捨て子の聖女
さっき仔猫のような声を上げた赤ん坊は、今はすっかりおとなしくなっている。地面の上に転がされたまま、顔だけ動かして俺のほうをじっと見ていた。
俺は赤ん坊に向かって、足を踏み出す。踏んだ小枝がパキリと音を立てたが、赤ん坊は俺から目をそらさなかった。そのままゆっくりと近づき、片膝をついて手を伸ばす。
すると赤ん坊は俺に向かって、ふにゃっと笑顔になった。
なんだこれ。かわいいな。
普通なら、生命の危機を感じて騒ぐところだと思うのだが。人間の本能ってのは、どうなってるんだろう。まあいいや。騒がれるよりは、おとなしいほうがこちらも助かる。赤ん坊の体の下に手を入れて、持ち上げようとしてギョッとした。
うわ。ぐにゃぐにゃじゃないか。どうやって持つんだ。お前はスライムか。
どこを支えても安定が悪いし、頭は落っこちそうだし、非常に危なっかしい。それに小さい。頭なんて、俺の手のひらにすっぽり収まるサイズだ。
いろいろと試行錯誤した結果、腕で頭を支えてやると安定することを発見した。そのまま抱えて、転移陣から拠点に戻る。歩くと揺れるのが気持ちいいのか、赤ん坊はうとうとし始めた。
拠点の転移陣の前には、例の三人のゴブリンどもが遠巻きに様子をうかがっていた。
「将軍閣下!」
「おかえりなさい!」
「なんですかそれ!」
ゴブリンどもの騒ぐ声に、腕の中の赤ん坊が不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。半分眠ったままのくせに、意思表示だけはものすごくはっきりしていた。俺はゴブリンたちに向かって「しー!」と人差し指を立ててみせてから、小声で簡潔に説明してやった。
「聖女だ。まだ赤ん坊だが」
ゴブリンたちは「聖女⁉」と目をむいた。すごい勢いで後ずさって、俺から距離をとる。天敵だからな。驚くのはわかる。だけどいくら何でも、赤ん坊相手にビビリすぎだろ。ところが、連中はそうは思わないらしい。
「そんなもの、さっさと殺処分してくださいよ!」
「どうして生きたまま連れてきたんですか!」
めちゃくちゃ離れたまま、殺せコールがすごい。そのくせ、静かにしろと言われたのは律儀に守っている。両手でメガホンを作りつつも、小声だ。
「せっかく拾ったのに、殺すわけがないだろう」
「でも聖女なんでしょ⁉」
「聖女やばい」
「聖女こわい」
ビビリどもは、へっぴり腰で小声のまま、聖女の危険性を涙目で必死に訴える。だが俺だって、考えもなしにこんなものを拾ってきたわけじゃないのだ。
「これ殺したら、また別の聖女がどこかに生まれるだけだぞ?」
ゴブリンたちは、極限まで目を見開いた。どうやら聖女と勇者について、詳しいことは知らなかったらしい。
俺がこの聖女を拾ってきたのは、これが理由だ。
聖女と勇者という生き物は、人間の中でも他にはない、ある特性を持っている。天寿を全うできなかったとき、すぐにまた生まれ変わるという、非常にやっかいな特性だ。
つまり、今ここでこいつを殺しても意味がないのだ。むしろ、今より状況が悪化する。次にどこで生まれるかなんて、俺たちにはわかりようがないのだから。
それくらいなら、手もとに置いて自分で育てたほうがいい。何と言っても、まだ赤ん坊だ。今からきちんと躾ければ、飼い主に逆らわないよう教え込むことも可能だろう。人間にだってその程度の知能はあるはずだ。
結界を設置する前の時代の文献によれば、助けてやってもろくに感謝しない程度に忘れっぽいくせに、軍勢を組んで奇襲を掛けるような狡猾さを持つと言う。つまり、隣人として気持ちよく付き合っていける種族かどうかはさておき、知能レベルだけ見れば決して低くはないはずなのだ。
そうした事情をかみ砕いて説明してやると、やっとゴブリンたちは納得したようだ。もっとも、だからといって恐怖が薄れるわけでもないらしい。遠巻きなのは変わらない。
さて。育てると決めたはいいが、どうすんだこれ。ぐにゃぐにゃの赤ん坊を抱えたまま途方に暮れていると、転移陣のほうから「ダリオン!」と呼ぶ女の声が聞こえてきた。ニコルだ。
金髪のゆるやかな巻き毛に、褐色の肌。彫りの深い顔立ちは、彫刻のように整っている。ただし愛想はない。いわゆるクールビューティーというやつだ。
ボディラインにはメリハリがあり、まるでそれを見せつけるかのように、体にぴったりした衣装を身につけている。それでいて少しも扇情的に見えないのは、この冷ややかな表情のせいだ。
もっとも、そもそもこいつにはあまり色気がない。何しろ、体にぴったりした服を着ているのだって「戦闘の邪魔にならないから」という実用一点張りの理由からだ。そんな理由で服を選んでも誰も不思議に思わない程度には、こいつは強い。それも物理的に。
悲しいことに、腕っぷしだけなら俺より強い。俺には魔法があるから、実際に闘っても負けることはないだろうが。彼女はその強さでもって、魔王軍で俺に次ぐ地位にいる。つまり相棒というか何というか、まあ、腐れ縁だ。
「何か異常が見つかったって聞いたから、来てみたわ」
「ちょうどいいや。知ってたら教えてくれ」
「なに? どうしたの?」
「人間ってのは、何を食べる?」
「雑食よ。基本的には、何でも食べるわ」
ふむ。何でも食うのか。なら、俺の食事を少し分けてやればいいか。頭の中でそう算段をつけていると、ニコルは小首をかしげた。
「人間のことなんて知って、どうするの?」
「飼う」
端的な俺の答えに、ニコルは固まった。いぶかしげに眉をひそめた後、その視線が俺の腕の中にいる赤ん坊の上に止まる。
「まさか、それ……」
「拾った」
ニコルはまなじりをつり上げて、俺をにらみつけた。目ぢからの強い美人が怒ると、迫力がすごい。
「なに考えてるのよ! 捨ててきなさいよ! 結界のあっち側にポイしてきて‼」
「やだよ。せっかく拾ったのに」
拾った理由を説明したいのだが、彼女はその隙を与えない。
「人間なんて、一匹見つけたら百匹いると思えって言われてるじゃない。本当に、なに考えてるの⁉ 結界のどこに穴があるのか、ちゃんと点検してきてよ! もうどれだけ入り込まれてるか、わかったもんじゃないわ。駆除しきれないほど繁殖しちゃってからじゃ、手遅れなのよ?」
「穴なんてない」
「でも入り込んでたんでしょ?」
「こいつ、聖女なんだ」
ニコルは「はあああああ⁉」と目をむく。眉間にしわを寄せて「聖女なんて──」と文句を言い募ろうとしていたが、ふと我に返った様子で「聖女……?」と首をひねり、そして「なんだ、そういうことか」と何やら納得している。
「それならそうと、最初から言いなさいよ」
いや、お前が言わせなかったんじゃないか。──とは思ったが、そんなことを言ったら火に油だ。賢明な俺は口をつぐんだ。ニコルは近づいてきて赤ん坊の顔をのぞき込み、人差し指でツンと頬をつつく。
「人間も、赤ちゃんのうちはかわいいのね」
ただ寝てるだけのスライムもどきな赤ん坊より、やわらかく笑っているニコルのほうがずっとかわいい。だがそれを言ったらまた真っ赤になって怒り出しそうな気がしたので、やっぱり黙っておいた。