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誘拐されたぼく、幼馴染、なつやすみ

作者: かねしろりな

「夏になるといつも思い出す」


 直人が呟くの同時に、アイスコーヒーの注がれたグラスの中で、氷がカランと涼しげな音を立てた。古びた喫茶店の店内はエアコンが効きすぎて、少し肌寒かった。直人は節立った長い指でガムシロップを取り、半分ほどグラスに注いだ。粘着質な液体が、どろりと沈殿していく。


「あれは十五年前、僕が八才の頃だ」


そう言いながら、直人はゆっくりとマドラーでグラスの中身をかき混ぜた。大粒の四角い氷がとても邪魔そうだった。時間をかけて丁寧に溶かしきってから、直人はようやくグラスに口をつけた。嚥下するのに合わせて、すっきりと浮き出た喉仏が上下した。煙草の臭いが染みついたヤニっぽい喫茶店と、目の前にいる真っ白なシャツを着こなした青年はまるで正反対で、彼だけが周囲から浮いていた。


「なあ、エイジ」


直人はコースターにグラスを置いて、正面をまっすぐに見据えた。


「どうしてあの日、僕を誘拐したんだ?」



その日は最高気温が三十七度にも達し、立っているだけで焼け焦げてしまいそうなひどい猛暑だった。ミンミンゼミが大合唱し、アスファルトに陽炎がゆらめいていた。直人は顔をしかめながら、アサガオの鉢を抱え直した。顔にかかるツルが鬱陶しくて仕方ない。教科書ドリルその他諸々すべて詰め込んだランドセルは、小学二年生の小さな体が背負うにはあまりに重かった。斜め掛けにした水筒のストラップがぐいぐい肩に食い込んで、汗がどんどん噴き出してくる。うだるような暑さ、ひっくり返りそうな大荷物。喉が渇いて麦茶を飲もうにも、両手はアサガオでふさがっている。直人は深いため息をついた。明日から夏休みが始まるとは思えないくらい、気分は暗く沈んでいた。原因は分かっていた。 終業式の後、仲の良い級友は押し並べてみんな、車で迎えに来たお母さんにアサガオの鉢植えを渡すと冷房の効いた後部座席に乗って、悠々自適に帰宅した。 お化粧と日焼け止めの柔らかい匂いを纏ったあるお母さんは、ひとりで帰ろうとする直人を呼び止めてこう言った。


「直人くん、送っていこうか。おうちが大変でしょ?」


 それは魅力的な申し出だった。学校から自宅まで電車で四駅もあるし、最寄り駅についても十分は歩く。しかし直人は深々とお辞儀をし、丁重に断った。同情されるのは何より嫌いだった。頑張って電車で四駅揺られ、今に至る。  家への道のりはいつになく遠かった。上り坂の傾斜が険しくて、永遠に帰宅できない気すらした。こんな無様な姿は誰にも見られたくない。周囲に全く人気のないことだけが不幸中の幸いだ。空腹も相まって苛立ちがピークに達し、ひとまず麦茶を飲もうと両手に抱えた鉢を地面に下ろそうとしたときだった。ブッブー! けたたましいクラクションが、辺り一面に鳴り響いた。


「……!」 


心拍数が一気に上がり、びくっと身が竦む。同時に手から、アサガオの鉢が滑り落ちた。直人は恐る恐る振り向いた。真後ろにいたのは、よくある白のミニバンだった。動けずにいる直人の隣に、車はそのまま進入してきた。ウィーンと運転席の窓が開いて、直人は咄嗟に身構えた。


「フラフラ歩いてんなよ、お坊ちゃま」


 顔をのぞかせた男は、鼻を鳴らして笑った。黒のキャップを目深に被っているが、見知った姿だった。肩の力がするすると抜けていく。


「桜井エイジ!」


男が意地悪そうに口角をつり上げたのを見て、直人は「びっくりさせるな!」と声を荒げた。エイジは軽く笑って車を停め、地面に降り立った。ネコのように大きな瞳を、眩しそうに細める。


「貸せ」


するりとランドセルを抜き取られ、直人は「ふあ~」と息を吐いた。一気に体が軽くなり、ぐるりと腕を回す。エイジは「随分重いな」と呟いた。燦燦と降り注ぐ鹿児島の太陽は、彼の透けるような白い肌に似合わない。彼もそれを分かっていた。だから彼は高校を卒業してから、この地に寄り付かなくなっていた。


「いつ帰ってきたの?」


 ランドセルを車内に放り込むエイジの背を見ながら、直人は首を傾げた。


「エイジが帰ってくるって、誰も教えてくれなかった」


 こう言ったのには訳がある。エイジと直人は、年が十歳離れている。そうとは思えないほど、顔を合わせれば会えば喧嘩ばかりしている。だが、仲が悪いわけではない。親同士が親友だから、物心ついたときから傍にいた幼馴染だった。声を弾ませる直人に対して、エイジは「別に帰ってきたわけじゃない」といつも通り無愛想に言った。そういう態度をとられると、意地でも会話を弾ませたくなる。


「エイジ、車運転できるの? 誰の車? なんで車?」

「うるせえ、いいから乗れ」

「落としちゃったアサガオ、どうしよ?」


直人は小首を傾げながら訊ねた。エイジは面倒くさそうに、「そんなもん放っておけ」と一瞥するだけだった。年上のくせに大人げないのは、大学生になっても変わらない。地面に散らかったアサガオに後ろ髪を引かれながら、直人が助手席に乗り込んだときだった。


「何これ……!」

「すげえだろ」 


 エイジは自慢げに口角をつり上げた。直人は「わー……」と感嘆を漏らすことしかできなかった。後部座席があるはずのそこは、フルフラットのマットレスが敷かれていた。カップ麺やポテチの袋が隅に寄せられて、まるで秘密基地だ。


「旅してるんだ、この車で」

「旅!」


 なんという魅惑の響きだろう。顔を輝かせる直人をちらりと見て、エイジはエンジンをかけた。直人はその仕草に目を奪われた。ついこの間まで詰襟の学ランを着ていたエイジが車のハンドルを握っている光景はなんだか不思議で、格好良く見えた。カーステレオから流れてくる音楽も、普段家族と乗っているときじゃ掛けてもらえない最新曲だった。胸がドキドキと高鳴る。エイジがゆっくりと口を開いた。


「……お前も一緒に来るか?」


 それは軽い口ぶりの、冗談めいた言い方だった。


「行く!」


直人は右手を大きく挙げると、元気よく返事をした。エイジは「ははっ」と笑った。直人はウキウキとはやる気持ちを抑えられなかった。何の予定もなかった最悪の夏休みが、急に素晴らしいものになってしまうような気がした。車で旅するなんて、最高だ。


「帰ってお母様に聞いてみるから、ちょっと待ってて」


すぐ用意する、と続けようとしたときだった。


「お前の親にはもう言った」


 エイジは前を向いたまま、少し大きな声で被せた。


「夏休みに何もしてやれないから、連れてってくれるなら助かるってさ」

「……」


 妙に平べったい抑揚の言葉は、胸の奥底を簡単にえぐった。直人はまばたきを一つしてから、膝の上に置いた拳をぎゅっと固く握った。親がエイジにそう言うのも、無理ないことなのだ。直人の兄が死んで、季節はまだ一巡していない。終業式のあとの荷物が多くても、夏休みが四十日あっても、それは直人の家族に何の変化ももたらさない。


「このまま行こうぜ、必要なもんは全部買ってやる」


 エイジは運転席から回した手で、華奢な肩を軽く叩いた。アクセルが踏み込まれ、車の速度が上がっていく。直人は黙ったまま、こくりと小さく頷いた。


 車は正午を回るまで、一度も止まることなく走り続けた。最初こそ高揚感と緊張でドキドキと心臓が高鳴っていたが、二時間もすれば慣れてしまった。だだっ広い高速道路は、いくら走れど景色が変わらずつまらない。『熊本県』と書かれた標識を通り過ぎる頃、直人の腹の虫がぐううと鳴いた。


「エイジぃ、お腹空いた」


 直人は手の中で水筒をもてあそびながら訴えた。エイジはちらりとカーナビに目を落とした。


「何食いたい? 好きなところ連れてってやる」

「オムライス!」


 即座に答える。しかし子どもっぽすぎたかと思い、直人は急いで「パスタでもいいけど」と付け加えた。こういうとき、彼はすぐにからかってくるのだ。しかし今日は違った。


「わかった」


 エイジはそれだけ言って、ハンドルを左に回した。直人を肩透かしを食らったような気持になって、エイジは唇を尖らせた。

 田んぼと畑に囲まれた道を、車は時速三十キロにも満たない速度で走行する。その中にぽつんと佇むショッピングモールは、見るからにさびれていた。地下駐車場はやたらと広くてガラガラだった。これだけの面積を車で埋めるのは変そうだ。そんなことを考えながら、直人は運転席に目を向けた。ピーッピーッ。シフトをリバースに入れて停める彼の手つきは、やたらと慣れていた。


「エイジは車の運転が上手だな」


 思えば彼は昔から、なんでも器用にこなす男だった。勉強もよくできた。九州で一番頭のいい大学に受かっておきながら、それを蹴って遠く離れた東京にある大学を選んだくらい、人生における選択肢をたくさん持ち合わせていた。それなのになぜかいつも、どうしようもなくつまらなさそうな顔をしているのが、直人から見るエイジ百之助という人間だった。エイジはエンジンを切りながら「当たり前だろ」と、やっぱり退屈そうに言った。

 昼下がりにも関わらず、フードコートはほとんどが空席だった。テラスに面した大きな窓ガラスには、誰かの指紋がぺたぺたと白く浮かんでいた。エイジは頬杖をついたまま何をするわけでもなく、その薄汚れた窓の向こうをぼんやりと見ていた。直人はテーブルの下で、脚をぶらぶらと揺らした。手持無沙汰だった。そのとき、右手に握りしめていたブザーが、ビービーとけたたましく鳴って振動した。

ぱっと顔を上げた先で、カウンター内の店員が湯気立つオムライスをトレーに載せていた。


「とってくる!」

「待て」


 エイジが素早くそれを制したのは、直人が椅子から飛び降りようとしたのと同時だった。


「俺が行くから待ってろ」


 直人の頭に手を置き、ぐりぐりと押さえつける。猛暑だというのに、その掌はひんやりと冷たかった。直人はテーブルに両肘をついて、カウンターに向かう彼の後ろ姿を見つめた。何だかずっと違和感があった。その正体に気付いたのは、エイジがファーストフード店から自分の食事を取ってきたときだった。


「わかった!」


 突然の大声に、着席しかけていたエイジはびくっと肩を震わせた。


「でけえ声出すな馬鹿」

「エイジと二人だけでご飯食べに来るなんて、初めてだ」


 にわかに焦りを滲ませる彼を気に留めないまま、直人は声を弾ませた。ご飯だけじゃない。遠出自体が初めてだった。だってエイジはついこの前まで高校生で、親からは直人と同じように子ども扱いされていたのだ。


「大学生になったら、どこでも自由に行けるようになるんだな」


 直人は「うらやましいなあ」と微笑んだ。


「大学は面白い? 小学校と何が違う?」


 彼が地元を離れてからたった五か月しか経っていないというのに、佇まいは当時に比べて随分とおとなびているようだった。直人はオムライスを頬張りながら、キャップを被る頭のてっぺんから白く長い指先まで、目を凝らしてじっくりと観察した。フライドポテトの先にケチャップをつける動きも、てりやきバーガーにかぶりつく仕草も、鹿児島にいたときと何かが違うのだ。エイジは「小学校と……」とひとこと呟いて、ストローを咥えた。ずずずとコーラを飲む彼の返事を、直人は固唾を飲んで待つ。


「……休み時間にドッジボールしない……とか」


 その答えこそ、全くエイジらしくないものだった。


「今日のエイジ、何か変」


 直人は眉を寄せ、スプーンを握ったまま正面を睨みつけた。


「はあ?」

「だっていつものエイジなら、そんな下らないこと聞くなって言うもん」


 ぼくのお願い聞いてくれて、言うこともやることも全部優しい。そんなのエイジじゃない。きもちわるい。おまえ本当にエイジか?何かがエイジに化けているんじゃないか?そんなことをつらつら述べる直人を前に、エイジは「ああ」と手を打った。


「つまりお前は、俺にいじめられるのが好きなのか」

「なっ! ちがう!」


 咄嗟に声が裏返った。心外にもほどがある。早々にバーガーを食べ終えたエイジは、包み紙を几帳面に畳みながら口を開いた。


「この旅行中は一応、俺がお前の保護者代わりだからな」

「エイジが保護者……ふふっ」


 それはあまりにも似つかわしくない単語の組み合わせだった。直人はくすくす笑った。彼は黙ってそのさまを見ていたが、少しの間を置いてから、不意にテーブルの上のペーパーナプキンを一枚取った。テーブル越しに腕が伸ばされる。


