エリンジウムの咲く庭で
細い腕がすっと伸ばされるのを視界の端に捉えて、フィルリーシアは振り返った。
フィルリーシアの数歩先、白いドレスをまとう少女の足元には、青く輝く花がゆれている。
「ナーシャ様」
できるだけ穏やかな声で呼びかけると、白い指先がぴくりと震えた。
枯草を靴の底で踏みつけながら、フィルリーシアは白いドレスにゆっくりと近付く。
「いけません。その花には棘があります」
ドレスが、泡立つ波のようにふわりとゆれた。少女の透きとおるように輝く金色の髪を、風がやわらかくなでてゆく。
「棘があってはいけませんか? フィル」
エメラルドの瞳がフィルリーシアを見上げた。
少しふくらんだ頬の幼さに、フィルリーシアは小さく笑う。
「ナーシャ様に傷がつくようなことがあっては、わたしが大臣に叱られてしまいますよ」
「これくらい平気よ。旅をしている時には、もっと酷い怪我もたくさんあったもの。フィルも知っているでしょう?」
くすくすと笑うナーシャにあわせて、銀の腕輪がしゃらりと音を立てた。
「デオルドにも困ったものだわ。彼にとって、わたくしは小さな子どものままなのね」
「ナーシャ様を心配しておられるのです。今日は、特に大切な日ですから」
微笑んで、フィルリーシアは庭の隅に顔を向けた。その視線の先では、二人の侍女が静かに一礼している。
もうそんな時間かと、ナーシャは人知れずため息をついた。花を愛でる暇さえない身の上を虚しく思うが、すぐにかぶりを振って思い直す。
――いけない。これが、私たちが選んだ道なのだから。
「次にお会いする時には、ナーシャ女王陛下ですね。陛下、とお呼びした方がよろしいですか?」
俯くナーシャに、フィルリーシアが明るく声をかけた。いつになく軽い調子に、ナーシャの頬に笑みが浮かぶ。
「やめてください、フィル。あなたにそう呼ばれてしまうと、恥ずかしくて返事ができません。これまでと同じように、ナーシャと」
そう返すと、生真面目な騎士の肩が小さくゆれた。彼なりに緊張をほぐそうとしてくれているのだとわかって、ナーシャはそっと息をはく。
胸の内を、冷たい風が吹き抜けていった。
すっと姿勢を正し、ナーシャはフィルリーシアを見上げる。まだ幼さの残る顔立ちは、ここ数年でずいぶんと凛々しくなった。
深い海の色をした瞳からそっと目をそらして、囁くように、ナーシャは呟く。
「では、いってきますね。またあとで……フィル」
城の向こう、正面広場の喧騒が、風に乗って耳に届いた。国中の人々が、新しい女王の誕生を待ち望んでいる。
魔王を倒した聖女。伝説の姫巫女。エネルテル王家が残した最後の光。
数多の名声とともに、今宵、女王ナーシャの名は世界中に轟くだろう。そして、その名は未来永劫語り継がれ、この先の時代を生きる人々の希望の光となるのだ。
歩き出したナーシャの手を、フィルリーシアが優しくつかんだ。葉音とともに、ナーシャは足を止める。
不思議そうに首をかしげるナーシャの足元に、フィルリーシアはそっと跪いた。
騎士の誓いを立てた時と同じように、姫の手をとり頭を垂れる。
「この身が滅びるまで、わたしはナーシャ様とともにあります」
いつかと同じ誓いの言葉に、エメラルドの瞳がゆれた。
「ありがとう、フィル」
ナーシャが微笑むと、フィルリーシアも笑みを浮かべて立ち上がった。
頭ひとつ高いところにある瞳には、いたずらを仕掛ける少年のような光がある。
「わたくしのフィル……とは、呼んでくださらないのですか。昔のように」
目をぱちりとさせて、ナーシャは破顔した。
「からかわないでください、フィル」
金色に輝く髪がゆれ、腕輪がしゃらしゃらと音を立てた。エメラルドの瞳をのぞき込んで、フィルリーシアもそっと目を細める。
「わたくしも、いつまでも幼い姫ではないのですよ」
すました顔でそういうと、ナーシャは城へと歩き出した。
