アニス、誘拐される
結界の外には、鬱蒼とした森が広がっている。道などない。結界の内側であれば、巡回のために道が整備されている。しかし外側は手つかずなのだ。
道はないものの、何者かが通ったらしき跡は残されていた。ただし、悠長にその跡を探しながら追っているような時間はない。
俺は身体強化の魔法を掛け直してから大きく跳躍し、手近な大木の下枝にのぼった。そこからさらに何本か上方へ、枝をのぼる。高い場所のほうが遮るものが少なく、音を拡散したり集めたりしやすいからだ。俺は風魔法に声を乗せて叫ぶ。
「アニス! どこだ! 聞こえたら返事をしなさい!」
「ダリオン! ダリオン! ダリ──」
遠くからかすかにアニスの声がした──が、すぐに途切れる。あいつら、口を塞ぎやがったな。俺の頭にカッと血がのぼった。だがとにかく、これで方角はわかった。
アニスの口を塞いだところで、やつらは移動を続ける限り、自分たちで物音を立てる。居場所を知られずに移動するなんて、不可能なのだ。ましてや相手は、この俺、風魔法使い。方角さえわかれば、風を繰って音を運ぶことが可能なのだから。
風魔法で音を集めて相手の位置を確認しながら、大木の枝から別の大木の枝へと跳躍を続けた。この体はどう頑張ってもパワーに欠ける代わり、身軽さとスピードにかけては魔族の中でも並ぶ者がない。パワーよりスピードに優れたタイプなことに、今は感謝した。
こんな状況なのに「前にも同じことを思ったことがあるな」と、まったく関係のないことをふと思い出す。そうだ、あれはアニスが一歳の誕生日のときのことだ。あいつときたら、ベビーベッドの柵によじ登った挙げ句に、頭から転げ落ちやがったんだよなあ。本当に間に合ってよかった。
走って、跳んで、アニス誘拐犯たちを追いかけながら、なぜか次から次へと、あいつのお転婆の数々が思い起こされる。ひとつひとつ思い出すたび、スピード特化でよかった気がしてきた。パワーに憧れる気持ちが消えるわけじゃないが、うん、スピード特化も悪くない。
それもこれも、あいつがお転婆すぎるせいだけどな!
やがて人間たちが移動していく姿が視界に入った。ようやく追いついた。跳躍のスピードを落とし、自分が枝から枝へ飛び移るタイミングに合わせて、人間たちの周囲につむじ風を起こす。跳躍時に枝が揺れて音がするのをごまかすためだ。
風が吹くと辺りを見回す者はいるが、誰も上方に目を向けることはなかった。おかげで、悠々と連中を追跡できる。アニスは男のひとりに手首をつかまれ、引きずられるようにして歩いていた。子ども相手に手荒なことをしやがって。
俺は風を繰り、アニスの耳にだけ届くようささやき声を乗せた。
『アニス、黙ったまま聞きなさい』
アニスはうつむいていた顔をハッとしたように上げたが、辺りを見回したりせず、声も出さなかった。そして再びうつむいてから、小さくうなずいてみせる。よし、いい子だ。
『俺が合図したら、そいつの手を振り払うんだ。そして後ろに向かって全力で走りなさい』
どうしたらうまく振り払えるかも説明した。
力いっぱい手のひらを広げ、相手に向かって大きく一歩踏み込め。そして勢いよく腕を振り上げながら、背中合わせになるよう体をひねりなさい。それで腕は外れるはずだから、腰を落として重心を下げて走れ。
万一それで外れなかったら、勢いをつけて股間を蹴り上げろ。もしも後ろからつかみかかられそうになったら、かかとに全体重をかけてつま先を踏みつけるんだ。ついでに後頭部を後ろに振って頭突きをくらわせてやれ。ためらうな。思い切り行け。
アニスがこくりとうなずくのを待ち、タイミングを計って『今だ!』と指示を出した。
アニスはお転婆なだけあって、身体能力は高いほうだ。見事、指示どおりに腕を振り払って、拘束から抜け出した。あわてた男がアニスに向かって手を伸ばしたが、腰を落としてそれをかわす。いいぞ。そのまま走ってこい。