「ケチャップついてるぜ、お坊ちゃま」


 エイジはからかうように言いながら、直人の口の周りをごしごしと拭った。ざらついた紙でこするから、皮膚がヒリヒリと痛んだ。


「そういえばジュンくんは、何で来なかったの?」


 直人がそう訊ねたのは、口周りを拭いてもらったことでエイジが『兄』であることを思い出したからだった。ジュンはエイジの実弟だ。複雑な事情があるらしいが、詳しいことは聞かされていない。実際のところ直人は、桜井家と家族ぐるみで交流をするとき、何かと理由をつけて欠席するエイジよりも、ジュンと顔を合わせる機会の方が多かった。直人は優しく気品のあるジュンが好きだった。そしてジュンは、エイジのことを心から尊敬していた。


「お兄様は頭が良くてユーモアがあって、本当に素敵な人なんだ」


 会うたびにジュンから聞かされる人物像は、直人の知るエイジとかけ離れていた。どうやらエイジは、ジュンをからかったり意地悪したりしないらしい。ならば直人の兄のように弟を愛し慈しんでいるのかと思いきや、そんなわけでもなさそうだった。ジュンとエイジがふたり揃っているとき、エイジはどこか遠慮しているように見えた。距離をとろうとしている素振りすらあった。対するジュンは、ぶんぶんと振り回される尻尾でも見えそうなほどエイジに懐いていた。あの調子なら、エイジが旅に出ると聞けばジュンはついてきそうなものなのに。


「……来たくても来られなかったんだ」


 エイジは少しの沈黙の後、ぼそりと呟いた。直人はスプーンを右手に握ったまま、「ふうん」と相槌を打った。会話が途切れて、直人はエイジの手元に視線を落とした。


「……じゃあ……」


 緩慢に顔を上げた直人は、続けようとした言葉を咄嗟に飲み込んだ。エイジが真っ直ぐに直人を見つめていた。真っ黒な瞳だった。底が見えないほど黒い双眸に、直人は動揺した。彼の瞳が黒いのはいつも通りのはずなのに。言うべきではないかもしれないと思ったのは、得体のしれない違和感があったからだった。


「……じゃあこの旅の間は、エイジがぼくの兄さんだな」


 直人は迷いに迷って、結局そう口にした。直人なりに、たっぷりの冗談を含めたつもりだった。だが声は不自然に上擦った。薄汚れた窓には、下手くそな半笑いを浮かべる子どもが反射していた。直人は俯いた。自分の兄は死んでしまってもういないが、エイジは今この瞬間もジュンの兄だ。くだらないことを言ってしまった。きっと笑われる。笑われたら、落ち込んでしまう。ぎゅっと唇を引き結ぶ。エイジは何も言わずに沈黙していたが、おもむろに帽子を脱いだ。


「……お前がそれでいいなら」


 坊主頭を撫でつけながら発された言葉は、滑舌が不明瞭で、ぼそぼそと小さい声だった。だが確かに聞こえた。直人は目を見開いた。


「エイジ」

「お前の服買いに行くから、早く食え」


 被せるよう言いながら、エイジはトレーを持って立ち上がった。直人はぱちぱちとまばたきをした。返却口に立つエイジの背が、いつになく大きく見えた。それはまるで、ある日の兄のようだった。さびれて薄汚れたフードコートは、大きな窓から入ってくる夏の陽射しできらきら輝いていた。


 子ども服売り場はやたらと広く、人気はやっぱりほとんどなかった。この分なら、棚卸をしている店員の方が多そうだ。


「こんな広い洋服売り場、初めて見た」


 物珍しさに感嘆を漏らしながら、直人はふらふらとマネキンに近付こうとした。エイジはその襟元をぐいっと掴んで引き戻した。


「百貨店のブランド子ども服しかご存じないお坊ちゃまには新鮮だろ」


 そう言いながら、エイジは隣のラックに掛かっているTシャツを、いくつか取った。中腰になって、直人の肩に服を合わせる。


「……お前、チビだな」


 L、M、Sとそれぞれ直人の体に重ねてサイズ感を確かめてから、エイジはぼそりと独り言のように言った。途端に直人は「チビじゃない!」とまなこをつり上げた。それは直人がずっと気にしていることで、もっとも言われたくないことの一つでもあった。勢いのある反応が面白かったのか、エイジは色違いのTシャツを適当にとりながら「おちびさん」などと笑った。何と失礼なやつだろうか。


「おちびさんって言うな!」


 直人はダンッ!と右足で地団太を踏んで叫んだ。即座にエイジは、直人の口を手のひらで塞いだ。


「ばか、大声出すな」


 エイジは語気強くたしなめ、その場で後ろを振り返った。彼の目線の先では、女性店員がのんびりと服を畳んでいた。エイジは安堵したように小さく息を吐き、直人の頭を軽く叩いた。


「もう八歳なんだから、いい子にしろ」


 直人は唇を尖らせながら、はてと首を傾げた。彼はそんなに周囲の目を気にする男だっただろうか。



 直人が目を覚ましたのは、瞼を透かすほど眩しい夕焼けのせいだった。ずきん、と首筋から頭に鈍痛が走って顔をしかめる。あれ、ここはどこだ。家で寝ていたんだっけ。


「首、折れてんのかってくらい曲がってたぜ」


 カーステレオから流れるアップテンポな流行りの曲とエイジの笑い声で、直人は我に返った。そうだ、エイジと二人で旅行に来たんだ。ショッピングモールを出て、すぐに眠ってしまったらしい。唇の端からは、顎によだれが伝っていた。かあっと頬が一気に熱を持つ。手の甲で拭うがもう遅い。鎖骨のあたりに掛かるシートベルトにもしみこんで、一部だけが色濃く変色していた。


「眠いなら寝とけよ」


 エイジは前を向いたまま言った。エアコンで喉が張りつくように乾いて、直人は肩から下げた水筒の蓋を開けた。ずいぶん軽い気がして飲み口を覗き込むと、麦茶はひとくち分しか残っていなかった。気付けば日はとっぷりと暮れていた。車はひたすら真っ直ぐに突き進む。何本もの鉄線が影になって、空にまだらな線を描いていた。直人は勢いよく身を起こした。


「見てエイジ!」


 それは初めての光景だった。海で隔てられているはずの九州と本州が、ひとつのつり橋で繋がっている。エイジの運転するこのミニバンは今、まさにここを走っているのだ。橋の下で、吸い込まれそうなほど暗い色をした海が荒々しく白波を立てた。直人は急いでパワーウィンドウに指をかけた。


「エイジ見て! 海が……」


 ぶわり。開いた窓の隙間から潮のにおいをのせた風が吹き込んで、髪がみだれたときだった。


「……!」


 それは、みぞおちが引き絞られるような感覚だった。きらきら輝いていたはずの景色が、急に色褪せていく。


「……エイジぃ」


 途端に落ち着かなくなって、直人はその場で身じろいだ。空っぽの水筒をぎゅっと握りしめ、運転席に顔を向ける。


「ぼくたち、どこまで行くの?」


 ルームミラーに映る北九州の山岳はどんどん小さくなり、日はすっかり沈んでいた。車の中が暗くなるのに比例して、心細い気持ちがどんどん強くなる。カーステレオから流れていた流行りのJ‐POPは、ギターの激しい後奏で終わった。一瞬だけ訪れた静寂が、この車の中と外の世界をぷつりと断ち切ってしまった。『ここからは全国のニュースをお伝えします』と定型文を口にする男性アナウンサーの声に、ざざ、とノイズが混じる。エイジは無言のまま、ステレオのボリュームをゼロに絞った。


「エイジ?」


 彼がどんな表情をしているのか、深くかぶったキャップのせいで分からない。どうして返事をしないんだ。ぞくりと背筋を冷たい汗が伝う。


「……なあ、エイ……」


 その時だった。それまで九十キロを指していた速度メーターが、不意に右へ振り始めた。百、百十、百二十。


「エイジ!」

「……ソウヤミサキとかどうだ」


 悲鳴じみた言葉に返ってきたのは、不自然なほどにあっけらかんとした声だった。後ろにはいつのまにか後続車がいて、バックドアガラスを抜けたハイビームが微かに車内を照らした。隣でハンドルを握る彼の白い肌が、可視化される。


「日本のサイホクタン目指すとか、旅っぽいだろ」


 エイジはそう言って、口角をにやりとつり上げた。直人は小さく息を吐いた。


「ほら、見ろよ」


 顎で指し示す先は、関門橋の終わりだった。


「九州、出てやったぜ」


 表情も声音も、普段のエイジと何も変わらない。でも、何かがおかしかった。さっきの様子は、一体何だったのだろうか。ひるんでしまったのが恥ずかしくて、直人は窓の方へと顔を背けた。橋の下はもう、海ではなかった。


 エイジがだだっ広い道の駅の駐車場で車を停めたのは、それからたっぷり三時間も経った頃だった。途中のサービススエリアで夕食をとるために休憩を挟んだものの、直人は疲れ切っていた。母に何も言わないままこんな遠くまで来てしまって、本当によかったのだろうか。


「いい?なおくん」


 母は毎朝玄関まで直人を見送りに来ては、その肩に手を置いて言い聞かせた。


「知らない人についてっちゃだめだからね」


 あまりにしつこく言うものだから、直人は自分が子ども扱いされているような気分になり、「わかってるよ」と拗ねていた。母はそっぽを向く直人の頬を、両手でそっと挟んで目を見た。


「『お父さんとお母さんに直人を連れてくるよう頼まれたから、この車に乗って』てその人が言たらどうする?」

「何も言われても、知らない人の車には乗らない」

「そう、絶対に乗っちゃダメ。なおくんはちょっと抜けてるところがあるから……」


 直人は母との会話を思い返しながら、大きく伸びをするエイジへ視線を向けた。エイジは知っている人だ。物心ついたときからの知っている人で、家族ぐるみで交流がある。


―『夏休みに何もしてやれないから、連れてってくれるなら助かるって言われたぜ』。


 それはきっと、本当のことだ。直人は唇を引き結んで俯いた。考えてみれば、母が口を酸っぱくして直人にそう注意していたのは、兄が他界するまでの話である。兄が死んでから、直人の登校前に玄関へ見送りに立つのはお手伝いさんだけで、少しだけ隙間の開いた両親の寝室は、朝になってもずっと暗い。


「こっち来いよ、お坊ちゃま」


 背後から投げかけられた声に、直人は我に返った。運転席にいたはずのエイジは、後部座席があった場所へ移動していた。座席を取り外して広げられたマットレスの上には、枕が二つ並べられていた。そのうちの一つは隣のものより二回りほど小さく、青地の布にデフォルメされたパトカーや消防車が描かれていた。


「もう十時だ、寝るぞ」


 ごろりと寝そべったエイジは、小さな枕を軽く叩いた。直人は天井に頭を打たないよう、身を屈めて助手席から後ろへ回った。実際にその場に座ってみると、そこは思っていたよりもこぢんまりしていた。昼に見せられたときは、もっと広々として見えたのに。


「……一緒に寝るの?」

「嫌なら外で寝るんだな」


 直人はむう、と眉を寄せた。親や兄以外と同じ布団で眠るのは、初めてのことだった。エイジは窓をカーテンで遮ると、室内灯のスイッチを消した。一瞬で車内が真っ暗になった。簡易的につけられたカーテンの荒い布目から、ぼんやりとした月明かりが薄く滲んでいた。直人はエイジの隣でうつ伏せになると、枕に頬をくっつけた。


「エイジぃ、明日はどこまで行く?」

「決めてねえ」

「お風呂入りたい。べたべたする」

「分かってる」

「朝ご飯はどうする? いつもはパンにジャムたくさんぬったやつなんだけど」

「うるせえ。いいから寝ろ」


 エイジは低く言うと、左肩を下に背を向けた。これ以上しゃべる気はないらしい。直人は仕方なく仰向けに体勢を変えて、胸の上で両手を組んだ。ひたすらに静かだった。瞼を閉じて寝ようとするが、自分の呼吸が気になってしまう。直人は片目を薄く開けた。向けられたエイジの背中を、ぼんやりと眺める。直人が眠れないとき、兄は添い寝をしてくれた。明け方にふと目を覚ますと、隣の兄は背中を向けて寝息を立てていた。細身でやせていたが、直人よりもずっと大きな背中だった。そう、こんなふうに。


「……」


 直人はそろりと手を伸ばし、エイジの腰の辺りを触った。ぬくもりがあった。寝入っているのか、エイジはそのまま動かなかった。生きている人間は温かい。当たり前のことを思い出すと、急に睡魔に襲われた。直人はエイジに触れたまま、眠りに落ちた。



 翌日は朝の七時過ぎからドライブが始まった。最初は移ろう景色に身を乗り出していた直人だが、きのうと同じく、二時間もしないうちに飽きてしまった。高速道路から見る緑の山々はずっと連なって、何の代わり映えもしない。


