ニコルの花
ニコルは受け取った大きな花束に、顔をうずめた。
あの日と同じ、バラの花束だ。単にバラの花束というだけでなく、花の色まで一緒である。二色咲きのバラで、真っ白な花びらが鮮やかなピンクのグラデーションで縁取られていた。プロポーズにバラというのは定番のような気もするが、なぜこの色なのだろう。
不思議に思って、ニコルは尋ねた。
「この花、好きなの?」
「うん。好き」
ずいぶん少女趣味なのね、という言葉が喉もとまで出かかったが、のみ込んだ。ダリオンは先を続ける。
「ニコルにプロポーズするなら、やっぱりこれじゃなきゃと思って」
意味がわからず、ニコルは軽く眉をひそめて目をまたたいた。するとダリオンは「おや」とでも言うように目を見開く。
「あれ。もしかして知らない?」
「何を?」
「この品種、ニコルって言うんだ」
その瞬間、ニコルの息がとまった。──このバラが、ニコル?
そうしてまた次の瞬間、ニコルの胸のうちから、名状しがたく焼けるように熱い何かがあふれ出てきた。もしかしてヘザーも、満開のヘザーの花を見たときにこんな気持ちだったのだろうか。
ニコルは生まれてこのかた、花に例えられたことなど一度もない。なのにダリオンは、この明るく華やかで可憐な花がニコルだと言う。心の中から何かがあふれてあふれて、とまらない。
ニコルの様子に、ダリオンがあたふたして「ごめん」と謝りだした。
「泣くほど気に入らなかった? ごめん、すぐ取り替えてもらってくる。何がいい?」
「ううん、気に入ったわ。好きよ、この花」
今、好きになった。
途方に暮れた顔のダリオンに向けて、ニコルは無理矢理に笑顔を作ってみせた。けれども後から後からあふれ出てくるものは、しばらくとまってくれそうもなかった。
* * *
結婚の準備を始める中で、ダリオンは賭けでプロポーズした先輩たちの話を詳しく聞きたがった。よほど腹に据えかねているらしい。
根掘り葉掘り聞き出そうとするダリオンに、ニコルは苦笑する。
「とっくに終わった話なんだから、もう何もしないでね」
「でも、やらかした内容と処分が見合ってない」
「そんなことないわよ」
あの公明正大なシェムが、きちんと対処してくれている。それで十分だ。それでもまだダリオンが不満そうにしているので、もうひとつのシェムの対応についても話した。「個別の謝罪は不要」とシェム経由で伝えてあったにもかかわらず、わざわざ先輩が謝罪に来たときの話だ。
「シェムが『蒸し返すの禁止』って、遮ってくれたの。だからあなたも、蒸し返しちゃだめよ」
ここでダリオンは、初めて表情を変えた。「『蒸し返すの禁止』か」と言いながら、悪い笑みを薄く浮かべて何度もうなずく。そしてなぜかフッと鼻で笑い、勝ち誇った顔で「ざまあ」とつぶやいた。態度が不穏すぎる。
あわててニコルは釘を刺した。
「ちょっと。本当に何もしないでよね」
「しないよ」
すました顔でにっこりと答えた後、どうしたわけかダリオンは「くっ」と吹き出した。そしてまた「ざまあ」と笑い転げる。いったい今の話のどこに笑うツボがあったのか。ニコルにはさっぱりわからない。思わず眉根を寄せると、ダリオンは笑いながら説明した。
「シェムがいい仕事したから、俺が何かするまでもないってことだよ」
「そう。それならよかったわ」
「結婚式には、先輩たちも招待しよう」
「ええ、そうね」
ホッとしたニコルが同意すると、またもやダリオンは「ざまあ」と吹き出した。いったい何がそんなにおかしいというのか。全然わからない。呆れた彼女は肩をすくめ、この件はもう放っておくことにした。
後日、この話を姉にしたところ、にこにこと笑顔で「ニコちゃんはかわいいねえ」と言われただけだった。この姉はだめだ。話にならない。
新居は、大きめの家にした。寝室が三部屋、書斎、居間、キッチン、ダイニング。二人で暮らすには大きすぎると言われても仕方ないような家だ。でもアニスの部屋は、どうしても用意しておきたかった。だから主寝室とアニスの部屋、残るひと部屋は来客用だ。
そう用途の内訳を説明すると、ダリオンはどこか遠くを見る目つきになった。
「あいつ、戻ってくるかなあ」
「くるわ。だって、ここがあの子の故郷だもの」
いつになるかはわからなくても、帰ってくることだけは間違いない。ニコルがそう断言すると、あまり期待していないような声でダリオンは「そうだな」と相づちを打った。
だが、アニスは帰ってきた。
それはニコルとダリオンが無事に結婚式を終え、新居に引っ越し、果てしなく終わらない国家プロジェクトに粉骨砕身した末、その仕事がついに片付きかけた頃のことだった。本当にアニスは帰ってきた。それも勇者を連れて。来客用に予備の部屋があって、助かった。
大きすぎたはずの家は、一転してほどよい大きさと化す。そればかりか、むしろ手狭に感じることさえあるほどだ。
アニスは当たり前のように新居に馴染んだ。まるでもとからそこに暮らしていたかのように。ちょっと遠くに旅行して帰ってきただけ、というノリだ。土産話も山ほどある。実際この子にとっては、ちょっと人間の国に行ってきただけなのかもしれない。
マシューと名乗った人間の勇者は、おっとりした雰囲気を持つ黒髪の青年だ。子ども時代にダークエルフの子と間違われただけあり、容姿にはダリオンと通じるものがあった。
ただし、中身はだいぶ違いそうだ。よくも悪くも素直でまっすぐなダリオンとは反対に、どこかひとくせありそう。そういう意味では、シェムに似ている。
