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命名

 しばらく赤ん坊の頬をつつき回していたニコルは、やがて飽きたのか顔を上げた。


「この子の名前は?」

「聖女」

「そんなの、名前じゃないから」


 確かに名前ではない。だが他に聖女は存在しないのだから、聖女と呼ぶのがわかりやすいと思う。そう頭の中で考えていると、まるでそれを見透かしたかのように、ニコルは呆れをにじませた視線を投げかけてきた。その上、忌々しそうに舌打ちまでする。


 仕方ないので代案を出す。


「じゃあ、チビ聖女」


 聖女そのままがダメなのだろうか。そう思って、少し言葉を追加してみた。だが、これもお気に召さないようだ。ニコルは鼻の上にしわを寄せた。もしかして、「聖女」って付いてるのがダメなのか?


「なら、チビでどうだ」

「だから、そんなのは名前じゃないってば」


 そう呼べば、それが名前になると思うのだが。だが、まあ、ニコルが名前じゃないと言うなら、名前じゃないんだろう。少なくとも彼女にとっては。


「だったら何か考えてくれよ」

「そうねえ」


 ニコルはまんざらでもなさそうな顔で、首をひねる。


 しばらくそうして何やら考えをめぐらせていたが、そのうち横目でチラリと赤ん坊のほうに視線を向けた。かと思うと、赤ん坊に向かって手を伸ばす。何だろうかと見ていると、彼女は赤ん坊をくるんだ布にくっついていた茶色の草の実を、つまんで剥がした。


「アニスはどう?」

「いいんじゃないか」


 相づちを打ちながらも、俺は気づいていた。彼女がつまみ上げたものが、アニスの実だったということに。なんだよ、俺といい勝負でテキトーじゃないか。


 ──とは思うものの、もちろん口には出さない。余計なことを言えば、殺傷力の高い言葉が返ってくるからなあ。命を奪われずとも、心が死ぬ。だから、沈黙は金。雄弁は……、うん、口はわざわいのもとなんだよ。俺は平和を愛する軍人なのだ。


「ところで、必要なものはそろってるの?」

「必要なもの?」


 ニコルの質問に、俺は首をかしげる。そろってるのかと聞かれても、何のことだかさっぱりわからん。ニコルは「呆れた」と言わんばかりに、眉を上げてみせた。


「おむつとか、ベッドとか。いろいろ要るでしょ」

「ベッド? 小さいから、俺のベッドの隅っこに寝かせときゃいいかと思ったんだが」

「ダメに決まってるでしょ‼」

「え、そうなの?」


 えらい剣幕で叱り飛ばされ、俺は面食らった。そんなに怒られるほどダメなことだろうか。


「端っこなんて寝かせたら、落ちるでしょ。落ちたら頭を打って死ぬわよ?」

「それは困る」

「だいたい、寝返り打ったときにつぶしたら、簡単に死ぬわよ? どれだけ体格差があると思ってるの」

「絶対にないとは言えんな……」


 つまり、こいつ専用の寝床が必要ということか。どうすっかな。俺が思案していると、ニコルから救いの手が差し伸べられた。


「どうせ何もないんでしょ? 姉のところから、お下がりを一式もらってくるわ。待ってて」


 ニコルがあわただしく去って行く後ろ姿を見送ってから、俺は自宅に向かった。


 プルプル震えながら遠巻きにしていたゴブリンたちには、今日は早じまいにすると伝えておく。本当は家まで褒美のワインを取りに来いと言いたかったのだが、拒否されてしまった。どうしても聖女がこわいらしい。赤ん坊なのにな。仕方ない、後で職場に持って行ってやろう。


 家に着いて、玄関ドアを開けて中に入り、はたと困ったことに気づいた。このチビ、どうしよう。ずっと抱えたままだったから、どこかに置きたい。だが置き場に困った。テーブルの上は論外だ。間違って落ちたら確実に死ぬ。


 じゃあ、ソファー? いや、ダメだな。テーブルよりはマシだが、落ちない保証がない。


 まいった。どうするかなあ。ベッドでいいか。さっきはニコルに怒られたが、ひとりで転がしておく分にはつぶす心配はないもんな。真ん中に置いときゃ、落ちることもないだろう。そうだ、そうしよう。


 俺は寝室に向かい、ベッドの中央にチビを下ろした──いや、下ろそうとした。だが俺がチビから手を離す前に、眠っていたはずの聖女はピクッと体を震わせ、眉間にムッとしわを寄せる。と思う間に、不機嫌そうに目を開いた。


「ふやあああ!」


 うお。鳴いた。しかも何だかめちゃくちゃ不満そうな顔だ。


「ちょっとそこでおとなしくしててくれ。もうちょっとしたら、ニコルがいろいろ持ってきてくれるから」


 言葉なんて通じないとわかっていても、つい話しかけてしまう。


 だが、チビは俺が手を離したとたんに顔全体をゆがめて「ふぎゃあああああ!」と大きな声を出した。おそろしい声量だ。この小さな体のどこから、こんな大きな声を出せるのか。


 驚きに固まり、呆然としている俺の前で、チビは顔を真っ赤にして「ふぎゃあああああ!」とさらに声を張り上げ続けた。うるせえ。お前は何が不満なんだ。エサかな。


 いや、待てよ。俺が手を離したら騒ぎ出したということは──。どれ。試しにもう一度、抱えてみるか。


 俺が体の下に手を入れると、聖女はまたピクッと体を震わせた。反応あるなあ。どれどれ。腕の中にすっぽり納めてみれば、次第に声は小さくなり、目を開いてじっと俺の顔を見つめた。マジか。おとなしくなったわ。


 まいったなあ。これ、ベッドに置いたらまた吠えるんだよな、きっと。


 どうしたものか考え込んでいると、玄関のノッカーをせわしなく叩く音が聞こえた。ニコルが戻ってきたらしい。急いで玄関に向かい、ドアを開けると、予想どおりニコルが立っていた。片手にかご、反対の手には大きな袋を持っている。


 彼女は家の中に入ってきてまっすぐ居間に向かい、テーブルにドサッと荷物を載せた。そして袋の中からひとつひとつ、品物を取り出しては説明をする。


「これが、おむつ。巻き方わかる?」

「知らない」


 俺にとっては知らないことばかりだが、ニコルは馬鹿にすることもない。実演を交えつつ、淡々と説明を続ける。どうしてそんなに詳しいのかと思ったら、姉さんのところに生まれた子の育児を手伝った経験があるからだそうだ。


 事務的に続けられる説明と注意事項を聞いていると、次第に気が遠くなりそうになる。注意事項が多すぎる。一度聞いただけで覚えきれる気がしない。めちゃくちゃ大変そうだ。数時間ごとに給餌とか、俺に続けていけるんだろうか。寝る暇がないじゃないか。

※「鳴いた」は誤字ではありません。

この時点ではまだ主人公が「人間」という存在を獣のようなものだと認識しています。

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