「ねえ、まだつかないの?」


 直人はとっくに空っぽになった水筒を両手で挟み、露骨に退屈をにじませて問うた。エイジが最終的にどこに向かっているのか、直人は知らない。「ソウヤミサキ」「日本のサイホクタン」……昨夜のエイジが口にした単語は、直人の語彙にないものだった。なんだか目的地を聞いてはいけない気がしていた。直人は水筒を軽く上へ投げてはキャッチして、「お腹空いた、お風呂入りたい、外走りたい」と大声で歌った。


「うるせえ……」


 エイジはうんざりした表情を浮かべながら、カーナビの音符マークを押した。ハンドルに手を添えたまま、指先で素早く操作する。


「走りたいなら降りて走ってついてこい」

「しっ」 


 直人は鋭くエイジを遮り、人差し指を立てた。流れてきた激しい曲調のイントロに耳を澄ます。そして男性ボーカルが歌った瞬間、目を見開いた。


「チュウレンジャー!」


 それは毎週日曜日の朝に放送されている、戦隊シリーズの主題歌だった。


「なんでこの曲…ぼくが好きって知ってたの!?」


 レッドがいちばん格好良くてね、クラスではブルーとレッドのどっちが格好いいかで結構分かれてて、ぼく誕生日にはチュウレンジャーレッドんザンザンソードがほしくてね……。直人は息を切らして一気にまくしたてた。


「エイジもチュウレンジャー好きだったんだ! 次の回は予告がもうすごかったで楽しみなんだ。一緒に見よう」

「そうだな。じゃあ黙って聞いてろ」


 喜ぶ直人をちらりと一瞥し、エイジは素っ気なく返した。そのあとも、直人の好きな曲が次から次へと流れ続けた。ご機嫌で歌う直人の横で、エイジはアクセルを少しずつ深く踏み込んだ。

 気づくと太陽は青空のてっぺんに昇っていた。助手席から地面に降り立つと、アスファルトは靴の裏が焼けそうなほどの熱をもっていた。クーラーの効いた車内との温度差に、脳の奥がぐわんと痺れる。


「行くぞ」


 エイジはそう言って、直人の頭に帽子をかぶせた。頭皮や髪を焦がすような陽射しが遮られ、直人は顔を上げた。同時に視界の上半分が消えて、「わ」と声を漏らした。帽子のサイズが大きいせいで、キャップのつばがずれてしまう。直人は手の甲で押し上げながら、駐車場に隣接する建物へ向かうエイジの後ろを追いかけた。


「なんで温泉?」

「旅行だから」

「泊まるの?」

「いや、入って飯食ったら出発する」


 直人は硫黄のにおいを吸い込みながら、「ふうん」と相槌を打った。やっぱり「どこへ」とは聞けなかった。

 エイジの選んだ施設は古めかしいホテルだった。自動ドアを抜けた瞬間に、ボーイが「いらっしゃいませ」と深いお辞儀をした。それまですたすたと前を歩いていたエイジは、不意に歩をゆるめた。そしておもむろに、直人の手を取った。


「……!?」


 直人は驚きに目を丸くした。エイジに手を繋がれるなんて、記憶にある限り初めてだった。一体どういうつもりだ。エイジを見上げようとするが、そのはずみでまた帽子がずれた。


「日帰り入浴で、大人一枚と子ども一枚」

「かしこまりました」


 ようやく視界を取り戻したときにはもう、エイジの手は直人から離れていた。視線の先で受付と会話するエイジは、いつもと何ら変わらない表情だった。


「タオルの貸し出しはご利用でしょうか」

「二枚」

「承知しました。こちら会員登録していただきますと……」


 つまらない。直人は帽子を脱ぎ、指先でくるくると回しながら振り向いた。ロビーは家族連れでごった返していた。あちらこちらで、トランクやカートが赤いカーペットの上を引きずっている。


「こら! 勝手に行かんといて!」


ソファに腰掛けていた女性が、売店の方に走り出そうとした少年の首根っこを掴んで止めた。じたばたする少年を「パパまだ受付してるやろ」と引き戻す。叱るような口調だがその表情から、家族旅行を楽しんでいるのがよくわかる。


「……」


 直人はぼんやりと眺めながら、「去年はぼくんちの旅行もあんなんだったな」と思い返した。そういえば父と母は今頃何をしているだろうか。世話をしなければならない落ちこぼれの次男がいなくなって、清々しているだろうか。金森家の時間は、最愛の長男を失ったあの日から止まっている。


「おい、行くぞ」


 上から降ってきた声で、直人ははっと我に返った。せっかく温泉に来たのに、くだらないことを考えていた。どうせ両親は、息子がもう一人いることを忘れているのだ。今はエイジとの旅行を楽しめばいい。


「今のぼくとエイジ、兄弟に見えるかな」


 直人は脱衣所で服を脱ぎながら、後ろのロッカーでごそごそしているエイジを振り向いた。その背中を見た瞬間だった。直人は思わず声を上げた。


「兄さん」

「は?」


エイジは手首にロッカーキーを装着しながら、訝しげに首を傾げた。直人は慌てて「何でもない」と取り繕った。浴場に入っても、まだドキドキしていた。無駄な肉のついていない背中が、頭に焼き付いて離れない。真雪のような、真っ白い肌だった。優しかった兄とエイジは似ても似つかないと思っていたのに。


「何もたもたしてんだよ」


積み上げられた風呂桶を二つ取ってきたエイジは、シャワーの前で棒立ちしている直人に片眉をつり上げ、銀光りする水栓を指した。


「ここ押せばお湯が出てくる」

「……やって」

「は?」


 ここに来て二度目の反応だった。直人はもう一度、「やって」とだけ繰り返した。エイジは訳が分からないといった表情を浮かべたまま、水栓を押した。じゃばばばとシャワーから水が吐き出されるが、直人は手を動かそうとしない。


「いや……何してんだ」

「なんにも」

「いいから早く洗え」 


直人がふざけていると思ったらしい。苛立つエイジに、直人はふてくされた顔で俯いた。エイジは「まさかお前……」とわざとらしく驚いた。


「八歳にもなって、一人で頭洗えねえのかよ」

「洗えないわけじゃない!」


 直人は思わず声を張り上げた。ぐわんぐわんと浴場に反響して、方々から一斉に視線が向けられた。頬が発火しているように熱かった。


「いつも温泉に来たら、兄さんが洗ってくれてたんだ!」


 おまえがこの旅の間はぼくの兄さんになるって言ったんだろ、だから洗わせてやろうと思っただけで、別に洗おうと思えば自分で洗える髪くらい……。真っ赤な顔でまくしたてる直人に、エイジは「静かにしろ」と語気を強めた。その態度が余計に癪に障る。


「だってエイジが……」


 直人が眼をつりあげて、反論しようとしたときだった。開けた口に突然シャワーを向けられて、直人は「わっ」と慌てて唇を引き結んだ。


「どこまで手がかかるんだ」


 エイジはそう言いながら、ざばざばと容赦なく直人の頭に湯をかけた。耳へ入ろうが容赦ない。


「しょうがねえから洗ってやるよ、お坊ちゃま」


 エイジはシャワーを一度止めると、鏡の中で揶揄と皮肉を混ぜたように笑った。備え付けられたシャンプーのポンプを何度も押して、濡れそぼった直人の髪で泡立てる。洗髪する手つきは口調と裏腹に、丁寧で優しいものだった。頭皮を傷つけないようにしているのか、指の腹でそっと揉みこむように洗われる。既視感があった。


「……兄さん」


 再び強い水圧のシャワーが向けられるのと、直人が小さく呟いたのは、ほぼ同時だった。ぬるい泡が額から流れ落ちてきて、直人は固く目をつぶった。


「体はさすがに自分で洗えよ」


 エイジはシャワーを壁に掛け直し、隣の椅子に座った。直人の呟きは聞こえなかったようだった。安堵する気持ちと何だか惜しい気持ちが混ざり合って、直人は首を振った。

 直人が露天風呂に興奮しきっていたのは、湯に浸かる直前までだった。茹でられてしまうような熱さに一分ともたず、脱兎のごとく脱衣所へと逃げ出した。


「烏の行水もいいとこだな」

「こんなの一瞬でのぼせて具合悪くなる」


 直人は悪びれずに言いながら、エイジの用意したTシャツに袖を通した。きのう買ったばかりのそれは、新品のにおいがした。一番小さいサイズを買ったはずなのに、少し大きかった。エイジはレンタルしたバスタオルを直人の頭にかぶせ、がしがしと拭いた。大人しく拭かれていた直人は、突然「あ」と声を出した。視線の先には、牛乳瓶のずらりと並ぶ自販機があった。


「牛乳飲む!」

「おいまだ頭濡れてんぞ」


 エイジは自販機へ駆け寄る直人の頭を、バスタオルで包んだまま押さえ込もうとした。直人は「買って」と自販機内に陳列された瓶を指さした。


「買わねえよ。このあと昼飯だって言ったはずだぜ」

「えー。大きいお風呂入ったら、いつも牛乳飲んでる」


 そう言って直人は、その場に仁王立ちした。エイジは直人の胸の辺りをぽかりと叩いた。直人は「そうかよ、背ぇ伸びるといいな」と心にもなさそうな口ぶりで言いながら、面倒くさそうに小銭入れを取り出した。投入口に硬化を一枚ずつ入れると、自販機のボタンが一斉に赤く点滅した。エイジは背伸びして、最上列のボタンを人差し指で押した。ガタンと音がして、瓶が取り出し口に落ちてきた。


「ほら」


 直人は身を屈めてそれを取ると、水滴のついた牛乳瓶をエイジに差し出した。だがエイジは、ふいとそっぽを向いた。


「あけて」

「お前……」 


 直人は片眉をつりあげた。言いかけた言葉の代わりにため息をつき、「ボンボンが」と呟きながら、仰々しい手つきで蓋を剥がす。


「はい、どうぞ」

「はい、ありがと」


 エイジはべーっと大きく舌を出して、キンキンに冷えた牛乳を火照った体へ流し込んだ。だって温泉にきたら、兄が頭を洗ってくれていたのだ。牛乳瓶の蓋だって、頼む前から兄が剥がしていた。その様子を見ていた母は「なおくんは甘えん坊だねえ」と微笑み、父は「あんまり甘やかしすぎるんじゃなか」と兄をたしなめた。


「……お父さまとお母さま、心配してないかな」


 直人は半分空になった牛乳瓶を見つめたまま、小さな声で言った。学校から家に立ち寄ることもなく、ランドセルを持ったまま本州まで来てしまったのだ。エイジは直人を見下ろしていたが、一拍置いてから、「大丈夫だろ」と言った。


「親父さんもおふくろさんも、それどころじゃなさそうだったぜ」


 ずきん。肋骨に守られた胸の奥深くが、きつく締めつけられた。エイジのその言い方も言葉の意味も、何もかもが何だか全部ざらついていた。


「……」


 直人は黙ったまま俯いた。すぐに視界が滲んできたので、瞬きをしないよう慌てて目を見開く。少しの間が空いた後、エイジの手がぽんと頭に乗せられた。


「飲んだなら飯行くぞ」


 風呂上がりだというのに、その手のひらはひんやりしていた。そうだ、今はエイジがいる。


「……ん」


 直人は牛乳瓶を傾けると、一気に飲みほした。液体で満たしてしまえば、みぞおちの辺りの痛みが少し和らぐような気がした。エイジは小さな手から瓶を取り上げて、空き瓶回収と記された番重に立てかけた。

 夏休みシーズンの混雑で、大通りの飲食店はどこも路上にまで行列を作っていた。じりじりと肌を炙る陽射しは、「冷たいおうどんしか食べたくない」と主張していた直人の体力を一瞬で奪った。


「早く来い」


 先を歩いていたエイジは、歩みの遅くなった直人を振り向き、路地の真ん中で立ち止まった。そこは大通りから一本しか隔てられていないのに人気が全くなく、セミの鳴き声だけが澄み渡っていた。直人が追いつくと、エイジは軽く顎で指した。


「冷たい麺なら何でもいいだろ」


 直人はエイジの視線の先をたどった。そこにあったのは、『冷やし中華はじめました』の張り紙だった。直人は眉間に皺を寄せたまま、軒先に置かれたメニューへ手を伸ばした。外気やほこりで劣化したメニューのラミネートはベタベタしていた。


「うげ……」


 露骨に嫌悪感を浮かべる直人を無視して、エイジは店の引き戸に手をかけた。


「いらっしゃいませえ」


 厨房から飛んできた挨拶はカタコト特有の独特なイントネーションだった。直人はぐるりと薄暗い店内を見回した。昼時なのに店の中では、カウンター席で常連めいた男が一人、ビールを片手に餃子を摘まんでいるだけだった。電気代を節約しているのか、蛍光灯は三つあるのに一つしか点いておらず薄暗い。カチャカチャと食器を洗う音と、小さなテレビから流れる音声だけが、妙に浮いて響いていた。