俺は枝から地面に飛び降り、アニスを抱き上げて跳躍しようとした。だがその瞬間、アニスが「あっ」と声を上げて、後ろを振り返った。
アニスを抱きとめようとした俺の腕は、虚しく空を切ることになる。どうしたことか、アニスは人間たちのほうへ駆け戻ってしまったからだ。呆然とする俺の目の前で、アニスはまた人間に捕まってしまった。アニスは男たちに向かって叫ぶ。
「返して!」
アニスが引き返したのは、髪飾りのせいだった。俺の角を加工して作ってやった、あの髪飾りだ。そんなもの、どうでもいいのに。
腰を落として男の拘束を逃れた際、手が頭をかすって落としてしまっていたのだ。アニスは「返して!」と繰り返しながら、髪飾りに手を伸ばす。だが髪飾りを拾った男は、ニヤニヤしながら髪飾りを遠ざけるばかりで返そうとしない。
人間の男たちは、勇者の少年を除いて五人。アニスを人質に取られてさえいなければ、俺ひとりでも問題なく対処できるはずの人数だ。だが相手がアニスを傷つけない保証がないので、うかつに手を出せない。
にらみあっているうち、男たちのひとりが矢をつがえた。人間の放つ矢など、避けるのは難しくない。だが、アニスを捕まえている男以外が全員、矢を射かけ始めてしまった。数が多ければ、それなりにうざい。
俺が集中攻撃を浴びているのを見て、ようやくアニスの意識は髪飾りから引き剥がされたようだ。悲鳴のような叫び声を上げた。
「ダリオン!」
この程度の攻撃なら、当たることはない。つまり防御というか回避には不足がないのだが、問題は攻撃力だ。残念ながら俺には、この人数を一瞬で戦闘不能にできるほどの圧倒的なパワーがない。一対一なら仕留められるが、順番に片付けている間にアニスに危害を加えられない保証がなかった。
ここはいったん引いて、時間を置いて奇襲をかけるべきか。──などと頭の中で考えを巡らせていた俺は、まんまと相手の思うつぼにはまっていた。
矢を射かけながら、やつらは俺を崖に誘導していたのだ。土地勘のない俺は、それに気づけなかった。矢を避けて脇に跳んだその場所に、地面がなかったときの焦りといったら。気づいたら俺は、空中に身を投げ出されていた。アニスが悲鳴を上げる。
「ダリオン!」
結構な高さの崖だったが、身軽な上に風魔法使いな俺にとっては何の危険もない。無事に崖下に降り立った。とはいえ、いくら身軽だろうが、この崖を登るのは難しかった。ただ登るだけなら別に何てことないのだが、上から矢を射かけられながらというところが無理。
結界を張りながらなら登れるだろうが、万が一のことを考えると、結界魔法は使わずに残しておきたかった。連続して使える魔法ではないからだ。
崖上から泣きそうな顔でのぞき込んでいるアニスに、俺はささやきを飛ばした。
『こっちに向かって跳びなさい。大丈夫だから』
腕を広げてみせれば、アニスはためらうことなく崖の上から跳躍した。拘束しようとする男に、惚れ惚れするほど見事な頭突きをくらわせてから。
風魔法で落下の勢いをそぎながら、アニスを受け止める準備をする。飛び込ませはしたが、かすり傷ひとつだって負わせる気はないのだ。ところがアニスを受け止める前に、崖上で人間たちが矢をつがえているのが見えた。本当に、子どもがいるのに何しやがる。
俺はとっさにアニスの周囲に結界を張った。風魔法を使いながら、落下中のアニスに結界を張るには、並大抵ではない集中力が必要だ。アニスの結界を優先したら、自分が矢を避けきれない可能性があることはわかっていた。
でも、ちょっとでも結界の中心がずれたら、アニスを守れないかもしれない。だから当然、自分よりアニスを優先した。
アニスを抱きとめる直前、肩に大きな衝撃を感じる。一本くらってしまっていた。その瞬間に感じたのは痛みではなく、まるで焼けるような熱さだけだった。でも、とにかくアニスは無事だ。泣きべそをかいてはいたが。
「ダリオン……」
「いいから。しっかりつかまってなさい」
俺はアニスを抱いたまま、魔国を目指して駆け出した。