今、目の前にあるのだ。


 王冠を戴いたナーシャが、ゆっくりと立ち上がった。振り返り、広間を見下ろす。その場の全員が、一斉に跪いた。

 沈黙の中、ナーシャはバルコニーへと歩みを進める。白いドレスが、赤い絨毯の上で波打つようにゆれた。


 バルコニーに姿を現した女王に、民衆は快哉を叫んだ。

 花火が打ち上がり、祭りが始まる。聖なる女王ナーシャの誕生を、世界中が祝福した。


 華やかな宴から少し離れたところに、フィルリーシアは佇んでいた。

 国中が祝いの喧騒に包まれようと、彼がなすべきことは変わらない。騎士の役目は、姫巫女の護衛であった。その他のことは知らないし、知る必要はない。


 世界を光に導くことが、聖女ナーシャの願いであった。ならば、騎士フィルリーシアがなすべきは、聖女を護り、混沌たる世界に安寧をもたらすことだけだ。


 玉座では女王ナーシャが、貴族の礼に笑みを返していた。

 その姿を遠くから見つめて、フィルリーシアは腰に帯びた剣にそっと触れる。いくつもの戦いをともにくぐり抜けてきた相棒は、無骨な騎士の手によく馴染んだ。


 ふいに覚えのある気配が空気にまじって、エメラルドの瞳がフィルリーシアを捉えた。

 まわりに気付かれないように薄く微笑んで、女王はすぐに目の前の貴族に視線を戻す。

 ナーシャの視線に応えて、フィルリーシアは深く一礼した。


 ――そうだ、やるべきことは変わらない。


 深い海の色をした瞳の奥に、小さな光がゆらめく。


 ――世界のために、聖女を護ることが騎士の役目だ。


 決意を込めて、フィルリーシアはナーシャを見つめる。

 美しく微笑む女王は、まさしく聖女であった。

 その姿に、フィルリーシアは胸の内でそっと呟く。


 ――この身が滅びるまで、ナーシャ様をお護りする。この誓いは、この先も変わることはない。


 世界の光が消えることがあってはならない。

 幼き日の約束を、違えることはない。

 たとえ、みなに囲まれて美しく微笑む女王が、本物のナーシャではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()




 ◆◆◆




 魔王イリミラは美しく微笑んだ。

 広間の人々の声に応え、時に手を取り、優しい眼差しを向ける。

 涙を流す老婦人にそっと手を差し伸べる姿は、聖女ナーシャそのものだった。


 祝辞を述べる貴族たちを見回して、ありがとうと笑みを返す。

 舌と喉にかけた魔法で肺の奥が締め付けられるように痛んだが、決して顔には出さなかった。

 最期の時まで、誰にも気取られてはならない。たとえ荊棘が身体中を刺すような痛みが続いたとしても。


 これは、私たちが。

 聖女ナーシャと魔王イリミラが選んだ道なのだから。




 聖女が魔王の城にたどり着いた時、すでにイリミラに力はなかった。

 長くイリミラを苦しめた魔女の呪いは、魔王イリミラ自身を焼き続け、吐き出された火の粉は天地に飛び散って世界中に燃え広がった。


 魔女の呪いは太陽を砕き、月を焼き尽くして、星を墜とした。あふれた炎は世界を災禍と絶望で覆いつくし、この世の理を壊して天地をかき乱す。


 闇が、全てを支配した。


 混沌に包まれた世界の中心で、イリミラはただ叫び続けた。しかし、どれだけ泣き叫ぼうとも、炎が消えることはない。イリミラが魔王である限り、イリミラがイリミラである限り、魔女の呪いが解けることはない。遠い祖先が負った恨みが、イリミラを縛り付けていた。