その背中を見送るフィルリーシアの頭上では、月が、白く世界を照らしていた。
◆◆◆
その日は、突然やってきた。
太陽はふたつに割れ、月は赤く染まり、星は次々に堕ちていった。
暗闇に覆われた世界の中で、人々は神に祈りを捧げたが、願いは届かなかった。
魔が蔓延り、生き物は飢え、各地で戦乱の火が燃え上がった。
混沌は、長く続いた。
数百年の時が過ぎ、やがて、ひとりの預言者が現れて、天の言葉をみなに伝えた。
曰く、これより百年ののち、エネルテル王家の血を継ぐ者が誕生するだろう。その者は聖なる光を持ち、力ある騎士を従えて、厄災の根源たる魔王を討ち滅ぼす。魔を滅した光が王座にある時、世界は闇から解放され、新たなる歴史の扉が開かれるだろう、と。
人々は待った。
聖なる光の誕生を。
預言が歴史となり、記憶が記録に変わろうとも、人々は待ち続けた。
やがて生まれた、聖なる光。
エネルテル王家の最後の希望。
生まれながらの聖女、それが、姫巫女ナーシャである。
◆◆◆
戴冠式は厳かに進んだ。
玉座の間に集まった者はみな固く口を結び、衣擦れの音ひとつ立てることはない。
ナーシャの頭上に王冠を捧げた教皇の手が震えているのを、フィルリーシアは他人事のように見つめていた。
無理もない、と思う。
数百年の人類の願いが、今、目の前にあるのだ。
王冠を戴いたナーシャが、ゆっくりと立ち上がった。振り返り、広間を見下ろす。その場の全員が、一斉に跪いた。
沈黙の中、ナーシャはバルコニーへと歩みを進める。白いドレスが、赤い絨毯の上で波打つようにゆれた。
バルコニーに姿を現した女王に、民衆は快哉を叫んだ。
花火が打ち上がり、祭りが始まる。聖なる女王ナーシャの誕生を、世界中が祝福した。
華やかな宴から少し離れたところに、フィルリーシアは佇んでいた。
国中が祝いの喧騒に包まれようと、彼がなすべきことは変わらない。騎士の役目は、姫巫女の護衛であった。その他のことは知らないし、知る必要はない。
世界を光に導くことが、聖女ナーシャの願いであった。ならば、騎士フィルリーシアがなすべきは、聖女を護り、混沌たる世界に安寧をもたらすことだけだ。
玉座では女王ナーシャが、貴族の礼に笑みを返していた。
その姿を遠くから見つめて、フィルリーシアは腰に帯びた剣にそっと触れる。いくつもの戦いをともにくぐり抜けてきた相棒は、無骨な騎士の手によく馴染んだ。
ふいに覚えのある気配が空気にまじって、エメラルドの瞳がフィルリーシアを捉えた。
まわりに気付かれないように薄く微笑んで、女王はすぐに目の前の貴族に視線を戻す。
ナーシャの視線に応えて、フィルリーシアは深く一礼した。
――そうだ、やるべきことは変わらない。
深い海の色をした瞳の奥に、小さな光がゆらめく。
――世界のために、聖女を護ることが騎士の役目だ。
決意を込めて、フィルリーシアはナーシャを見つめる。
美しく微笑む女王は、まさしく聖女であった。
その姿に、フィルリーシアは胸の内でそっと呟く。
――この身が滅びるまで、ナーシャ様をお護りする。この誓いは、この先も変わることはない。
世界の光が消えることがあってはならない。
幼き日の約束を、違えることはない。
たとえ、みなに囲まれて美しく微笑む女王が、本物のナーシャではなく、魔王イリミラが化けた偽物であったとしても。
◆◆◆
魔王イリミラは美しく微笑んだ。
広間の人々の声に応え、時に手を取り、優しい眼差しを向ける。
涙を流す老婦人にそっと手を差し伸べる姿は、聖女ナーシャそのものだった。
祝辞を述べる貴族たちを見回して、ありがとうと笑みを返す。
舌と喉にかけた魔法で肺の奥が締め付けられるように痛んだが、決して顔には出さなかった。
最期の時まで、誰にも気取られてはならない。たとえ荊棘が身体中を刺すような痛みが続いたとしても。
