三度目の正直
アニスが十六歳のときに、人間の国から使者がやってきた。アニスを人間の国に連れて行くために。一度は追い返したものの、半年後、懲りずに再びやって来た。
ニコルにとって個人的な大事件が起きたのは、その会食の場だった。アニスが天然を炸裂させたのだ。
「ダリオンはどうしてニコルと結婚してないの?」
あの瞬間、時間がとまったような気がしたものだ。抹殺したはずの悲しい記憶が、脳裏に蘇る。
ところがシェムの巧みな誘導尋問により、ダリオンの口から真実が明らかになった。あれはダリオンにとってこそ悲しい記憶となっていたのだ。ダリオンは賭けになんか、乗っていなかった。それどころか、そもそも賭けの存在など知りもしなかった。
ということは、つまり──。
そこに思い至ったときの、いたたまれなさと言ったら。羞恥と当惑で、頭の中がぐちゃぐちゃになった。その後の会食の記憶は曖昧だ。
なのに、ニコルに嵐のような混乱をもたらした当のアニスときたら、清々しい顔をして「人間の国へ行く」などと言い出すではないか。
「だってニコルが教えてくれたでしょ。私の故郷は魔国なんだって」
あまりのことに、ニコルは言葉を失う。そんなつもりで言ったわけじゃない。
「だから私は、人間の国に行く。大事な故郷に勇者が攻め入ってくるようなことがあったら、たまらないもの」
アニスの決意は固く、ニコルには引き留める言葉が見つけられなかった。そうしてダリオンの養い子は、十六年分の思い出だけを残して、人間たちと一緒に旅立ってしまったのだった。
* * *
アニスのいない日常。それはダリオンが人間の赤ん坊を拾う前の生活に戻っただけ──と思おうとした。けれどもやっぱり、無理だった。だって全然違う。
あの賑やかな子がいないと、国境警備隊の拠点も何だか妙に静かになってしまった気がする。静かになっただけではない。あの子がいたときにはとても明るかったはずの室内が、何だか薄暗く感じる。そればかりか室内の温度まで下がったかのように、どこか肌寒い。
アニスの送迎を担当していたビリーは、しばらくの間、やたら出勤時間が早かった。
「ずいぶん早いのね」
「つい、いつもの時間に家を出ちゃって」
ニコルが声をかけると、ビリーは苦笑しながら説明した。
アニスを迎えに行く前提の時間に家を出て、しかしもうダリオンの家に寄り道する必要がないので、まっすぐ職場に向かう。すると、無駄に早い時間に着いてしまうというわけだ。
周囲でさえも、このありさまだ。養い親のダリオンは、さぞかし気落ちしているだろう。──そうニコルは心配したのだが、彼は何やらひたすら忙しそうにしていた。拠点にいるときは、執務室で地図や図面とにらめっこ。
そして外出が増えた。拠点ではなかなか顔を合わせる機会がなくなってしまったほどだ。行き先を聞けば、国中のあちこちを訪ねている。
いったい何をしているのだろうと不思議に思っていると、やがて正式に国家プロジェクトが発足した。国境の結界を一新する、かつてない規模のプロジェクトだ。当然、ニコルも駆り出された。
魔術式を組み上げる技術者を集め、仕上がった魔術式を複製する職人を手配する。さらには結界装置を製作する工房を押さえ、仕上がった装置に欠陥がなく正常に動作するか確認するための手順書も作成しなくてはならない。目も回るような忙しさだ。
特に職人と工房の確保は、困難を極めた。必要とする量が量なので「どこか大きめの工房に発注すればそれで終わり」なんていう簡単な話じゃなかったのだ。それこそ国中の工房という工房をもれなく訪ねて話をつけなくてはならないほどの、とんでもない量だった。
ある程度のめどが立ったのは、プロジェクトが発足して半年近くが経過してからのことだ。