 イリミラにできるのは、ただ待つことだけだった。

 いつかこの苦しみを終わらせてくれる誰かを。魔王を斃し、イリミラを魔女の呪いから解き放つ誰かが現れる時を。


 数百年の絶望の果てに、ついにその時は訪れた。聖なる光をまとう姫巫女が、魔王の城に攻め込んできたのだ。


 城の結界が破られる気配に、イリミラは歓喜した。

 もはや歩くこともできないほどに身体は朽ちかけていたが、最後の力を振り絞って立ち上がる。


 早く解放して欲しい。

 この苦しみから、一刻も早く。


 炎に包まれる魔王をひと目見て、聖女は息を呑んだ。

 戸惑う聖女へ向かって、イリミラは炎の中から腕を伸ばす。護衛の騎士が、聖女を庇うように前へ躍り出た。


「ナーシャ様!」


 はっとした顔で、聖女は騎士を見上げた。一瞬だけ目を伏せてかぶりを振ると、気を引き締めたように表情を固くする。


 聖女の強い眼差しがイリミラを見据えた。

 それでいいのだと、イリミラは頷く。その光で、魔女の呪いごとこの身を滅ぼして欲しい。生まれながらの災厄である魔王イリミラの、それが唯一の願いであった。


 聖女の光が、魔王を貫く。

 心臓が裂け、イリミラの口からは血があふれ出した。


 ああ、やっと、終わることができる。


 イリミラが笑みを浮かべた瞬間、呪いの炎が渦を巻いた。

 天高く打ち上げられた火柱が、竜の姿となって騎士に襲いかかる。


「フィル!」


 聖女が叫ぶと同時に、騎士は地面へと叩きつけられた。剣を構えて炎を受けた騎士は、竜とともに城の外へ飛び出してゆく。


 その場には、燃え滓となった魔王と聖女だけが残された。


 聖女が、魔王に歩み寄る。四肢を投げ出して横たわるイリミラに向けて、ナーシャはそっと手をかざした。

 聖なる光が、壊れかけたイリミラの身体を癒してゆく。


「やめろ」


 全てを包み込むようなあたたかな光を、イリミラは振り払った。


「必要ない。終わりたいのだ、私は」


 魔王の訴えに、聖女は首を振った。


「わたくしには世界を光に導く使命があります。ただ、その責を全うしているだけです」

「ならばその役目を果たせ。私を斃して世界を救うのだろう」


 消えそうなほどにか細いイリミラの声に、ナーシャはやわらかな笑みを浮かべる。銀の腕輪が、しゃらりと音を立てた。


「あなたも、わたくしが救う世界の一部です」


 イリミラの目に涙があふれた。

 行方の知らない感情が、次から次へと流れ出てくる。


 おだやかに微笑むナーシャが、イリミラに手を差し出す。震える指先は、躊躇いつつも光を求めた。


 イリミラがその手にふれた瞬間、魔女の業火が聖女を飲み込んだ。

 ナーシャの絶叫があたりに響く。


 黒い炎は聖女を包み込み、光を喰らうように燃え上がる。炎は、イリミラの内にわずかに残っていた呪いの欠片であった。


 命を燃やすような叫びをあげる聖女を、イリミラは呆然と見つめた。


 なぜ、魔女の呪いがここに。

 いやそれよりも、このままでは聖女の身体が持たない。


 魔物ではない人の身では、呪いの炎に耐えられるはずはなかった。


 イリミラは黒い炎に両腕を突っ込んだ。

 ナーシャの手を掴み引き出そうとしたが、呪いは聖女の身体に絡みついて引き剥がすことができない。


 崩れゆく聖女の身体を支えようと炎に飛び込むと、苦痛に歪む聖女の顔が見えた。

 苦しみの中で、聖女が叫ぶ。


 どうか、世界に光を――と。


 エメラルドの瞳が、イリミラを見つめる。その瞳に、魔王は深く頷いた。




 ◆◆◆




 玉座から人々を見下ろして、女王はそっと目を伏せた。

 広間の賑わいも城の外の祭囃子も、遠い何処かで騒めく波音のように、耳の奥で静かに響く。

 イリミラは、微かにため息をついた。


 人の形をつくるのは容易くはない。誰かに似せるのならば尚のこと、仕草や声色、記憶までも模倣しなければならない。


 聖女ナーシャの姿を保つために何重にもかけた魔法が、内側からイリミラの身体を蝕んでいた。

 いずれ皮膚はひび割れ、この顔は醜く爛れ落ちるだろう。


 魔王の力も、さほど残ってはいなかった。

 元々、王とは名ばかりの魔族の生き残りだ。わずかな魔力とその器たる肉体の強さの他には、イリミラにたいした力はない。その魔族の身体も、数百年ものあいだ魔女の呪いを受け続けた今となっては、あまり長く保ちそうになかった。


 ただもう少し、あとしばらくの間だけ、聖女の姿であればそれでいい。

 この世界には、もう少しだけ、聖女ナーシャが必要だった。


 待ち望んだ平和に安堵し、歓喜に沸く人々の声に、イリミラの胸はしんと冷える。


 あの日、焼け落ちるように崩れた聖女の亡骸から、イリミラはナーシャの記憶を拾い集めた。

 エメラルドの瞳にうつる人々が、少女を見上げて祈りを捧げる。

 救いを求める人々に、少女はいつもおだやかな笑みを向けた。

 己の使命を果たさんと気丈に振る舞う少女の胸に、時折、暗い影が落ちる。


 怖い。

 死にたくない。

 できない。

 やめたい。

 嫌だ。

 なぜ私が。

 どうして、私だけが。


 幼馴染の騎士にさえ、少女は胸の内の全てを明かすことはなかった。

 少女は聖女であって、その他のものにはなり得なかった。

 聖女の証たる銀の腕輪は、少女に繋がれた鎖であった。


 死の間際さえ、少女は世界に光があることを願った。

 自らの生ではなく、世界のために。

 それが、聖女として生まれた少女の、唯一の存在理由だった。




 微かな気配を感じて、女王はゆっくりと瞼をあげる。

 エメラルドの視線の先には、幼馴染の騎士の姿があった。


 小さく笑みを向ける女王に、騎士は深く一礼する。

 これまでと変わらぬその態度に、イリミラは小さく息をはいた。


 聖女が騎士のことを、「わたくしのフィル」と呼んだことはない。

 ナーシャの残滓に、そんな記憶はなかった。


 ――騎士は、聖女が偽物であることに気付いている。


 その事実に、イリミラは深く安堵した。


 騎士の手には、いつも剣があった。宴の場でも決して手放すことのないその剣は、魔女の呪いの化身たる竜を打ち滅ぼしたものだった。

 呪いがあと少し早く魔王イリミラに死を与えていたならば。イリミラの中に、呪いの欠片が残っていなければ。聖女が業火に焼かれることはなかったのだ。


 騎士の視線を微かに感じながら、イリミラは願った。


 いつかその剣で、私の心臓をひと突きに刺すといい。


 その時ようやく、聖女ナーシャと魔王イリミラは、世界から解放されるのだ。

 長い呪いから解き放たれ、安らかな眠りにつくことができるだろう。


 あと少し。

 もう少しだけ耐えれば、きっと。


 笑みを浮かべた口元が、裂けるように痛む。ドレスがゆれるたびに、皮膚が焼けるように熱くなった。

 微笑みの裏で、女王は静かに呟く。


 もし許されるならば、最期はあの庭で迎えたい。

 城のすみにある、青い花が咲くあの庭で。


 過ぎた願いだと、イリミラは笑う。

 災厄の根源たる身に、そんな贅沢な死が許されるはずもなかった。


 せめて胸の内だけで、あの花の夢を見よう。


 賑やかな宴の喧騒に包まれながら、女王は静かに目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