アニス、話を聞く
クレメントの姉は、少しも大事になんかされていなかった。それどころか、妊娠中にたびたび毒を盛られてさえいたと言う。ただ、毒が回る前に不思議な現象が起きて、毒が消えたから生きながらえることができただけだ。状況から考えれば、胎児だったアニスが生存本能から解毒していたと見て間違いないだろう。
そんな不思議なことが何度もあったから、クレメントの姉は、聖冠を腹に当ててみることを思いついたのだ。彼女はこれを慶事として夫に報告したが、前国王は無事に生まれるまでは伏せておくよう指示した。
もちろん「無事に生まれるまでは」なんてのは、ただ時間を引き延ばすための方便だ。やつは無事に生まれさせるつもりなんて、さらさらなかったのだから。
アニスが無事に生まれると、前国王は下っ端の使用人に「魔国に捨ててこい」と命じた。「本当に聖女なら、赤ん坊であろうと魔を討つだろう」などと、無茶苦茶を言って。監視をつけられた使用人は、命令どおり魔国に向かうしかなかった。国境に着くと無事を祈りながら、そっと結界の内側に押し込み、後ろ髪を引かれる思いで帰途についたそうだ。
そしてアニスを産み落とした母親は、そのまま亡くなった。毒を使うまでもない。産後の弱ったところを放置して、そのまま死なせた。そのくせ、母も子も助けられなかったと大げさに嘆いてみせたものだから、クレメントの一族はすっかり騙されてしまったのだった。
その喪が明けた頃、前国王は後妻を得た。これこそが、やつの当初からの計画だった。政略結婚によりクレメントの一族の後ろ盾を得つつ、本当に王妃としたい者をその座につけるのが目的だったのだ。
隠されていた真実が明らかになり、クレメントの一族は激怒した。すぐさま水面下で淡々と準備を始め、わずか数か月で王族を下すことになった。もともと王家と双璧をなすくらいには、力のあった一族だ。王権を手にするのは、それほど難しいことではなかったらしい。
ましてや入念に根回しした上での不意打ちだ。王権の上にあぐらをかき、ろくに臣下との間に信頼を築いてこなかった前国王には、なすすべもなかった。
──ここまで話を聞き終わり、魔族一同はドン引きである。人間、こええ。
いや、魔族だって酔った勢いでけんかくらいするよ? でも同族で殺し合いするとかさあ……。しかも妊婦に毒を盛るなんて、マジであり得ない。
だいたい王位って、望んで就くもんじゃなくない? 誰かがやらないと国が回らないから、適性のある誰かが仕方なく貧乏くじ引かされてやるもんだと思ってた。だけどどうやら、人間の国では違うらしい。適性とか関係なく、世襲制なんだと。よくそれで国が回るな。
……いや、回ってなかった。回ってないからアニスの母親は殺されたし、アニスはここに捨てられたんだよ。
言葉を失った魔族の中で、シェムがいち早く我に返ってクレメントに尋ねた。
「ええっと、それで『前国王』ってことは、今はあなたが国王なの?」
「まさか。王位に就いたのは、私の長兄です」
「そうなんだ」
何が「まさか」なのか、さっぱりわからん。しかし追求する気力は、魔族の誰にも残っていなかった。きっと人間にとっては、疑問に思うまでもなく当然の話なんだろう。シェムのおざなりの相づちに、精神的な疲労が見てとれる。
俺はクレメントにむかって、うなずいて見せた。
「とりあえず、話はわかったよ」
「そうだね、あなたが誠意をもって対応してくれたであろうことは、理解した」
シェムも同意する。──けど。けどなあ。やっぱり、アニスを行かせたいような国じゃない。クレメントが個人的に誠意を見せただけであって、快く送り出せるような環境とはとても思えないんだよ。
でも前回来たときに「最終的に決めるのは本人」と言ってしまった。不安があろうが、約束は約束だ。クレメントがアニスに頼み事をすること自体は、邪魔しようとは思わなかった。
「姫、お願いです。我が国に、戻って来てはいただけませんか。姫を害する者はすべて排除し、しかるべき処罰を与えました。虫のいいことを言っているのは、重々承知しています。ですが、もう姫にすがるしか、我が国に未来はありません」
未来がないって、どういうこと? 疑問に思った俺たちの表情を見たからか、クレメントは続けて説明した。
「勇者が魔獣討伐を頑張ってくれていますが、追いついていない状況なのです」
勇者に頼りっきりのように聞こえるが、実際そうらしい。ある程度以上の強さの魔獣は、人間だけでは束になってかかっても、討伐がなかなか難しいと言う。
そこはまあ、だいたい想像がつく。人間って、魔族でいえば、全員が小型種みたいなものだ。サイズだけ見れば中型種に近いが、能力的には小型種と変わらない。小型種ほどの魔力も持たない代わりに、小型種よりも腕力は少し上といったところだろう。
魔族だって、中級以上の魔獣を駆除するのに小型種を駆り出したりはしない。それは中型種の仕事だ。そして人間の中では、中型種に相当する能力を持つのは、勇者と聖女しかいないというわけだった。
だが、やっぱり腑に落ちない。我知らず、疑問が口を突いて出ていた。
「だったら、勇者も聖女もいない時代はどうしてるんだ?」
「不思議なことに、普通の人間だけで対処できない魔獣が出現するとき、勇者と聖女は必ずいるのです。そうでなくては、とっくに人間は滅亡していたでしょう」
ふうん。ずいぶんとまた、綱渡りな歴史を歩んで来たものだ。たった二人の存在に、種族の命運がかかっているだなんて。
大変だな、とは思う。中型種を何人か派遣すれば、それだけで人間たちの問題は簡単に解決するだろう。が、これまでの歴史から考えて、それはあり得ない。
大昔には、実際そうして手を貸していた時代もあったという。しかし人間は、すぐに感謝を忘れる。ほんの二、三十年もすれば、助けられたことなどなかったかのように、攻め入って来るのだ。
もちろん、その都度撃退していた。人間がどれほどの軍勢となって攻めて来ようが、中型種にとって敵ではない。とはいえ、魔族の人口の大半を占めるのは、小型種なのだ。
ドワーフは別にして、小型種は総じて体格も腕力も人間に劣る。魔力があると言ったって、基本的な防御や強化魔法を使える程度。魔法攻撃に回せるほどの魔力なんて持ってやしない。人間が大挙して攻め入ってきて、しかも奇襲をかけられたりしたら、ひとたまりもなかった。
こうして中型種が駆けつけるまでの間に、小型種が虐殺されるという事件が何度も起きてしまう。そしてついに、魔族は人間と決別することにしたのだ。最終的には一切の交流を絶ち、結界を築くことになった、というのが魔族と人間の間にあった歴史だ。