「冷やし中華ふたつ」


 エイジは入り口に一番近い席に座るなり、水を置きに来た店員へ告げた。直人は小声で「まだ決めてない!」と抗議するが、エイジは「お、西高勝った」と直人の真後ろで流れる高校野球に目を奪われたふりをした。直人はむくれながら、水の入ったグラスを傾けた。山盛りに注がれた氷のせいで飲みづらい。


『―ここで、午後一時のニュースをお伝えします。まずは台風情報からですー…』

「台風?」


 直人は聞こえた単語に反応し、振り向いてテレビを見ようとした。だが、テレビは完全に直人の死角に入っていた。直人は諦めて前に向き直った。つまらない。手持ち無沙汰になったので、直人は壁に貼られたお品書きに目を向ける。


「マーボー……とうふ、ニラレバ……いため」


 知らない漢字は推測し、声に出してメニューを読み上げていた、そのときだった。


『―……続いてのニュースです。鹿児島市内できのう……』


 ガシャーン! 派手な音が店内に響き渡って、直人はびくっと肩を震わせた。あまりの騒音にカウンター席の男もこちらを振り向き、店員が「だいじょぶ!?」と奥からすっ飛んできた。


「すみません、手が滑りました」


 エイジは小さく頭を下げた。テーブルも床も水浸しで、割れたコップの破片が足元で散らばっていた。


「もう、エイジってばなにしてるの」


 テーブルの上に転がる氷をおしぼりで集めるエイジを見て、直人は頬が緩むのを抑えきれなかった。からかわれてばかりだから、エイジが失敗するのが面白くて仕方ない。


「気をつけてエイジ。ケガするから」


 直人は口元を手で覆いながら、「くくく」と笑った。エイジは無表情のまま、店員から渡されたダスターでテーブルの上を黙々と拭いていた。水拭きされたことで、埃っぽかったそこはかえって綺麗になっていた。


『――……今夜遅くからあすの朝にかけて、局地的な雷雨となるでしょう――……』

「雨ならお祭り中止かもね」


 エイジが吹き終わるのを見計らったようなタイミングで、店員は喋りながら冷やし中華をドン、とテーブルに置いた。


「お祭り?」


 直人は即座に反応した。これ、と店員が壁を指す。先ほどまで直人が読み上げていたお品書きの隣に、花火大会のポスターが貼られていた。真新しいそれは、この店の中で一番ぴかぴかと清潔感があった。開催日には、今日の日付が太字で記されている。


「エイジ」

「行かねえぞ」


 直人が目を輝かせた瞬間、エイジは素早く制止した。


「それ食ったら出発だって言っただろ」

「花火ぃー」

「花火なんて何が良いんだ」


 エイジは割り箸をパキッと割りながら「絶対ごめんだぜ」と言い切った。


「人は多いし蚊に刺されるし、暑いし湿気て蒸し暑いし、人は多いし混んでるし」


 エイジの性格は知っているつもりでいたが、直人が思っている以上に混雑が嫌いらしい。会話は終わりと言わんばかりに麵をすすり始めたエイジを見て、直人は唇を尖らせた。


「……毎年家族で花火大会行ってたんだけど、今年はほら、……行けないなって思ってたんだ」

「……」

「エイジが連れて行ってくれんなら、今年も花火見られるって思ったけどなあ。そんなに混んでるのがいやだったら、無理に連れてってもらうのわけにはいかないよなあ」


 直人はがっくりと肩を落とし、「エイジと花火、行ってみたかったな」と深いため息をついた。エイジは食事の手を止めないまま、ちらりとだけその様子を一瞥した。


 昼食を終えると、エイジは当初の宣言通りすぐに温泉地から出発した。夕方を過ぎてから、直人の機嫌はひたすらに右肩下がりだった。どうせ行先が決まっていないのだから、あのままホテルに泊まってゆっくりしてもよかったのでは。


「あーあ、花火大会行きたかったな」


 頬杖をついて窓の外をぼんやりと眺めながら、未練がましくぼやいたときだった。数百メートル先に橙色の灯りがちらついて、直人は目を凝らした。


「あの店に貼ってあったやつより、規模は小せえぞ」


 エイジは駐車場に入ってハンドルを切りながら、ぼそぼそと小さな声で言った。そんな言葉は耳に入らなかった。


「お祭りだ!」


 直人は思わず叫んだ。駐車場と隣り合わせの場所で連なる出店は目がちかちかするほど鮮やかで、どうしようもなく心を躍らせた。直人は目を輝かせ、車が停まった途端にシートからぴょんと飛び降りた。そのまま走り出そうと腕を振り上げた瞬間、後ろからシャツの裾を引っ掴まれてつんのめる。


「ちょろちょろすんじゃねえ」


 エイジは薄い体を引き寄せると、ぐっと直人に顔を寄せた。


「俺の傍を離れんな」

「分かってる! 子ども扱いするな」


 真剣な顔をするエイジに、直人は億劫めいた響きを込めてまぜっかえした。それよりも、風に乗って漂う香ばしいにおいや祭囃子に惹きつけられて仕方なかった。エイジは面倒くさそうに舌打ちをした。浴衣姿の男女や家族連れがごった返し、気温と湿度を上げていた。フランクフルト、焼きそば、ヨーヨー釣り、スーパーボールすくい。ずらりと掲げられた色んなキャラクターのお面は、使い道も思いつかないのに、なぜかほしくて仕方ない。その中でもひときわ目を引いたのは、ツヤツヤと光沢を放つルビー色のりんご飴だった。


「エイジぃ、あれ買って!」


 直人はだらんと落ちたエイジの手を掴みながら、目の前の屋台を指さした。エイジはその手を握り返そうともせず、すっと目を細めた。


「お前、言えば何でも買ってもらえると思ったら大間違いだぜ」

「これは絶対にほしいの!」


 お願いお願い、と直人は握った手をぶんぶんと上下に振りながら、エイジの目を見つめた。エイジは苦々しい顔をして、ポケットから小銭入れを出した。「まいど!」と男から受け取ったりんご飴は、ソフトボールほどの大きさだった。


「こんなデカいの、そんな小せえ口で食えるのかよ」


 エイジは呆れたように言いながら、直人に差し出した。直人は限界まで口を大きく開いてかぶりついたが、ほんの少ししか削れなかった。その様を見て、エイジは小さく鼻で笑った。

気温は日中より高くないとはいえ、じっとりと纏わりつくような湿気が体感温度を上げる。綿あめの甘い匂いや、じゅううと鉄板の上で焼けるたこ焼きの香ばしい匂い、屋台のいろんな匂いが混ざって、一帯に漂っていた。直人はりんご飴にかぶりつきながら、どこかから聞こえる祭囃子に誘われるようにふらふらと歩き出した。


「はあ……」


 家族で訪れる花火大会はいつもボックス席だったから、夜の屋台がこんなに楽しいものだとは知らなかった。自然と感嘆の息が洩れる。屋台やちょうちんが橙色の明かりで照らされて、夜だというのにすっかり眩しい。


「ぼく、金魚すくいやってかへん?」


 不意に声をかけられ、直人はびくっと肩を震わせた。ハチマキを巻いた強面の男はにこにこと人の良い笑みを浮かべ、「見てくだけでもええから」と手招いた。「金魚」という単語に惹かれて、直人はおずおずと屋台に近付く。


「うちのポイは破れにくくしてんねん。掬えたら掬えた分だけ持って帰ってええからお得やで」


 饒舌に話す男の言葉を右から左に、直人は青いプラスチックのタライを覗き込んだ。真っ赤な金魚が透き通った水の中で、窮屈そうにひしめきあって泳いでいた。


「せまそう」

「せやろ、助けたってよ。一回三百円」

「エイジ、お金……」


 直人は言いながら振り向いた。母親と手を繋ぐ甚平姿の子ども、きゃっきゃと楽しげにふざけあっている浴衣姿の男女、半被を着た中年の男たち。そこでようやく気がついた。エイジがいない。どこにもいない。額と首の後ろに、じわりと汗が滲む。それまで目が眩みそうなほどまぶしかった祭りの光景が、一気に色を失っていく。知らない場所で、知りあいもいない。どく、どく。心臓の鼓動がうるさい。とにかく元の場所に戻ろうと踵を返すが、そもそも元の場所とはどこなのか。どこに行けばいいのか。動揺と混乱に歩みを止める。その瞬間、ドンと後ろから衝撃が加えられ、直人はよろめいた。そのはずみで、右手に握っていたりんご飴が地面に落ちた。


「てっ、急に立ち止まんなや!」


 若い男は舌打ちし、直人を睨みつけた。聞き慣れない関西弁は直人にとって、言葉以上に攻撃的だった。足元に転がったりんご飴は巻き上がった土埃で汚れて、さっきまでの光沢をすっかり失っていた。心細さに拍車をかけて、焦燥感が恐怖に姿を変える。


「エイジぃー……」


 直人は絞り出すようにして必死で呼んだ。このままエイジに会えなかったらどうしよう。唇がへの字に曲がって、顔が熱くなった。そのときだった。


「……っ、おい」


 後ろ手に手首を引っ張られ、直人は振り向いた。


「ちょろちょろすんなっつっただろうが……」


 白い肌を夜眼にも分かるほど上気させたエイジが、息を切らして立っていた。エイジは「はー……」と深く息を吐き出した。被っていた帽子を脱ぎ、手の甲で額の汗の玉を拭う。直人はただ立ち尽くしていた。不安と安堵がまぜこぜで、感情の処理が追いつかなかった。きっとめちゃくちゃに怒られる。


「……次迷子になったら、首輪つけるからな」


 ぐず、と鼻を啜り上げる直人をしばらく眺めてから、エイジはそれだけ言った。直人は瞬きをした。怒られない。意地悪も言われない。エイジは持っていた帽子を直人の頭にかぶせると、掴んでいた手首を離そうとした。直人は反射的に、その手を握った。パーン。破裂音が響き、歓声が上がる。火薬のにおいが風に乗って、ふわりと鼻腔を掠めた。


「……」


 力なく落ちていたエイジの手が、ゆっくりと握り返してきた。その手のひらはいつも冷たいのに、ぬるくて少し湿っていた。


「花火始まってるぜ」


 エイジは手を繋いだまま、俯く直人に「見ないのか」と声をかけた。直人は黙ったまま、足元の石ころを爪先で蹴とばした。被せられた帽子がずれて、鼻の辺りまで覆い隠した。直人は地面を睨んだまま、エイジに手を引かれてのろのろと一歩ずつ歩いた。空を射抜く火薬が空で散って、僅かな間だけ静寂が訪れる。それが細切れに繰り返され、人々は歓声を上げる。まだ気持ちは高ぶったまま落ち着かず、直人が瞬きするたびに大粒の涙が零れ落ちた。祭りなんて嫌いだ。人が多くてうるさいだけで、何にも楽しくない。エイジの言っていた通りだった。そんなことを考えていると、不意にエイジが歩みを止めた。


「おい」


 直人からゆっくりと、骨張った手が離れていく。


「どれがほしいか言え」


 思いがけない言葉に、直人はようやく顔を上げた。そこは射的の屋台だった。三段に組まれた段には、駄菓子や人形、プラモデルの箱などが行儀よく並んでいた。立ちすくむ直人をよそに、エイジは硬貨と引き換えに銃を受け取った。


「……何でもいいなら適当にとるぞ」

「……」


 直人は唇をへの字に曲げたまま俯いた。返事をしない直人を一瞥し、エイジはコルク銃の引き金を引いた。コン。小気味いい音と共に、キャラメルの箱が倒れた。


「あと二発あるけど」


 普段と変わらない表情で、エイジは坊主頭を撫でつけた。直人は呆気にとられ、何も言えなかった。それをどう捉えたのか、エイジは無言で銃を構え直した。弾は二段目に置かれていた食玩に当たった。見覚えのあるパッケージだった。


「チュウレンジャーの……」


 気づいた途端、全身へ巡る血の流れが、わずかに速まった。エイジは「次で最後だ」と直人を見た。直人はごく、と生唾を飲んだ。


「……あれ取れる?」


 直人が指したのは、最上列の真ん中に鎮座する犬のぬいぐるみだった。倒せるものではないので、その隣の的が標的のようだった。十円玉ほどの大きさしかない。的屋の親父が「いくら兄ちゃんでもこれは難しいでえ」と慌てて割り込んだ。


「人気やねんけどな、当たった人おらんのよ」


 最後の一発やし、もっと当たりやすいやつ、ほらこのフィギュアとかどうや? 必死で誘導する親父を他所に、エイジはすっと目を細めた。直人は拳を握りしめた。次の瞬間、直人は的の真ん中を撃ち抜いた。的はぱたん、と棚から落下した。