食事の席も、アニスが帰ってきてからは賑やかだ。人間の国での出来事を、次から次へと披露する。
「私が探知して攻撃する役で、マシューは後ろで応援する役」
「探知? そんなもの、どうやってるんだ?」
「スキル使うの。ビリーが教えてくれた」
アニスの答えに、ダリオンは絶句していた。いつの間にか大人の知らないところで、ゴブリン族の種族スキルまで覚えていたらしい。幼馴染みのビリーが、アニスにねだられて教えていたようだ。
種族の違いを超えてスキルを身につけたアニスだが、だからといって何でもかんでも覚えられるわけではない。魔法はあまり身にならなかった。ただし、習得はできなかったものの、ダリオンが丁寧に教えた内容はすべてきちんと頭に入っていた。
アニスがマシューに引き合わされたとき、すべてが自己流の彼に、ダリオンから学んだ魔法知識を与えたそうだ。おかげで彼は、今では立派な風魔法使いとなっている。魔力量の違いにより、使える魔法の規模こそダリオンに及ばないものの、制御の緻密さでは近いものがあった。
食事のときに限らず、アニスはいつだって賑やかだ。出窓に飾った大きな花瓶に挿してある花を見て、アニスは歓声を上げた。
「あ、ニコルの花だ!」
「あら、よく知ってるのね」
「ダリオンがよく買ってくるもん。ニコルみたいにきれいな花だよね」
「……ありがとう」
初めて聞く褒め言葉に、ニコルは思わず口ごもってしまった。それはそれとして、ダリオンがよく買ってきていたとは初耳だ。家に花なんて飾ってあっただろうか──と記憶をたどって、思い出した。
(あったわ。よくバラとダリアが飾ってあった)
当時はバラの品種名なんて知らなかったから、ただ単にバラの花としか認識していなかった。そもそも、色とりどりのダリアのほうに目を奪われてしまっていた。そこに混じっていたバラが何色だったかなんて、まったく記憶にない。でもアニスがこう言うなら、きっとそのバラはニコルだったのだろう。
精緻な切り子細工を施されたクリスタルガラス製の花瓶は、朝日を浴びてキラキラと輝き、光の反射で花に彩りを添えている。
ちょうど通りかかったマシューが、会話を耳にしてひょっこり花をのぞき込んだ。
「きっと小さいときから、ダリオンが『ニコルみたいにきれいな花』ってよく言ってたんでしょうね」
何の根拠もないこの感想に、ニコルは首をかしげる。ところがマシューは、そんな彼女に微笑みかけて言葉を続けた。
「子どもの頃の価値観って、割と親の受け売りじゃないですか。そのまま刷り込まれてることって、結構ありますよ」
マシューは孤児だ。だが、親代わりの老神官がいると言う。田舎のひなびた神殿で、老いた神官が彼を引き取って育てたそうだ。勇者と判明して王都に連れて行かれてから間もなく、その神官は老衰で亡くなってしまった。
けれども愛情深くも厳格なその神官から幼い頃に口うるさく注意されたことは、今でも忘れることはない。逆に老神官が賞賛したものは、「すばらしいもの」と心に刻まれている。きっとアニスも一緒だろう、とマシューは言う。
そう説明されると、確かな説得力があった。そう言えば、アニスは幼い頃からニコルのやることは何でも真似したがったのだった。
『あれすごくかっこいい。やりたい!』
そんな幼い子どものまっすぐな好意の裏に、透けて見えるものがあるなんて。今まで考えてみたこともなかった。思わずニコルが目を見張ると、マシューはあわてたように「あ!」と顔を上げた。
「今週は鍵当番でした。お先に」
「マシュー、待って。私も行く!」
マシューとアニスが、あわただしく家を出ていく。鍵当番とは、見習いたちに一週間交替で割り当てられる仕事だ。みんなの出勤前に、職場の鍵を開けて回る。だから当番の週は、一時間ほど早く出勤しなくてはならないのだ。
食後にシャワーを浴びていたダリオンが、髪を拭きながら浴室から出てきた。
「あれ? アニスたち、もう出たの?」
「今週、鍵当番なんですって」
ニコルが説明すると、ダリオンは「なるほど」と言いながら階段を上がっていく。
その姿を見送ってから、ニコルは再び花へ振り向いた。出窓から身を乗り出してみれば、ちょうどマシューとアニスが仲よく話しながら曲がり角に姿を消すところだった。
ニコルもそろそろ出勤の支度をしなくては。ダリオンに続いて、ニコルも二階に姿を消す。やがて出勤時間になり、ニコルとダリオンはそろって二階から降りてきた。玄関の鍵を閉め、二人並んで通りを歩いていく。
しばらくすると、コボルトの家政婦がやって来た。独身時代にダリオンが契約していた、通いの家政婦だ。条件を見直した上で、結婚後も来てもらうことになった。
彼女はまず、キッチンに下げられている食器を洗って片付ける。それから洗濯。そして家中の掃除と片付け。これが一番、時間がかかる。さらには夕食の仕込みと、翌日の朝食の下ごしらえも必要だ。それが終わったら洗濯物を取り込んで畳み、各人の部屋の所定の引き出しにしまう。
そして最後に、最も大事な仕事が残っている。花の手入れだ。出窓の花瓶から花を取り出して、一本ずつ茎を丁寧に水洗いしてから水切り。花瓶の内側もきれいに洗って新しく水を入れ、花を生け直す。これでやっと、彼女の一日の仕事が終わる。
家政婦が合鍵で戸締まりして去った後、出窓に飾られた大きなガラスの花瓶の中で、ダリアとニコルの花は同じ名を持つ主人たちの帰りを待っている。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
よろしければぜひ評価をお願いします。




