アニス、旅立つ
アニスは何と言うだろうか。まだまだ子どもと思う気持ちはあるものの、少なくとも俺から指図するつもりはない。本人の意思を尊重しようと思う。
ところがアニスが口にしたのは、思ってもみない質問だった。
「あの子は今、どうしてるの?」
「あの子?」
「あの勇者の子」
クレメントは「ああ」とうなずいてから、簡潔に答えた。
「魔獣討伐のために、国中を回ってくれていますよ」
「たったひとりで?」
「そうですね。並みの者では、足手まといにしかなりませんから」
アニスはここで「そう」とつぶやいてから、押し黙った。しばらくしてから、静かな表情でクレメントに尋ねる。
「さっきの話、少し考えてから返事をするのでもいい?」
「もちろんです」
アニスとクレメントのこのやり取りに、俺は何だか嫌な予感がした。もちろん、本人の意思を尊重するつもりではある。けど、まさか人間の国に行くなんて言い出さないよな……?
ところが、そのまさかだった。
その日、クレメントたち一行は王城に泊まった。アニスにゆっくり考える時間を与えるためだ。国境外に待機していたクレメントの護衛たちも呼び寄せ、王城内に宿泊させることになった。いくら交流を絶った相手とはいえ、一応、平和な来訪者だ。野宿していると知っていて放置するのは、あまり気分のいいもんじゃないからな。
宿泊するにあたっては、前回の食事のときと同じように、人間たちの間でひと悶着あったらしい。同じフロアだと身分がどうとか。面倒くせえ。半ば呆れ顔のシェムが、「護衛と言うなら、護衛対象の近くに寝泊まりするのが筋なんじゃないの?」と押し切って黙らせた。
夕食は護衛たちも交え、大人数で賑やかだった。人間の国の風習など、無難な話題で盛り上がる。なのに、いつもならよくしゃべるアニスが不思議と静かだ。しかも物思いに沈んでいる様子なのが、どうにも気に掛かった。
人間たちとの会食が終わり、アニスと二人、家に帰る。家に入ると、アニスは改まった顔をして俺に向き直った。この子のこんな顔を見るのは、初めてだ。
「ダリオン」
「どうした?」
あえてなにげない様子で返事をするも、アニスの真剣な顔つきには変化がない。嫌な予感がひしひしとした。アニスは俺をまっすぐに見つめて、こう告げた。
「私、人間の国に行く」
アニスの言葉に、めまいがする。
なんでだ? 行って助けてやる義理なんぞ、どこにもないだろう。お前の生みの母親は、お前の実の父親に殺された。お前自身だって、父親に捨てられたんだぞ。捨てられたどころか、死ねとばかりに草むらに放置されていた。そんなやつらの国なんぞ、どうなったってかまわないじゃないか。
お前の叔父クレメントは、その非道な父親に処罰を下したと言うけど、そんなのはただの因果応報にすぎないよな。お前が人間たちを助けてやる理由になんか、ならないだろ。
言いたいことは、山ほどある。だがアニスの迷いのない目を見たら、どれも言葉にならなかった。
だから代わりに、ひとつだけ質問した。
「何のために?」
「あのね、あの勇者の子、親がいないんだって」
アニスの言葉は、俺の質問に答えているようには聞こえない。だが俺は「そうなのか」と相づちを打ち、続きを待った。
「でも、私には本当のお父さんとお母さんがいて、二人ともひと目でいいから私に会いたいと言ってるって、あのとき言ってたの。だから会ってあげてくれないかって」
「そうか」
俺は眉をひそめながらも、口は挟まなかった。
あの少年は、一緒にいた大人たちから聞かされていたとおりのことをアニスに話した。あの子は本当にそれを信じていたんだろう。だから男たちが無理矢理アニスを連れ去ったのを見て、ショックを受けた。そこで初めて大人に騙されていたことに気づき、泣きそうな顔でアニスに謝ったと言う。
ここまで聞いても、まだアニスが何を言いたいのか、俺にはわからなかった。どう考えても、人間たちを助けに行く理由なんてない。
「たぶんね、あの子、そんなに強くない。普通の人間よりはずっと強いんだろうけど」
「かもな」
やっぱりわからない。アニスは何を言いたいんだ?
「あの子が魔獣討伐をひとりで頑張ってるけど、追いついてないってクレメントは言ってたでしょ?」
「ああ、言っていた」
「私が行かなかったら、いつかあの子は討伐に失敗して死ぬと思うの」
「そうかもな」
相づちを打ってから、はたと俺は気づいた。そうか、そういうことか。この子は人間を助けに行こうとしているわけじゃない。助けたいのは、勇者だ。そしてこの子が守りたいのは、魔国なんだ。
「あの子が死んだら、またどこかに勇者が生まれるんでしょう?」
「そう言われてる」
「きっと生まれ変わっても、またあの子は騙されるんじゃないかな。そうして今度は、魔国に攻め入ってくるかもしれないでしょ」
否定はできない。何と言っていいのかわからず、俺は口をつぐんだ。
「だから、私は人間の国に行く。あの子に、魔国に攻め入るようなことをさせないために」
アニスの表情には、はっきりと覚悟が浮かんでいた。俺はため息をつき、確認のために尋ねる。
「もう決めたのか」
「うん」
アニスはしばらく沈黙した後、花がほころぶように笑みを浮かべた。
「ダリオン、今まで育ててくれてありがとう。私、絶対にあの子を魔国に攻め入らせたりしないから!」
そんなことのためにお前を育ててきたわけじゃない──と、喉もとまで出かかった。が、言えなかった。だって、アニスを拾って育て始めた最初の動機は、魔国のためでしかなかったからだ。
だけど育てているうちに、気持ちがどんどん変わっていったんだ。ただ無事に育つだけでなく、いつも笑顔でいてほしくなった。泣くような目には、遭わせたくない。心も健やかに、幸せであれと願うようになった。
お前は人間の国に行って、幸せになれるのか? ──俺のもの問いたげな視線に、何を勘違いしたのかアニスはトンチンカンな答えを返した。
「大丈夫。私はダリオンとニコルの娘だもの。きっとうまくやれる」
その自信満々な顔を見たら、尋ねるまでもないことのように思えてきた。だから俺は「そうだな」とだけ言って、もっと小さいときによくしたように、頭をなでてやった。
アニスはその数日後、クレメントたち一行とともに、魔国の国境を越えて行った。国境までは、俺もニコルと一緒に見送りに行った。アニスは少し進むたびに振り向いて、大きく手を振る。手を振り返してやれば、それだけで満足してうれしそうに笑う。
そうして何度も何度も振り返り、手を振って、ついに峠の向こう側に姿を消した。アニスの姿が見えなくなっても、俺とニコルはしばらくそこでアニスたちの消えた方角を見つめていた。風を繰っても、一行の足音が聞こえなくなるまで。