「やった!」


 直人は思わず叫んだ。エイジはふんと得意げに鼻を鳴らし、少しだけ口角を上げた。直人は項垂れる親父から受け取ったぬいぐるみを小脇に抱え、キャラメルの蓋を開けた。正方形のかたまりを一粒、口の中へ放り込む。


「おいしい」

「よかったな」


 いつも通り興味のなさそうなエイジの言い方も、今は全く気にならなかった。直人は掌にもう一つキャラメルを取り出し、それをつまんでエイジに差し出した。


「あーん」

「……」


 エイジはネコのように大きな瞳を微かに丸くした。直人はニコニコしたまま、彼の反応を待った。エイジはしばらくの間唇を引き結んだままだったが、やがて観念したようにぱか、と口を開いた。直人はそこにキャラメルを入れてやった。ふたりしてむぐむぐと口を動かしていると、もう耳に馴染んだ花火の炸裂する音がこれまでに増して一層激しくなり、直人は空を見上げた。赤、青、緑、ピンク、金。鮮やかな大輪の華が、いくつも咲いていた。枝垂れては消える前にほかの花火が打ちあがり、幾重にも重なっては消える。乱れ打たれる花火はやがて止まり、人々の喧騒までもがなくなって、シン……と一瞬の静寂が訪れた。そのあと、あちらこちらで拍手が聞こえた。直人は余韻に浸りながら、感嘆の息を吐き出した。


「来て良かったなあ、お祭り」


 しみじみと呟いたのは本音だった。花火は綺麗だったし、エイジは格好良くて優しかった。腕の中のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。エイジは頭を撫でつけて「そうかよ。でももう行くぞ」と素っ気なく言った。



 祭り会場を後にしてから、車内にはしばらく平和な時間が流れていた。直人が一人で機嫌よく喋り、エイジはそれに相槌を打ったり打たなかったりした。


「さっきのエイジ、兄さんみたいだった」


 直人は座席で足をばたばたさせながら、うふふと微笑んだ。


「みんなエイジとぼくのこと、ほんとの兄弟だと思ったかもね」


 冗談めいた響きで口にしたそれは、本心からの言葉だった。彼と繋いだ手から伝わってきた体温が、ぽかりと空いていた心の穴を埋めてくれた。だってあんなに焦っているエイジは、今まで見たことがなかった。エイジの中で自分が特別な存在なのだと思えた気がした。しかしエイジはハンドルに手を添えたまま、興味なさげに言った。


「どうだかな」


 直人の期待に反し、あまりにつまらない返事だった。直人は黙ったまま口角を下げた。それまでピカピカと輝いていた夜景が、急激に色褪せていくのを感じた。


「……ねむい」


 直人は拗ねた表情で、ふてくされたように言った。声のトーンが変わったことに気付いたのか、エイジはちらりと直人に目をくれた。だがそれだけだった。


「寝てていい」


 エイジはそう言い、助手席のレバーに指をかけた。直人は咄嗟にその手を掴んだ。


「横になって寝たいの」

「だからシート倒してやるって」

「違う!」


 まだ声変わりしていない直人の高い声が、車内にキン、と響いた。エイジが眉間に皺を寄せた。直人はごまかすように「そうじゃない」と首を左右に大きく振った。


「シートじゃなくて、ベッドで寝たいの」

「……あと少し走ったら後ろで寝られるから、もう少し我慢しろ」


 エイジは前を向いたまま、ため息をついた。呆れているようだった。


「もう車やだ! 降りる!」

「ガキみてえなこと言ってんじゃねえよ」

「いつもガキっていうくせに、こんなときばっかガキみたいって言うな!」


 実際には直人自身、これではまるで幼児のようだと、頭のどこかで分かっていた。だが今はそれを恥じるよりも、なぜか無性に赤ん坊のように泣き喚きたい気持ちが上回っていた。


「うるせえ……」


 それまで辛抱強く直人を宥めていたエイジだったが、とうとう我慢できなくなったらしい。苛立ちを隠そうともせずに「ちっ」と舌打ちした。直人はその態度に、無性に悲しくなった。


「もう帰るっ」


 考えるよりも先に、言葉が口をついでいた。そこにはすすり泣きが混ざっていた。同じ姿勢を続けているせいで体は痛くて重くて、ひどく疲れていて、眠いのに座ったままじゃうまく眠れなくて、自分たちがどこに向かっているのか旅の期限も目的地も知らなくて、エイジは望むがままに甘やかしてくれなくて、それどころか怒っていて、父と母と丸一日以上話していなくて、兄とは二度と会えなくて。その瞬間、それまで滑らかに走っていた車に突然、急ブレーキがかかった。


「……ッ!」

「……簡単に言うんじゃねえよ」


 ガクッとつんのめり、直人は咄嗟に自分の体を守ったシートベルトを掴んだ。


「俺たちが今、どこにいると思ってんだ」


 エイジは唇をほぼ動かさないまま、低く吐き捨てた。青信号が、エイジを横から微かに映した。彼は能面のような顔をしていた。前を向く瞳は底知れないほど暗く、何の感情もない。指先が痺れ、小さく震える。


「どこって……」


 直人は膝の上で、固く拳を握った。肩に力が入り、呼吸が苦しかった。エアコンが体を冷やしすぎたのか、腹が痛い。カチカチとウィンカーのような音だけが、しんと静かな車内にやたらと響く。エイジが「あ」と呟いた。フロントガラスにぽつ、ぽつ、と雨粒が落ちてきた。それは一瞬のうちに、ざあざあ降りへ変わった。ハイビームに反射した雨は、アスファルトの道路へ無数の線を描く。ピカ、と白い閃光が弾けた直後だった。


「……っ!」


 叩きつけるような雷鳴に、直人はびくっと身を竦めた。近くに落ちてしまったのではないかと思うほど、大きな音だった。怯む直人を見て、エイジが「はあ……」と深いため息をついた。ハンドルに額をこすりつけるようにして、上半身をずるずると倒す。その体でクラクションが押されて、ブ――、と耳障りな音が派手に響き渡った。悩んでいる、落ち込んでいる、苦しんでいる。ブッブー! 今度は後ろの後続車から鳴らされたクラクションだった。エイジは緩慢に体を起こし、ハンドルを握り直した。自転車で走った方が速いのではと思う速度で、ゆっくりと車が動き出した。


「……今日はもう、この先の道の駅で止まる」

「……」


 直人は何も言わなかった。きっとエイジは、もっと遠くまで進むつもりだったのだろう。妥協は直人をおもんばかっての判断か、悪天候でそうせざるを得なかったのか。

 道の駅についてエイジが寝る準備を進めている間も、直人はむくれ続けていた。


「寝ろよ」


 いつまでも助手席に座って黙りこくっている直人に痺れを切らしたのか、エイジはマットレスに寝そべったままとうとう口を開いた。


「横になって寝たいって、あれだけ騒いでただろ」

「……」


 直人はしぶしぶシートを跨ぎ、ごろんと横になった。エイジに背を向けて寝転がると、すぐに室内灯が消された。車内が真っ暗になった。カーテンの隙間からピカ、と稲妻が光った。間髪入れずに雷鳴がとどめいで、直人はぎゅっと目をつぶった。眠ってしまえば関係ない。必死で先ほどまでの睡魔を呼び戻そうとするが、眠ろうと懸命になればなるほど意識は覚醒した。雷雨は止むどころか勢いを増すばかりで、屋根を打つ雨音がバチバチとやかましい。そのとき、突風でミニバンが大きく揺れた。


「ひっ」


 思わず悲鳴めいた声を上げてしまい、直人は慌てて口を押さえた。エイジに聞こえてしまっただろうか。そもそもエイジは起きているのだろうか。無神経なエイジのことだから、こんな嵐なんか関係なく寝てしまっているかもしれない。直人は手のひらで両耳を塞いだ。エイジは無神経だといっても、悪いやつではない。何だかんだ面倒見がよく、この二日間、とても大切にしてくれた。まるで本当の兄のようにふるまうから、つい甘えたくなってしまった。どこまで甘えることが許されるのか、不機嫌にまかせて試した。直人が懐いていても、エイジがどう思っているのかわからない。ずっとへそを曲げていたから、怒っているかもしれない。びゅーと風が強く吹き、雷がゴロゴロと地面を揺らす。直人は身を守ろうと、横を向いたままダンゴムシのように体を丸めた。自然の脅威にこんなに間近で晒されるのは、生まれて初めてのことだった。


「……怖いか」


 エイジが小さく問うた。起きていたらしい。直人は「べつに」と返したが、声は微かに震えていた。少ししてから、背後で衣擦れの音がした。何かと思う間もなく、右肩に体温が触れた。エイジの腕だった。重みが掛かって、とく、とく。心臓の鼓動を背中越しに感じる。


「車の中にいれば雷は落ちてこねーよ。心配すんな」


 直人が抵抗しないのを見て、エイジは小さな体を抱き寄せた。


「俺がついてる」


 耳元の声音は、泣きたくなるほど優しかった。直人は下唇を噛んで、胸の辺りに回された腕をぎゅっと掴んだ。


「……さっきはごめんなさい……」


 小さな謝罪は、車を穿つ激しい雨音に混ざって溶けた。エイジは直人の髪を撫でた。何だかぎこちない手つきだった。大きな手だなあ、と思う。直人より何回りも大きな、おとなの手だ。確か兄も、こんな手をしていた。あんなにたくさん撫でてもらったのに、兄の手の感触を完璧に思い出せないのが寂しかった。兄が去年の九月に死んでから、季節はもうすぐ一巡する。


「なおのことは、兄さんがずっと守ってあげる。何があっても味方だよ」


 ひと回りも年の離れた兄は口癖のようにそう言って、直人の頭を優しく撫でた。そのたびに直人は、くすぐったくて照れくさくて、どうしようもなく幸せな気持ちになった。兄の愛に絶大な信頼を寄せ、それが自己を肯定する原動力でもあった。

 棺桶を前に崩れ落ちた母とそれを支える父の姿は、まるで映画のワンシーンのようで、何だか現実離れしていた。留学先での水難事故だった。


「直人、兄さんに最期のお別れしやんせ」


 父に促されてふわふわした気持ちのまま、直人は御扉を覗いた。白くつるりとした顔には傷一つなく、まるで眠っているようだった。骨壺を見てもやっぱり兄のものとは思えなかった。

 ある日、春の暖かな陽気がどうしようもなく気持ちよくて、直人は和室でごろりとうたたねをしていた。もう少しで眠りに落ちようとしたときだった。


「なお」


 夢と現実のはざまにいた直人を、優しい声が呼んだ。この呼び方、この声は。まどろみから意識を呼び起こされ、直人はゆっくりと振り向く。目尻を下げた兄が、そこにいた。


「兄さん!」 


 やはり兄は生きていたのだ。直人はその体に腕を回すと、思いきり抱きついた。すううと鼻から大きく息を吸い込む。清潔なおひさまのにおいと、少しの汗っぽさ。無駄な脂肪のついていない、しっかりとした大人のからだ。


「みんな意地悪言うんだ。兄さんが死んだって」


 兄の胸に額を擦りつけながら、直人は頬をふくらませた。兄さんが死ぬなんて、そんなわけないのにね。ぼくだけは信じてたんだよ、兄さんが生きてるって。


「兄さんが死んだら、うちはどうなっちゃうの。お父さまもお母さまもぼくより兄さんのが大事だもん。ぼくなんかいたってしょうがないのに」


 弾丸のように喋っていた直人は、ふと口をつぐんだ。誰にも話したことのない本音は、言葉にすると鉛のように形を変え、心を深く暗く沈ませた。兄が二度と帰ってこない家。両親の関心が向けられない家。直人の居場所がない家。


「……ぼくが死ねばよかった」

「じゃあ一緒に死ぬか」


 直人はぱちりと瞼を開けた。ミーンミーン。ピピピピピ。セミと鳥が輪唱している。窓を覆う簡易カーテンの隙間から鋭利なほどまぶしい朝陽が洩れこんで、直人は眉間に皺を寄せた。


「起きたか」


 エイジはあぐらをかいた直人の横で、リュックの中身を整理していた。服やタオル、ジップロックに入った衛生用品のほか、ロープや万能ナイフといったサバイバル道具を几帳面に並べている。


「腹は?」

「……すいた」


 直人は寝ぼけ声で答えながら、のろのろと身を起こした。いつのまに眠ってしまったのだろう。外を見ると嵐はとうに過ぎ去って、雲一つない快晴だった。


「パンはそこにある」

「おにぎりがいい」


エイジは「ジャムつきのパンつってただろうが」と面倒くさそうに言った。だが直人は「おにぎりの気分なの」と首を横に振った。今ならどんなわがままを言っても聞いてくれる、そんな気がした。案の定、エイジはため息をついてドアを引いた。


