アニス、二歳
アニスが二歳になった。相変わらず、成長はゆっくりだ。魔族の一歳にも遠く及ばない。
この頃こいつは、洗面台によじ登ることを使命としているふしがある。いくらそこはダメだと叱っても、やめないんだよなあ。ちょっとでも目を離すと、すぐに洗面台をよじ登ろうとしている。「こら」と叱りつけると「しまった」という顔をするから、「いけないこと」をしている自覚はあるらしい。でもやめない。
だが、洗面台は危険だ。ひげそり用のカミソリとか、決して触って欲しくない危険物が置いてある。「ここだけは絶対にダメな場所」をピンポイントで狙うあの嗅覚は、本当におそろしい。「そこに洗面台があるから」みたいな冒険家じみた使命感に燃えるのは、やめてほしいんだけど。ひげそるのやめて、カミソリを片付けちまおうかな。
いや、違う。そういう問題じゃなかった。
硬いものしかない場所で、高いところまでよじ登るという、その行為自体がダメなのだ。頭から落ちたらどうする。あいつは間違いなく、よじ登りきってから手を滑らせ、後頭部から落下するだろう。そういうやつなのだ。
散々悩んだ末、俺は方針転換することにした。よじ登りたいなら、好きなだけ登れ。ただし、登ってもいい場所を、俺の見ているところでな。
俺は居間のソファーの前で、アニスを床に下ろす。そしてソファーに深く腰掛けた。
「さあ、おいで」
意味がわからないのか、アニスはきょとんとしている。
「どうした、登らないのか? ここならいくらでも登っていいぞ。ほら、おいで」
膝をポンポンと叩いてみせると、やっと意味を理解したようだ。大喜びで飛びついてきた。
「手伝おうか?」
「ううん」
ふうん。そのわりには、手を滑らせてはコロンと尻もちをついている。でもコケるのなんて、最初から想定済みだ。少々激しくコケても頭を打つことのないよう、ローテーブルは遠ざけてある。危なければいつでも手を出せるし、これなら安心だ。
何度コケても、アニスは諦めない。いつもならときどきチラチラと俺のほうに視線を向けるのに、集中しきっているのか真剣そのものだ。全くこちらを見なかった。この情熱はどこからくるんだろう。ソファーだからいいが、この意気込みを洗面台に向けられてはたまらない。やはり、俺は正しかった。
しばらく悪戦苦闘した末、アニスはソファーの上に置いてあるクッションに手を伸ばした。お? 踏み台にする気か。知恵を使いやがった。
でも、そういう安定の悪いものを足がかりにすると、危険度が増すんだよなー。俺が見てる前だからいいけど、見てないところでこれをやられたらと思うと、ゾッとする。案の定、グラグラした挙げ句に足を滑らせ、背中から落ちた。しかも普通に落ちるときより高さがあるから、頭をぶつける勢いだ。
頭だけは打たないよう、ぶつける前に手を出す。ああ、安心だ。
飽きることなくチャレンジを繰り返し、やがてアニスは俺の膝によじ登った。ものすごく得意そうな顔で飛びついてくる。それを抱きとめて、頭をなでてやった。
「のぼれたな」
「うん!」
「もう一回やるか?」
「やる」
やるのか……。下ろしてやると、再びチャレンジを始めた。しかも、何度でも飽きることなく繰り返す。よく飽きないよな。もっともこちらは見てるだけだから、たいした手間はないが。
だがこのときを境に、アニスは俺の足を「よじ登るべきもの」にカテゴライズしてしまった。どこにいようと、何をしていようと足にしがみついてくる。
洗面台の攻略を目指されるよりはよほどマシなんだが、やはり困ることもある。たとえばテーブルや机の前に座ってるときとか。よじ登る過程で間違いなく、天板の角に頭をゴチッとぶつける。だからよじ登っていいのは、ソファーにいるときだけ、とルールを決めた。おかげでソファーに座るが早いか、何も言わなくともよじ登りに来る。
まあ、いいよ。ここならいい。好きなだけ登れ。
このとき、アニスには「テーブルや机みたいに上に物がある場所は、危ないからダメ」と説明した。でもこの説明は、あまりよくなかった。それに気づくのは、少し後のことだ。
今日はアニスが二歳になった誕生日祝いだ。シェムとニコルが来てくれた。今回はさらに、ゴブリンやドワーフたちも祝いに来た。
「チャーリー! ベン!」
そう、アニスは「ぶぶー」を卒業した。今はもう、ちゃんと個別に名前を呼べる。俺が心の安寧を得るために、名前を覚えるたび大げさに褒めちぎってやった甲斐があったというものだ。
二歳の誕生日に、魔族はケーキを焼く風習がある。どっしりと重量感のあるケーキで、ナッツや大きめのドライフルーツがゴロゴロと入ったものだ。だがアニスにこれはまだ早い。歯はそれなりに生えそろってきたものの、かむ力がそれほど発達していないからだ。
うかつに食べさせたら、ろくにかまずにのみ込んで、喉に詰まらせること請け合いである。危険すぎる。
それでシェムは、アニスにも食べられるケーキを持参してきてくれた。形や色は伝統的な誕生日ケーキにそっくりなのに、中身はフワフワで、ナッツもドライフルーツもなし。これならアニスにも無理なく食べられるだろう。
ドワーフたちは、なんとアニス用のベッドをプレゼントしてくれた。小型種用の標準サイズのものだ。小型種の身長は、だいたい中型種の四分の三くらい。だからこのサイズのベッドは、中型種だと一歳から四歳くらいまで使うことが多い。高さも小型種に合わせてあるから、アニスでも自分で危なげなく乗り降りできそうだ。たぶんこれは、小型種向けの中でも低めなほうじゃないかな。
新しいベッドが俺の寝室に運び込まれ、それまで使っていたベッドは、子どもの生まれた誰かの家に引き取られて行った。もし引き取り手がいなかったら、ドワーフたちがバラして別の家具に生まれ変わらせることになっていたらしい。
「ほら、新しいベッドだ」
「おー」
アニスは純白に塗られたフレームがいたく気に入ったようだ。しかし、ベッドが気に入ったからといって、そこで寝たがるかというと、それとこれとは話が別らしい。寝かしつけようとベッドに連れていくと、自分のベッドには嫌がって入らない。そして、ソファー登りで培ったよじ登り技でもって、俺のベッドにもぐり込もうとするのだ。
「自分のベッドで寝なさい」
「いや!」
俺のベッドから下ろしてアニス用ベッドに追い立てようとすると、「いやー!」と泣き出す始末。
「いいって言った!」
いや、そんなこと言ってませんけど? ──と思ったが、どうやらアニスの中では違うらしい。
大泣きするアニスを抱き上げてなだめながら、ゆっくりと話を聞いてみた。すると一応、アニスの言うことは筋が通っていた。アニスとしては、テーブルや机のない場所なら登っていい、と理解していたのだ。だからベッドも登っていい、と。
俺はソファーならいい、と言ったつもりであって、ベッドは完全に想定外だった。でも、まあ、確かにあの言い方だと、ベッドは「登っていい場所」になっちまうなあ。
登っていいかと、そこで寝ていいかは全く別の話だ。きっとそう説明してやりさえすれば、アニスも納得したのかもしれない。だが、あいにくこのときの俺は、その観点をきれいに見落としていた。仕方ない、とそこで寝かしつけたのが運の尽き。
毎晩、俺のベッドで寝かしつける羽目になってしまった。もちろん事故がこわいから、一緒に寝るつもりはさらさらない。アニスが眠ったら、自分のベッドに移動してやる。が、よけいなひと手間が増えてしまったのだった。