ようやく仕事に余裕ができたある日、ニコルはダリオンに食事に誘われた。仕事帰りにいつも行っているような気軽な店ではない。首都の中心街にある高級店で、二階の個室が予約されていた。
食前酒で、互いをねぎらって乾杯する。
「工房の交渉、おつかれさま」
「ダリオンこそ全体のとりまとめ、おつかれさま」
パチパチと弾ける発泡酒を口に含みながら、ダリオンはやや上目遣いに探るような視線をニコルに向けた。
「前のプロポーズのときに勘違いしたって話なんだけどさ」
その話を持ち出されると、ちょっと弱い。ニコルは気まずく「ああ、うん」と曖昧に相づちを打つ。ダリオンは恨めしそうというよりは、困ったような顔で尋ねた。
「俺、そんなに信用なかった?」
「私だって、信じたかったわ」
ニコルだって、理由もなく怒ったわけじゃない。怒らざるを得ない状況が、ととのってしまっていた。あれを誤解だったと言われても、にわかには納得できるものではない。
「逆に聞きたいんだけど、同じ部屋にいたのに、なんで賭けの話を知らないの?」
「え? 同じ部屋? 誰と?」
無意識にとげのある声で尋ね返せば、ダリオンはきょとんとする。ニコルは眉根を寄せて説明をした。
「東棟の大会議室よ。私、あのとき資料室にいたの。だからあなたが大会議室から出てくるところを、ドア越しに見てるのよ」
「あれを見られてたのか……」
ほら、やっぱり一緒の部屋にいたんじゃないか──とニコルが思ったとき、それと正反対のことをダリオンが言った。
「でも、部屋に入ったときから誰もいなかったよ」
「何を言っているの。酔っ払いたちがたむろしてたでしょ」
言い返してから、ふとダリオンの言葉に引っかかりを覚える。ニコルは首をかしげて問いただした。
「部屋に入ったときって言うけど、いったいどこから入ったの?」
「窓から」
しれっと答えるダリオンに、ニコルは呆れる。
「あそこ三階よ?」
「うん。窓のひさしもあるし、簡単に出入りできるよ」
普通はそれほど簡単ではないと思うが、そう言えばダリオンは風のように身軽なのだった。
「どうしてそんな場所から出入りしたの」
「でかい花束を抱えて正面玄関から入ったら、恥ずかしいだろ……」
ダリオンは気まずそうに視線をそらす。予約してあった花束を休憩時間に受け取りに行ったはいいが、抱えているところを他人に見られるのは気恥ずかしい。それで人目を避けるために、建物の裏側にある窓から入ったということらしい。花束は夜の休憩時間まで、会議室の物置に隠しておいたそうだ。
あの日の謎が、ようやく解けた。
ダリオンはダリオンで、自分の間の悪さを思い知ったようだ。二人とも何とも言えない思いでしばらく沈黙していたが、やがてどちらからともなく、くすくすと笑い出す。しばらくそうして笑っていると、入り口のドアを控えめにノックする音が響いた。
ダリオンが返事をすれば、給仕が顔をのぞかせ、小声でダリオンに質問をした。
「お持ちしてもよろしいですか」
「うん、頼む」
すると、すぐにドアが大きく開かれる。そして給仕は大きな花束をダリオンに手渡し、一礼して出て行った。ダリオンはその花束を抱えて、ニコルの椅子のすぐそばにひざまずく。
「だから、やり直しさせて」
さすがにこの状況で、ダリオンが何を言おうとしているかわからないほどニコルは鈍くない。神妙にうなずいた。ダリオンは緊張した表情で、ひとつ咳払いしてから続ける。
「仕事だけじゃなく、私生活でもずっと一緒にいてほしい。だから、結婚してください」
「私でいいの?」
「ニコルがいい」
ニコルは淡く微笑んで「ありがとう」と答えた。これにダリオンは、不安そうに首をかしげる。
「それは結婚してくれるってこと?」
「うん」
ニコルがうなずけば、ダリオンはパッと顔を輝かせ、少年の日のように満面の笑みを見せたのだった。