これは、私たちが。
聖女ナーシャと魔王イリミラが選んだ道なのだから。
聖女が魔王の城にたどり着いた時、すでにイリミラに力はなかった。
長くイリミラを苦しめた魔女の呪いは、魔王イリミラ自身を焼き続け、吐き出された火の粉は天地に飛び散って世界中に燃え広がった。
魔女の呪いは太陽を砕き、月を焼き尽くして、星を墜とした。あふれた炎は世界を災禍と絶望で覆いつくし、この世の理を壊して天地をかき乱す。
闇が、全てを支配した。
混沌に包まれた世界の中心で、イリミラはただ叫び続けた。しかし、どれだけ泣き叫ぼうとも、炎が消えることはない。イリミラが魔王である限り、イリミラがイリミラである限り、魔女の呪いが解けることはない。遠い祖先が負った恨みが、イリミラを縛り付けていた。
イリミラにできるのは、ただ待つことだけだった。
いつかこの苦しみを終わらせてくれる誰かを。魔王を斃し、イリミラを魔女の呪いから解き放つ誰かが現れる時を。
数百年の絶望の果てに、ついにその時は訪れた。聖なる光をまとう姫巫女が、魔王の城に攻め込んできたのだ。
城の結界が破られる気配に、イリミラは歓喜した。
もはや歩くこともできないほどに身体は朽ちかけていたが、最後の力を振り絞って立ち上がる。
早く解放して欲しい。
この苦しみから、一刻も早く。
炎に包まれる魔王をひと目見て、聖女は息を呑んだ。
戸惑う聖女へ向かって、イリミラは炎の中から腕を伸ばす。護衛の騎士が、聖女を庇うように前へ躍り出た。
「ナーシャ様!」
はっとした顔で、聖女は騎士を見上げた。一瞬だけ目を伏せてかぶりを振ると、気を引き締めたように表情を固くする。
聖女の強い眼差しがイリミラを見据えた。
それでいいのだと、イリミラは頷く。その光で、魔女の呪いごとこの身を滅ぼして欲しい。生まれながらの災厄である魔王イリミラの、それが唯一の願いであった。
聖女の光が、魔王を貫く。
心臓が裂け、イリミラの口からは血があふれ出した。
ああ、やっと、終わることができる。
イリミラが笑みを浮かべた瞬間、呪いの炎が渦を巻いた。
天高く打ち上げられた火柱が、竜の姿となって騎士に襲いかかる。
「フィル!」
聖女が叫ぶと同時に、騎士は地面へと叩きつけられた。剣を構えて炎を受けた騎士は、竜とともに城の外へ飛び出してゆく。
その場には、燃え滓となった魔王と聖女だけが残された。
聖女が、魔王に歩み寄る。四肢を投げ出して横たわるイリミラに向けて、ナーシャはそっと手をかざした。
聖なる光が、壊れかけたイリミラの身体を癒してゆく。
「やめろ」
全てを包み込むようなあたたかな光を、イリミラは振り払った。
「必要ない。終わりたいのだ、私は」
魔王の訴えに、聖女は首を振った。
「わたくしには世界を光に導く使命があります。ただ、その責を全うしているだけです」
「ならばその役目を果たせ。私を斃して世界を救うのだろう」
消えそうなほどにか細いイリミラの声に、ナーシャはやわらかな笑みを浮かべる。銀の腕輪が、しゃらりと音を立てた。
「あなたも、わたくしが救う世界の一部です」
イリミラの目に涙があふれた。
行方の知らない感情が、次から次へと流れ出てくる。
おだやかに微笑むナーシャが、イリミラに手を差し出す。震える指先は、躊躇いつつも光を求めた。
イリミラがその手にふれた瞬間、魔女の業火が聖女を飲み込んだ。
ナーシャの絶叫があたりに響く。
黒い炎は聖女を包み込み、光を喰らうように燃え上がる。炎は、イリミラの内にわずかに残っていた呪いの欠片であった。
命を燃やすような叫びをあげる聖女を、イリミラは呆然と見つめた。
なぜ、魔女の呪いがここに。
いやそれよりも、このままでは聖女の身体が持たない。
魔物ではない人の身では、呪いの炎に耐えられるはずはなかった。
イリミラは黒い炎に両腕を突っ込んだ。