「行くぞ」


 直人は「やった」と笑い、車からぴょんと飛び降りた。その先には昨夜の嵐で水たまりができていて、砂利混じりの飛沫がくるぶしに跳ねた。まだ朝早いというのにもう蒸し暑かった。エイジは直人の頭に、黒いキャップを被せた。直人は道の駅の自動ドアに駆け寄り、ボタンを押した。ウィーン。入口すぐのレストランは、『営業終了』の立て札がかけられて薄暗く、蛍光灯がはっきりと白く照らす売店エリアも人はぱらぱらとまばらだった。直人はきょろきょろと辺りを見回した。ご当地の名産品にお土産用のお菓子と、面白そうなものがたくさんある。


「おい、ちょろちょろすんな。また迷子になるぞ」


 エイジはお菓子コーナーに吸い込まれそうになる直人の腕を、がしっと掴んだ。連れて行かれたのは当初の目的通り、おにぎりやサンドイッチのある一画だった。しかし直人はそれよりも、横に陳列されているドリンクコーナーが気になってしまった。どこにでもあるお茶やミネラルウォーターに混じって、地域限定のジュースや見たこともない清涼飲料水が並んでいる。


「エイジ、これ……」


 直人は一番派手なロゴのペットボトルを手に取り、エイジに渡そうとした。しかしエイジはおにぎりでも直人でもなく、全く別の方を向いていた。


「どうしたの?」


直人は首を傾げて、彼の視線の先を辿ろうとした。だが直人の身長では、陳列棚に阻まれてよく見えない。アキレス腱をピンと伸ばして爪先立ちになる。ぐらぐらと不安定な視界がとらえたのは、濃紺の帽子のてっぺんだった。二人いるようだった。もっと背伸びをしようとしたとき、がくんとバランスが崩れた。


「わ」

「何やってんだ」


 エイジは目を細めながら、おにぎりをぽいぽいと適当に買い物かごに放り込んだ。ペットボトルのお茶数本と、直人が持っていたジュースもかごへ入れる。そして空いた直人の手を掴み、今度はふわりと握った。突然手を繋がれて、直人はぱちりと瞬きをした。足早にレジへ向かうエイジは、会計の途中でレジの横に並んでいた新聞紙をいくつか取り、まとめて会計を済ませた。


「何かあったの?」


 車に戻った途端、無言のまま、それでも明らかに急いでエンジンをかけるエイジを見て、直人はシートベルトを装着しながらとうとう訊ねた。


「……なんで」


 道の駅の広い駐車場を出てから、エイジはようやく口を開いた。


「なんでって……」


 直人はおにぎりのフィルターを外しながら、「うーん……」と言葉を濁して俯いた。エイジは直人が言葉を続けないとみたのか、片手でカーステレオを操作した。すぐに直人の好きな曲が流れてきたが、これまでのように夢中になることはできなかった。

 それからしばらくの間、車は一般道を走り続けた。直人の暮らす街とそう変わらない、都会ではないがほどほどに栄えた街並みをぼんやりと眺めながら、直人は時折エイジを盗み見た。エイジは頻繁にサイドミラーを気にしていた。直人は首を捻って振り向き、後続車を確認した。何の変哲もない、普通のファミリーカーだ。 


「今日はどこまで行く?」


 エイジは「さあな」と乾いた声で笑った。


「どこまで行けるかな」


 呟くような言葉は独り言のようで、返事をするべきなのか分からなかった。直人は前に向き直り、犬のぬいぐるみを膝の上で抱きしめた。

 これまでは昼食や夕食の時間が近くなると、エイジは「何食いたい」と直人に問うてきた。だが今日は正午を過ぎても、エイジは無言のまま運転を続けていた。普段であれば、遠慮なく空腹を訴えているところだ。しかしエイジの横顔には腹が減ったなどと悠長なことを切り出せないような、差し迫ったようなものがあった。直人の腹の虫が限界を超えてぐううと鳴ったのは、それから二時間近く経ってからのことだった。外はもう車も歩行者もまばらで、建物よりも田畑のが多くなっていた。エイジは運転席と助手席の間に置いていたビニール袋を、直人の方へぐいと押しやった。そこには朝買ったおにぎりがまだ二つ入っていた。直人は両手にとって、パッケージに記された具材を確かめる。右手は梅干し、左手は昆布。あまりそそられない。


「どっか食べに行かないの?」

「時間がない」


 エイジは端的に言い切った。直人は「ふうん」とだけ相槌を打った。


「梅と昆布、どっちがいい?」

「俺はいい、両方食え」

「食べたほうがいいよ」

「……」


 エイジはこくりと頷いた。見渡す限り、道はずっとまっすぐだった。フィルターを外すと、パリパリに乾いた海苔の青いにおいが指についた。


「ぼくにはもう、エイジしかいないんだから」


 直人はそう言って、破けないよう米に巻き付けたそれを、「ん」とエイジの口元へ差し出した。運転で両手がふさがっているから、代わりに食べさせてやろう。それだけだった。直人は反応のないエイジを覗き込んで、目を丸くした。これは誰だ。


「……エイジ?」


直人が呼ぶのと同時に、エイジは道の端に車を寄せた。ゆっくりとブレーキを踏み込んで停めると、そのままエンジンを切った。レストランに寄るのかと窓の外を見るが、辺りは民家しかない。


「……なあ、直人」


 そう名前を呼んだエイジは、いつも通りの顔に戻っていた。


「お前、まだ俺と来るか?」


 吸い込まれそうなほどに黒い瞳が、直人を見つめた。真っ直ぐにエイジを透かされて、視線を逸らすことを許されない。言葉の意味を考えるよりも先に、直人は自然と首を縦に振っていた。


「帰っても、ぼくの居場所はないから……」


 言葉にすると、胸の奥が引き絞られるように痛んだ。エイジは「そうか」と呟き、後部座席からリュックを手繰り寄せた。そして外に出て、助手席のドアを開けた。


「車は置いていく。荷物は邪魔になるから、お前は何も持つな」

「ランドセルは?」

「後で取りに来る」


 有無を言わさぬ口調だった。直人はぬいぐるみを小脇に抱え、差し出された手を取った。ひんやりと冷たく乾いた手に支えられ、直人は車を降りた。太陽は薄く雲が掛かっていて、きのうよりも酷暑は和らいでいた。

 ところどころ錆びたガードレールの内側を、二人は道なりに歩き続けた。車通りは時々あっても歩行者は皆無で、何だか不思議な感覚がした。まるでこの世界で、エイジと二人きりになったようだ。本当にそうなったらどうする? 歩く以外にすることのない直人は、頭の中で想像する。無愛想で意地悪なエイジと、死ぬまで二人きり。


――「じゃあ一緒に死ぬか」。


 あれが夢か現実か、今も分からない。ただ、あれは紛れもなくエイジの声だった。エイジがそんなことを言うだろうか? やっぱり夢か。そんなことを考えていると、おもむろにエイジが立ち止まった。ガードレールに凭れかけるようにして置かれた自転車を、じっと見ている。


「たらたら歩いているんじゃ、いつまで経っても進まねえ」


 エイジはそう言うや否や、自転車のスタンドを右足で蹴った。前後に軽くタイヤを滑らせ、ブレーキを握る。「大丈夫そうだな」と頷くと、自然な動作でリュックを前かごに放り込んだ。 


「乗れ」

「ぬすむの!?」


 声を上げる直人に、エイジは悪びれずに「人聞き悪いことを言うな」と言った。


「借りるだけだ」

「ぜったい返さないじゃん……」


 直人は苦々しい表情を浮かべながら、しぶしぶ荷台に座った。自転車がゆっくりと走り出し、慌ててエイジの腰に腕を回す。綿のシャツはおひさまのにおいに混じって、少し汗っぽかった。嫌ではなかった。

 徒歩より幾分かましではあるものの、自転車を漕ぐ速度などたかが知れている。直人は空を見上げた。目の覚めるような青空には、もくもくと綿あめのような入道雲が浮かんでいた。目の前で揺れるキャップを被ったエイジの後頭部を眺めながら、直人は口を開いた。


「エイジはなんでこの旅に出ようと思ったの」


 背中越しに投げかけた言葉は、空気が震えるようなセミの声に混ざって溶けた。返事の代わりに、はあはあと荒い息遣いが返ってくる。直人は「ねえ」とエイジの耳元に顔を近付けた。


「何でぼくを連れてきてくれたの」


 そう問うて、汗のにじむ背中に額をくっつけた。彼の体温はあたたかく、輪郭を持っていた。


「……可哀想だったから」


 エイジは乱れた呼吸の合間で、短くそれだけを言った。


「それって、どういう……」


 直人が聞き返そうとしたときだった。ぽつ、と水滴が直人の腕に落ちてきた。まぶしい太陽の陽射しがふと翳って、直人は顔を上げた。その頬を、大粒の雨が打った。


「夕立か」


 エイジは舌打ちをして、それまで被っていたキャップを直人の頭に載せた。空の底が抜けたように、雨はざあざあと穿ち始めた。Tシャツはすぐに水分を吸って、じっとりと重たく肌に張りついた。それまでひたすら道なりに走っていた自転車が、突然右へ舵を切った。


「うわっ!」


 重力が加わって、車体から滑り落ちかける。直人は必死でエイジにしがみついた。エイジは少し腰を浮かして、すべての体重をペダルにかけた。人の手が全く加わっていない獣道だった。ガタガタと自転車が激しく揺れる。


「えっ、エイジっ」


 直人はエイジに抱きつく腕へ、ぎゅっと力を入れた。体が密着して、濡れたシャツ同士がびちょりと湿った音を立てた。心臓の鼓動が重なっていた。雨粒が葉に弾かれて、ばらばらとあられのように降り注ぐ。鬱蒼と茂った木々が空と地上の境目を区切って薄暗い。これからの行く末を暗示しているかのようだった。そう思ったとき、ズキン。呼吸のリズムに合わせて、激しい頭痛に襲われた。ズキン、ズキン。直人は眉間に深い皺を刻んだ。頭が割れるように痛い。細かい枝が、袖からむき出しになっている皮膚を薄く引っかいた。


「……あ」


 それまで一心不乱にペダルを漕いでいたエイジが、不意にブレーキをかけた。自転車はキィ、と耳障りな音を鳴らして停まった。直人はエイジの背から額を離した。そこにあったのは、ひどく老朽化した小屋だった。


「雨宿りくらいはできるだろ」


 エイジは自転車を停めて降りると、直人に手を差し出した。呆気に取られていた直人は、慌ててその手を取った。屋根からは枯葉や小枝がぶらさがり、大きな蜘蛛の巣がいくつも張っていた。エイジはいかにも手作りといった風貌のベンチへパンパンに膨らんだリュックを下ろし、ごそごそと中を漁り始めた。直人はその様子を眺めながら、床に膝を抱えて座った。下着まで雨で濡れて、気持ちが悪い。不快感に眉を寄せていると、突然視界がパイル生地で覆われた。


「わ」


 濡れそぼった髪や首が、エイジによってわしゃわしゃと荒々しく拭かれる。タオルは新品のにおいがした。やがて頭にかけたタオルをそのままに、エイジの手が離れていった。直人は彼の顔を見た。その白い顔はまだ、汗と雨でびしょびしょに濡れたままだった。エイジは自分のことを何もしないまま、直人に「着替え」と言って服を差し出した。


「……エイジは優しいね」


 直人は座ったままそれを受け取り、ぽつりと呟いた。エイジは一拍おいてから、「やっと気づいたか」と軽口を叩いた。その口調も表情も、いつものエイジと何も変わらない。だから問わずにはいられなかった。


「……朝、なんで警察から逃げたの」


 背を向けて着替えていたエイジの肩が、ぴくりと動いた。直人は気持ちを奮い立たせるように、五本の指をぎゅっと強く握った。きっと聞かない方がいい。そう気付いていても抗えなかったのは、彼の善を信じたいからだった。直人は抱えた膝の上に顎を乗せた。


「本当はぼくの親に連れていくよう頼まれたって、うそなんだろ」


 目線だけをエイジに向けて、直人は小さな声音で言った。エイジはため息をつき、ゆっくりと直人に向き直った。


「……嘘じゃねえよ」


 そう紡ぐエイジの顔に浮かぶのは、無の感情だった。直人は唇を引き結んだ。


「……じゃあ、お母さまに電話して」

「……携帯は今ここにない」


 平然と言うエイジに、直人は「なんで……」と絞り出した。だが思い返せばこの三日間、エイジが携帯電話を手にしている場面を確かに一度も見ていない。この時代にそんなことがあるだろうか。不自然が過ぎないだろうか。混乱する直人を前に、エイジはさりさりと坊主頭を撫でつけた。悪びれる様子のないその落ち着き払った姿が、少しずつ動揺を鎮めていく。直人は「エイジ」と呼んだ。


