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アニス、ゼロ歳

 最後にニコルは、小さな水筒のようなものを取り出した。


「これが哺乳びんね」

「哺乳びん?」

「そう。授乳に使うの」

「授乳……?」


 俺が首をかしげていると、ニコルは眉をひそめた。


「赤ちゃんが母乳で育つことくらい、あなただって知ってるでしょ?」

「それは知ってるけど、人間は雑食じゃなかったのか」

「雑食なのは、成体の話よ。赤ちゃんは別」

「そうか」


 納得はしたが、同時に深い絶望感に襲われた。母乳なんて、調達のしようがないじゃないか。すでに詰んでいる。がっくりと自分の胸もとを見下ろした。何をどうしたって、出るわけないよなあ。それよりまだ可能性があるのは──。


 ニコルの胸に視線が行ってしまったのは、完全に無意識だ。目をいからせた彼女に鋭くなじられて、初めて気づいた。


「どこ見てるのよ!」

「え? あ、すまん……。いや、母乳なんて俺には出せないし、と思って」

「当たり前でしょ。私だって出ないわよ」

「だよな」


 深くため息をつけば、何もわかっていないチビがなぜか機嫌よさそうに「うきゃっ」と笑いながら手足をバタバタさせた。


「せっかく拾ったのに、このままじゃ餓死させるしかないのか……?」

「ばかなこと言ってないで。作り方を教えるから、覚えてよ」

「え? 母乳なんて作れんの?」

「現代には『代用ミルク』という便利なものがあるの」


 錬金術の発達によりポーションが作られたように、母乳の代わりに乳児に与えることのできる「代用ミルク」なるものが開発されたのだそうだ。知らなかった。


「哺乳びんは、使う前に必ず浄化魔法を使ってね。赤ちゃんってのは、ちょっとの汚れやばい菌が命取りになりかねないから。人間だって、そこは変わらないはずよ」

「わかった」


 そんな具合に、再びニコルによる指導が開始された。実習の一環として、給餌もやらされた。それも準備から何から、すべてだ。赤ん坊というのは、些細なことが簡単に命取りになるから、何をするにも細心の注意が必要らしい。


 死なせちまったら、拾ってきた意味がないからなあ。失敗したら、次がない。面倒だろうが何だろうが、生かすために全力を尽くさねば。


 ニコルが持ってきたかごは、赤ん坊のベッドだそうだ。


 しかし。何となく嫌な予感がしたが、見事に的中した。チビはかごに寝かせようとすると「ふぎゃあああああ!」と顔を真っ赤にして吠えるのだ。たとえ腕の中ではうとうとしてようとも、下ろしたとたんにパチリと目を開きやがる。捨てられてたときには、おとなしかったくせに。


 思わずため息が出る。


「こいつ、育つまでにどれくらいかかるのかな」

「人間は成長が遅いからねえ」

「え、そうなの?」

「そうよ。成体になるのに二十年近くかかるらしいわよ」

「マジかよ……」


 寿命が短いから、てっきり成長は早いものかと思っていた。


 魔族だと、コボルトやゴブリンなどの小型種で成人まで三年、俺たち中型種で六年くらいだ。人間は寿命が短く、魔族の小型種と同じくらいと聞いている。だったら成長も一緒だと思うじゃないか。


 寿命が短いくせに成長が遅いって、どういうことだ。それでいて繁殖力が高いとか、意味がわからん。謎すぎる。


 それはともかく、成長が遅いということは、それだけ手の掛かる期間が長いということだ。数時間おきの給餌を半年も続けなきゃならないのか。寝る暇がないんだけど、どうすりゃいいの。細切れで寝ろって?


 きっと俺は情けない顔をしていたんだと思う。ニコルは小さく笑って「私も手伝うわよ」と言った。


「ひとりじゃ無理だもの。魔国の平和のためなんだし、みんなで協力すればいいのよ」

「でもビビリのゴブリンどもなんて、おっかながって近づきもしないぞ」

「それならそれで、洗濯でもやらせればいいわ。毎日ものすごい量の洗濯物が出るわよ」

「そうなの?」

「交換した回数分だけ、おむつを洗わないといけないからね」

「なるほど」


 こうして俺は、聖女を飼い始めた。


 チビは来る日も来る日も、食う、出す、寝る、起きたら吠える、の繰り返し。いい気なもんだ。しかもそれが数時間サイクルなものだから、俺は休む暇もありゃしない。


 だがニコルは口先だけでなく、本当に毎日のように手伝いに来てくれた。その上ゴブリンどもの尻を叩いて、雑用を片付けるよう差配までしてくれる有能ぶりだ。本当にありがたい。


 彼女の手助けがなければ、俺は早々に音を上げていたんじゃないかと思う。


 ベッドに下ろすとチビがギャンギャン吠えるのは相変わらずだが、回避策を発見した。手先だけでも何でも、とにかく体に触れていれば吠えない。ただし、服越しだとあまり効果がない。頭をなでておくのが、一番いい。


 おかげで俺は、妙な特技が身についた。寝ている間もずっと、かごの中に手を伸ばしてチビに手を当てておくことができるようになったのだ。


 こちらが寝返りを打って手が離れると、聖女は不機嫌そうに「ふやああ……」と危険信号を発する。その声を聞くと、俺は睡眠中でも手を伸ばし直しているらしい。無意識だ。でもたまに、うっすらと記憶に残っている。大音量で吠え始める前に手を伸ばせば、おとなしくしていてくれるのだ。


 夜でさえこんなありさまだから、昼間なんて離しておけるわけがない。仕方がないので、常に連れ歩いている。抱えて歩くと片手が塞がって仕事に支障があるが、これもニコルが解決してくれた。解決策は、長い布。これを使って、赤ん坊を体にくくりつけておく。有袋類にでもなった気分だ。


 こうしておくと、不思議と聖女はおとなしい。俺は結構動き回っているし、大きな声も出しているはずなのだが、気にする様子もなくうとうとしている。


 ただし、遠慮なく出すものは出す。こっちが食事中だろうが、おかまいなしだ。予告もなくいきなり鼻先でプーンと匂わせるのは、本当に勘弁してほしい。おむつの替え時がわかりやすいと言えば、言えないこともないが。


 おそろしいことに、昼も夜もチビに振り回されるこの日々に、俺は次第に順応しつつあった。さすがにゴブリンどもも、チビの存在に慣れてきたようだ。


 ふた月もすると、かごのベッドでは心もとなくなってきた。ニコルに話してみる。


「最近さ、かごの中でバタバタ動き回るんだよなあ。ひっくり返りそうで、ちょっとこわい」

「寝返りを打とうとしてるんじゃない?」

「そうかも」


 俺の話を聞いて、彼女は柵つきの小型ベッドを運び込んだ。なるほど、柵つきなら落ちる心配がない。もっとも、別の事案が待ち受けていたのだが。このときの俺はまだそれを知らない。

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