ナーシャの手を掴み引き出そうとしたが、呪いは聖女の身体に絡みついて引き剥がすことができない。
崩れゆく聖女の身体を支えようと炎に飛び込むと、苦痛に歪む聖女の顔が見えた。
苦しみの中で、聖女が叫ぶ。
どうか、世界に光を――と。
エメラルドの瞳が、イリミラを見つめる。その瞳に、魔王は深く頷いた。
◆◆◆
玉座から人々を見下ろして、女王はそっと目を伏せた。
広間の賑わいも城の外の祭囃子も、遠い何処かで騒めく波音のように、耳の奥で静かに響く。
イリミラは、微かにため息をついた。
人の形をつくるのは容易くはない。誰かに似せるのならば尚のこと、仕草や声色、記憶までも模倣しなければならない。
聖女ナーシャの姿を保つために何重にもかけた魔法が、内側からイリミラの身体を蝕んでいた。
いずれ皮膚はひび割れ、この顔は醜く爛れ落ちるだろう。
魔王の力も、さほど残ってはいなかった。
元々、王とは名ばかりの魔族の生き残りだ。わずかな魔力とその器たる肉体の強さの他には、イリミラにたいした力はない。その魔族の身体も、数百年ものあいだ魔女の呪いを受け続けた今となっては、あまり長く保ちそうになかった。
ただもう少し、あとしばらくの間だけ、聖女の姿であればそれでいい。
この世界には、もう少しだけ、聖女ナーシャが必要だった。
待ち望んだ平和に安堵し、歓喜に沸く人々の声に、イリミラの胸はしんと冷える。
あの日、焼け落ちるように崩れた聖女の亡骸から、イリミラはナーシャの記憶を拾い集めた。
エメラルドの瞳にうつる人々が、少女を見上げて祈りを捧げる。
救いを求める人々に、少女はいつもおだやかな笑みを向けた。
己の使命を果たさんと気丈に振る舞う少女の胸に、時折、暗い影が落ちる。
怖い。
死にたくない。
できない。
やめたい。
嫌だ。
なぜ私が。
どうして、私だけが。
幼馴染の騎士にさえ、少女は胸の内の全てを明かすことはなかった。
少女は聖女であって、その他のものにはなり得なかった。
聖女の証たる銀の腕輪は、少女に繋がれた鎖であった。
死の間際さえ、少女は世界に光があることを願った。
自らの生ではなく、世界のために。
それが、聖女として生まれた少女の、唯一の存在理由だった。
微かな気配を感じて、女王はゆっくりと瞼をあげる。
エメラルドの視線の先には、幼馴染の騎士の姿があった。
小さく笑みを向ける女王に、騎士は深く一礼する。
これまでと変わらぬその態度に、イリミラは小さく息をはいた。
聖女が騎士のことを、「わたくしのフィル」と呼んだことはない。
ナーシャの残滓に、そんな記憶はなかった。
――騎士は、聖女が偽物であることに気付いている。
その事実に、イリミラは深く安堵した。
騎士の手には、いつも剣があった。宴の場でも決して手放すことのないその剣は、魔女の呪いの化身たる竜を打ち滅ぼしたものだった。
呪いがあと少し早く魔王イリミラに死を与えていたならば。イリミラの中に、呪いの欠片が残っていなければ。聖女が業火に焼かれることはなかったのだ。
騎士の視線を微かに感じながら、イリミラは願った。
いつかその剣で、私の心臓をひと突きに刺すといい。
その時ようやく、聖女ナーシャと魔王イリミラは、世界から解放されるのだ。
長い呪いから解き放たれ、安らかな眠りにつくことができるだろう。
あと少し。
もう少しだけ耐えれば、きっと。
笑みを浮かべた口元が、裂けるように痛む。ドレスがゆれるたびに、皮膚が焼けるように熱くなった。
微笑みの裏で、女王は静かに呟く。
もし許されるならば、最期はあの庭で迎えたい。
城のすみにある、青い花が咲くあの庭で。
過ぎた願いだと、イリミラは笑う。
災厄の根源たる身に、そんな贅沢な死が許されるはずもなかった。
せめて胸の内だけで、あの花の夢を見よう。
賑やかな宴の喧騒に包まれながら、女王は静かに目を閉じた。