「兄さんが死んで、ぼくがお父さまとお母さまに放っておかれてたから……だから連れ出してくれたんだろ」

「……」

「だからさっき、か、可哀想って……」


 絞り出すような声は、みっともなく震えていた。喉の奥が真綿で絞められているかのように息苦しくて、視界がぼやける。


「ほんとのこと教えて……」


 直人は三角座りのまま、膝をぎゅっと抱え直した。そのときだった。強張る直人の背に、冷たい手がそっと添えられた。


「……俺も同じだから」


 ぽつりと零された言葉に、直人は目を見張った。肩口に寄せられたエイジの顔には、一体どんな表情が浮かんでいるのだろう。確かめることはせず、直人は床の木目に視線を落とした。エイジを見るのが、なぜか怖かった。


「俺は愛人の子で、望まれて生まれた子どもじゃない」

 エイジは独白するように、淡々と語り始めた。


「親父は独身のとき、出張で行った東京で、キャバクラにいた女に手を出した。それが俺の母親だ。母さんが妊娠しても籍を入れなかった。俺が産まれてしばらくは東京に通っていたそうだが、ある日からぷつりと来なくなった。桜井家に相応しい家柄の良い嫁と結婚して、間にジュンが産まれたからだ。親父と連絡がとれなくなった母さんは、ショックで自殺した。だから俺は渋々引き取られたわけだ。あの家で俺の存在を望んでる人間はいない」


 ここまで一気に紡いで、エイジは口を噤んだ。彼の体温が肩と背中から離れ、直人はようやく振り向いた。黒く大きな瞳が、直人をまっすぐに見据えていた。


「お前ならわかるだろ、直人」

「……」


 直人は何も言えなかった。エイジの話は、聞いたことのない単語ばかりで、正直よく分からなかった。理解できたのは、エイジもひどく傷ついている子どもなのだということだけだった。エイジは黙って直人の反応を待っていたが、続く沈黙にやがて瞑目し、ゆっくりと薄い唇を開いた。


「……帰りたければ、今すぐ帰してやる」


 それは感情の読み取れない、静かな声音だった。気付けば屋根を打つ雨音は止まっていた。直人は二回、首を横に振った。


「いいのか?」


 今度は一度だけこくりと頷く。エイジの表情が僅かに緩んだ気がした。少なくともエイジは、自分のことを必要としている。家に帰っても、どうせ居場所はない。両親も心配するどころか、手のかかる次男坊の厄介払いができたとせいせいしているに違いない。それなら同じ境遇のエイジと一緒にいたい。


「ジュンくんはうらやましがるだろうな。あの人、エイジのことすごい好きだから……」


 うふふと微笑みながら、そう言ったときだった。ズキン。頭が割れるような頭痛とともに、ぐらりと視界が回転した。ズキ、ズキン、ズキン。


「うう……」


 直人は頭を抱えながら、じめりと湿った床に転がった。異様に喉が渇いて、胸が痛い。


「直人、おい」


 エイジの焦った声を聴くのは二度目だった。額に当てられた手は、いつもより一層ひんやりと冷たく感じられた。エイジのことは、この手と同じくらい冷たい男だと思っていた。だって本当に意地悪だったのだ。こんなに年が離れているのに、大人の目のないところで直人をからかっては玩具を取り上げ、直人が泣き出すと「その程度で泣いてんじゃねえよ、お坊ちゃま」と面倒くさそうに舌打ちした。かなりの意地悪をされてきた。エイジなんて嫌いだと思っていたのに、いざエイジが大学進学のために九州を離れるとなると寂しくて仕方がなくて、やっぱり泣いてしまった。


「絶対吐くなよ」


 意識がもうろうとする中で、エイジがそう言うのが聞こえた。どういう意味なのかと思ったら、ぐわんと体が持ち上げられた。すぐに吐き気が込み上げて、直人はごくりと生唾を飲んだ。目の前にあるのはエイジの背中だった。おぶられているのだと気づき、直人は額を擦りつけるようにして頭を預けた。ぎいいと軋んだ音とともに、陽射しが瞼を透かした。雨上がりの土のにおいに、なぜか泣きたくなった。直人を自転車の荷台に座らせたエイジは、柔らかな髪を掌でくしゃりと撫でた。


「落ちるんじゃねえぞ」


 自転車がゆっくりと動き出し、直人はエイジの腰に腕を回した。泥濘にタイヤを取られて、ひどく漕ぎづらそうだった。どこに行くつもりなのだろう。頭がとにかく痛い。本当はあのまま、床に寝っ転がっていたかった。


「もっと遠くまで行くの……?」


 ぐるぐると眩暈を覚えながら、直人は掠れた声で問うた。もっともっと、遠くまで行った方がいいと思った。二人のことを誰も知らない場所まで行って、秋になったら紅葉狩りをしたい。冬は雪だるまを作りたい。この自転車で、今すぐもっと遠くまで行くべきだと思った。返事はなかった。


 連れてこられたのは、古臭いフォントの文字が剥がれかけた、小さな診療所だった。患者は誰もおらず、医師は直人を見るなり、すぐに処置室のベッドへ寝かせた。頭に響く鈍痛に、直人は眉をぎゅっと寄せた。ひどい倦怠感だった。清潔なリネンは少し薬っぽい匂いがして、保健室を思い出した。


「保険証は持ってる?」

「ありません。慌てていたので……」


 薄いドアを隔てた待合室から、受付の女とエイジの会話が小さく聞こえた。行ったり来たりする意識の中で、直人は必死に耳をそばだてる。


「……関係は?」


 女はあからさまに訝しんでいる様子だった。冷房の音がごうごうと、やたらにうるさい。数秒の間が、永遠に感じられる。ごくりと固唾を飲む。


「……兄です」


小さい声だった。だが、はっきりと言い切った。


「……」


 直人はぎゅっと唇を引き結んだ。それは直人が何度も問うて、言わせようとしていた言葉だった。喉の奥が引き絞られるように苦しくて、じわりと視界がゆがんだ。ぼーん、ぼーん。壁掛け時計が低く鳴ったときだった。


「気分はどうだい?」


 軽いノックとほぼ同時に、引き戸が開いた。直人は慌てて手の甲で目元を拭った。


「気持ち悪ないか?」


 白衣を羽織った老爺が、「熱中症や」としゃがれた声で言いながら直人の額に触れた。皺くちゃの手だった。


「点滴が終わるまで一時間はかかるで、ゆっくり寝てると良いざ」


 声を出す代わりに、直人はこくりと頷いた。エイジはどこで待つのだろう。隣にいてほしかった。だが医師は、席を立とうとしなかった。


「……なあ」


 先ほどまでの明朗な調子と打ってかわった小さな声に、嫌な予感がする。


「……金森直人くん、だね?」


 耳元でささやかれた瞬間、時が止まった。


「なんで……」


 状況が呑み込めず、声が震える。


「ああ……けがは無いかい? 生きててよかった……」


 ひそめられた医師の声が弾むのに反比例して、ぶわりと一気に汗が噴き出す。


「ニュースでやってたよ、三日前から行方不明だって」


写真も出てたからねえ、顔を見た瞬間「あ、あの子だ」ってすぐに分かった。孫とおんなじ年ごろやで、ずっと気になってたんや。


「それで、一緒にいた男は……」


 そこまで言って、彼は首を横に振った。直人の頭に手をのせ、笑みを浮かべる。


「いや、まずは休もう……大丈夫。すぐ帰れるよ」


 医師の言葉は、全く頭に入ってこなかった。一方的に何か他愛のないことを喋った彼がようやく部屋から出て行って、手足がかたかたと震えていることに気付く。どうしよう。


「あの子と一緒にいた男は?」

「保険証忘れたって、家に取ってくるって……」

「ほりゃ逃げつんたんやざ!」


 受付の女と医師が、扉一枚隔てたところで言い争っていた。逃げたって、エイジが?処置室の隣から薄っすらとテレビの音が聴こえてきて、直人は咄嗟に身を起こした。


『……次のニュースです』


 途端に激しく頭が痛むが、構っていられない。壁に耳をひたりと当てる。


『……鹿児島市の小学二年生の金森直人くんは今月二十五日の下校中、何者かに連れ去られ、行方不明になっています。その後の捜査関係者への取材で、直人くんと一緒にいるとみられる少年が事件当日、自分の弟を歩道橋の階段から突き落としていたことが新たに分かりました。少年の弟は意識不明の重体です。警察は……』


「え……」


 全身の血の気が、引潮のように失われていくのを感じた。皺枯れた声が「おい、テレビ消さんか!」と鋭くたしなめると同時に、プツンと音声が途切れる。


「エイジが、ジュンくんを……?」


 声に出してみても、まだ理解できなかった。歩道橋の階段から突き落とした? エイジがジュンくんを?いったいなぜ? 意識不明の重体って? ジュンくんが死ぬ? エイジが殺そうとした? 頭の中がぐるぐるのぐちゃぐちゃで、ズキズキと割れてしまいそうだった。左腕に刺さった点滴の管を掴み、力任せに引き抜く。


「……っ」


 ぽたりと垂れた血が、真っ白なシーツを汚した。それに構わず、直人は壁に手をつきながら、陽の光が透ける白色のカーテンににじり寄った。大きな窓ではない。だが、子どもの体であれば通り抜けられる。


「んんー……!」


 直人は歯を食い縛りながら、固くさびついた窓のレバーを思い切り押した。軋む音を立てながら、鍵が外れた。ドアの向こうの大人たちに気付かれないよう、慎重に窓を開ける。エアコンで冷えた処置室に、夏のぬるい風が吹き込んだ。直人はスリッパを窓の外へ放り投げてから、身を乗り出した。窓枠に足をかけて、飛び降りる。どすん。


「う、っ……」


 着地でバランスを崩し、直人は地面に手をついた。日光を吸収したアスファルトに掌を擦りむいて、ひりひりと沁みる。額からぼたぼたと汗が伝う。目に入って痛む。ぐすりと鼻を啜り上げる。泣いたって仕方ない。花壇に落ちた茶色いスリッパを拾い上げて突っ掛ける。そのまま数歩進んだが、すぐに顔を歪めて立ち止まった。大人用のそれは、直人の足には大きすぎた。これでは思うように歩けない。レンガの上に、そっと揃えて置く。はだしになった足の裏は、地面の熱で焼けそうだった。診療所の前に回ると、そこに停めていたはずの自転車は無くなっていた。直人は走り出した。点滴のおかげか、体は少しだけ力を取り戻しているような気がした。

 田畑に囲まれる農道を、直人はひたすら真っ直ぐ走り続ける。正面から走ってきた軽トラックは、何事もなく通り過ぎる。その後ろに、トラクターが続いていた。直人は構わず前を向いていたが、それは直人とすれ違いざま、ゆっくりと減速した。


「おーい、靴どうしたよー?」


 ハンチング帽をかぶった男は窓から顔をのぞかせ、不思議そうに首を傾げた。ぎくり。動きを止める。余計なことを言うと、ボロが出る。この地に馴染まない方言だと、気付かれる。


「……だいじょうぶ!」


 直人は顔を背けたまま、声を張り上げた。これ以上話しかけられる前に、脱兎のごとく走り出す。放っておいてくれ。どうして放っておいてくれないんだ。構ってほしいときは、ずっと放っておいたくせに。この世界のすべてが敵だった。エイジだけが、必要としてくれたんだ。柔らかな足裏に小石が食い込んで、地熱に炙られる。ぜえぜえ。ぜえぜえ。乱れた自分の息がうるさい。直人は必死で記憶を辿る。確か自転車は、ずっと道なりに走っていた。途中で急に右へ曲がったが、見渡す限り、曲がれるような場所がない。もっと道の先だったのかもしれない、立ち止まるともう二度と走れないような気がして、直人は走り続けた。同時に頭のどこかで、思考することが止められなかった。エイジを見つけて、その先はどうする?『金森直人』という名前と一緒に、顔写真がニュースで公開されている。さっきみたいに人前に出れば、保護されてしまうのは時間の問題だ。これからはちゃんと顔を隠さなければ。ああだから、エイジは誰か第三者と話さなければいけないとき、大人用の大きな帽子をかぶせてきたのか。手をつないでいれば、年の離れた兄弟に見える。そうだ、エイジは手を繋いでくれた。まるで兄が弟の手を引くようだった。でも直人から繋ぐときは、握り返してくれなかった。


「……」


 直人は頭を振った。彼は気まぐれな男だ。それより早くエイジのところに行かなければ。さっきの医者はもう、警察に通報したに違いない。見つかればエイジは逮捕される。直人を誘拐し、ジュンを歩道橋から突き落としたから。


「きっと何のまちがいだ……」


 直人は自分に言い聞かせるかのように、荒い呼吸の合間で呟いた。エイジが弟を殺そうとするはずがない。エイジは不器用なだけで、本当は優しい人間なのだ。エイジなりに、ジュンを大切にしているはずだ。直人の兄のように。そこまで考えたとき、直人ははたと足を止めた。それまで続いていた茂みが、一画だけ穴が空くように途切れていた。覗き込んだそこは、斜面の両側が鬱蒼と茂る枝葉で覆われていた。一歩踏み出してみる。ぬかるんだ土が素足にぬちょりと絡んだ。直人は足元に目を落とした。そこに幾重にも刻まれているのは、細いタイヤの跡だった。この痕跡を辿ればきっとあの小屋に着く。エイジは診療所へ行くとき、いつも背負っているリュックを持っていなかった。取りに戻っているとしたら、今行けばギリギリ間に合うかもしれない。何度も自転車が通っていたから、道は拓けて進みやすかった。息を切らしたまま、また走り出す。早く行かなければ、エイジがいなくなってしまう。半袖から伸びる腕は細かい傷だらけで、靴を履かずに走る足は痛みで感覚が痺れ、アスファルトについた手は擦りむけて血が滲み、脱水して乾燥した唇はひび割れて、頭は痛いし息は苦しい。冷房の効いた部屋で、ゆっくり横になって休みたかった。でもそれよりもまた、あの車の狭いマットレスで、エイジと引っ付いて眠りたかった。


「……」


 直人はゆっくりと立ち止まった。小屋の前に、見覚えのある自転車が無造作に停められていた。一歩ずつ、ドアに続く階段を上る。押戸にかけた手は、指先までかたかたと小刻みに震えていた。直人は目を瞑り、大きく深呼吸をした。エイジがいたら、落ち着いて話しかけよう。そう決めて、音をたてないよう静かにドアを押した。釘打ちの屋根から陽射しが洩れ込む部分は明るいが、それ以外の場所は暗く陰惨としていた。直人は、部屋の隅へ視線を向けた。


「エイジ……」


 小さく名前を呼ぶと、それはゆっくりと振り向いた。エイジだった。


「なんで置いてった……!」


 直人は唇を噛み、その腰に飛びついた。ぎゅうと強く抱きしめて、綿のTシャツに顔を埋める。小屋の埃っぽいにおいが染みついていた。もう堪えきれなかった。


「ぼくを置いて、どこいくつもりなんだよ!」


 声はみっともなく震えていた。ぼろぼろと涙が頬を伝う。ううー、ううー。食いしばった歯の隙間から、嗚咽が漏れる。エイジはしばらく立ち尽くしていたが、やがて直人の肩に手をかけ、引きはがそうとした。


「……離せよ」

「やだ! 絶対はなさない!」


 直人は間髪入れずに叫んだ。一層強く、彼の腰に腕を巻きつける。


「エイジとずっと一緒にいるっ……!」


 それは半ば、悲鳴のような叫びだった。おもむろに、頭に彼の手が触れた。夏の暑さにあてられ熱を持った掌が、宥めるように直人をぎこちなく撫でた。不器用で不慣れな手つきだった。高ぶった感情が、少しずつ落ち着きを取り戻す。


「えい……」


顔を上げたときだった。直人はぞくりと妙な寒気を覚えた。ネコのように大きな目が、直人を見つめていた。その瞳は、真っ黒に塗りつぶされていた。


「……ジュンくんを歩道橋からつきおとしたって、うそだよね?」

 頭で考えるより先に、口が勝手に問いを紡いでいた。ぴくりとエイジの肩が揺れる。


「は……」

「さっき病院で、ニュースやってて……ジュンさん、意識不明だって……」


 続けた言葉は掠れて、今にも消えてしまいそうだった。直人は顔を伏せた。エイジの目を見るのが怖かった。彼の痩せた腹に、額をぐりぐりと擦りつける。さっきみたいに、頭を撫でてほしかった。嘘だと言ってほしかった。


「……ははっ」


 代わりに返ってきたのは、乾いた笑い声だった。


「死んでねえのかよ……」


 ミーン、ミーン、ミーン。エイジの呟きは、けたたましく鳴くセミの鳴き声に溶けて消えた。


「……え……」


どく、どく、どく。心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くて苦しい。そのときだった。


「……本当だよ」


前髪をガッと引っ掴まれ、直人は鋭い痛みに顔を歪めた。


「ッ、痛っ」


無理矢理に上を向かされた先は、底が見えないほど暗い双眸だった。


「ジュンを突き落としたのは、俺だ」


 直人はもう、身が竦んで動けなかった。目を逸らすことも許されない。ガンガンと響くような頭痛に襲われる。


「あー……うんざりだ。ジュンも、お前も」


 直人の髪を鷲掴みにしたまま、エイジは低く吐き捨てた。


「お前みたいな甘ったれのお坊ちゃま、数日一緒にいただけで反吐が出そうだったぜ」


軽く揺さぶられて、プチプチと髪の毛が抜ける。


「い、いたいッ!」


直人は悲鳴を上げたが、エイジは意に介さず話し続けた。


「こんなことなら、もっと早く身代金を要求しておくんだった。ああでも……お前の親は、もうお前に興味がないもんな……金、払わないかもな。こんなワガママで手のかかる息子なんかに」


ぼそぼそと紡ぐそれは、まるで独白だ。ふと口を噤んだエイジは、おもむろに酷薄な唇をゆっくりとつり上げた。


「……手のかかる弟で、『兄さん』はさぞかし大変だっただろうなあ」


 その声音は、棘だらけの揶揄を含んでいた。体がカタカタと震える。恐怖、怒り、絶望。どの感情がどれだけ混ざっているのか、自分でもわからない。だが、直人は視線を逸らさなかった。


「……うそだ」


 涙が零れ落ちないように目を見開いたまま、直人はエイジを睨みつけた。そのさまに、エイジはすっと双眸を細めた。


「……嘘じゃねえよ」


 露骨なまでに大きなため息をついたエイジは、躊躇なく小さな体を突き飛ばした。よろめいた直人は、煤けた木目の床に尻もちをついた。それを横目に、エイジは坊主頭を撫でつけた。


「残念だけど、俺がジュンを殺そうとしたのも、金目当てにお前を誘拐したのも事実だ」

「違う!」


 張り上げた声は、ひび割れて裏返った。大粒の雫がぼろりと頬を伝った。床に手をついて、ふらふらと立ち上がる。診療所から逃げるときに擦りむいた掌の傷は、度重なる摩擦で血が滲んで止まらなかった。痛みは感じなかった。


「エイジ、やさしかったもん」


 夏祭りの雑踏で直人の手を掴んだ彼の、その無表情に浮かんだ汗。雨風にがたがたと揺れる車の中で、後ろからぎゅっと抱きしめてくれた。守ってくれた。


「エイジまでいなくなったら、ぼくはどうしたらいいんだよ……!」


 縋りつくような吐露は、涙声に震えていた。直人は床に倒れ込んだまま、何度もしゃくり上げた。だってエイジはずっと優しかった。エイジといると、ぽっかりと空いた心の穴が埋められていくようだった。


「……お前は望まれた子だろ」


 それは、ほとんど聞き取れないほどに低く掠れていた。直人は体を強張らせた。望まれている? 何を言っているんだ。こんな落ちこぼれのできそこない、誰にも望まれていない。反論しようとしたときだった。


「さっさと殺すべきだった」


膝をついたエイジが、涙と鼻水でべちゃべちゃに汚れた直人の顔を力任せに掴んだ。右手に鈍く光るのは、万能ナイフだった。


「結局お前も、ジュンと同じじゃねえか」


 エイジは淡々と言いながら、直人の頬にナイフの刃を当てた。


「……ッ」


皮膚の薄い部分が、線を書くようにゆっくりと切り裂かれていく。そこだけが発火したように熱を持ち、直人は歯を食いしばった。


「……俺はお前とは違うということだ」


 顔から離れたナイフは、真っ赤な鮮血でぬらりと濡れていた。頬はジンジンと疼くように痛み、恐怖は指の先まで支配していた。エイジはゆっくりと立ち上がった。そのまま外へ続くドアの前まで行き、自然な動作で手をかけた。


「まて!」


 直人は制止しながら、体を起こそうとした。だが、四肢に力が入らない。頬から血がぽたぽたと流れ落ちて、丸い染みを作った。


「どういう意味だよ……!」


直人は這いつくばったまま、最後の力を振り絞って叫んだ。お前が言ったんじゃないか、『俺と同じだから』と。だがエイジは振り返ることなく、燦燦と陽光の降り注ぐ屋外へ出ていった。鈍く軋んだ音とともに、ばたん、と重たいドアが閉まった。


「ううう……うー……っ……」


 引き攣れる咽び泣きで、呼吸が浅く苦しい。酸素が頭に回っていないから、しゅわしゅわと脳の芯が痺れていく。一人になってしまった。ここがどこなのかも、家への帰り道も分からない。混乱の渦に飲まれそうになったのと、外で怒号が聞こえたのは、ほぼ同時だった。直人は顔を上げた。ここは鳥と虫の鳴き声だけがこだまする、静かな場所であるはずなのに、たくさんの人がいるようだった。腕の力だけを頼りに、窓の近くまで腹ばいで進む。がくがくと震える膝を立てて、無理矢理外を覗き込んだ。窓は薄汚れて曇り、見えづらかった。もやが掛かったような視界がとらえたのは、数人の男たちが誰かを取り囲み、地面に押さえつけている様子だった。見慣れた坊主頭。エイジだ。


「……!」


 そのとき、エイジの無気力な瞳が、こちらを向いた。直人は息を呑んだ。底が見えないほど黒い目と視線が絡んだような気がして、逃げられなかった。呆然とする直人の前で、エイジは後ろ手に手錠を掛けられた。左右から両脇を掴まれ、無理矢理に立たされる。その瞬間だった。エイジの口角が、僅かに上がった。


「……エイジ……」


直人は唇だけで彼の名前を呼んだ。エイジがこちらに気付いていたのかは分からない。直人がエイジを見たのは、これが最後だった。

 それからすぐに男たちが小屋の中に入ってきて、直人は保護された。外にいた人だかりは全員警察官だった。やはり診療所の医師が通報したようだった。


「ご両親も病院に向かっているからね。明日の朝には会えるよ」


 救急車の中で優しく言った婦警に、直人は「そんなわけない……」と嗄れ声で返した。

「お父さまもお母さまも、ぼくなんかいなくなったほうがいいって……」

「……これ見てごらん」


 婦警は「今日の朝刊」と言いながら、ポケットから四つに折った新聞の切り抜きを取り出した。


「直人くんに会えたら、真っ先に見せたいと思ってたの」

「【行方不明の少年の父親、『なんとしてでも帰ってきてほしい』】……」


 婦警はそう言いながら、横たわる直人が読めるように記事を広げて見せた。直人は無関心を装いながら、食い入るように一文字ずつ読んだ。


【――……報道陣の取材に対し少年の父親は、『何ものにも代えがたい大切な息子。なんとしてでも帰ってきてほしい。去年長男が事故で亡くなった後、夫婦揃ってきちんと息子に構ってやれず、随分と寂しい思いをさせてしまった。私は厳しい父親だったから、息子は怒られるかもと心配しているかもしれないが、絶対にそんなことはないと約束する。帰ってきてくれたら、今日まで無事に生きていてくれたことを褒めてあげたい』と話した。】


 文章の横には、マスコミに囲まれる父の写真が載っていた。婦警は直人の手を取って微笑んだ。


「直人くんが思っている以上に、大切にされているよ。おうちに帰ろう」


 直人は唇を引き結んだ。これ以上他人の前で泣いている姿を見せたくなかった。


 病院に到着したあとは、熱中症と頬の傷、その他諸々健康観察のため、個室に入院することになった。翌朝起きると、鹿児島にいたはずの両親がベッドの横に丸椅子を並べて座っていた。目を開けた直人を見た瞬間、母は直人を抱きしめた。


「なおくん……なおくん……!」


 母は大粒の涙を流し、何度も繰り返し名前を呼んだ。父は母の肩に腕を回し、何度も頷いた。そこでようやく直人は理解した。全部、考えすぎだったんだ。

検査やカウンセリングで目まぐるしく人が病室を出入りする中、警察もひっきりなしに直人を訪ねた。


「桜井は直人くんを誘拐した理由、何か話してたかな」


 これは何度も聞かれた質問だった。そのたびに直人は、同じ答えを繰り返した。


「ぼくは誘拐されてない。自分でエイジについていったんだ」

「頬の傷は? 桜井にやられたんだろう?」

「……おぼえてない」


 頑として譲らない直人に、刑事は当惑した顔でぽりぽりと顎を掻いた。子ども相手の事情聴取だから、強く出られないようだった。彼らは手を変え品を変え、何とかエイジを加害者とする話を引き出そうとした。だが直人が回答を変えることは、結局一度もなかった。エイジの罪をそのまま話すことは、エイジの思い通りになるような気がして、どうしようもなく嫌だった。

 そしてジュンは、二か月ほど生死を彷徨って、奇跡的に一命をとりとめた。


「よく覚えていないのですが、自分で足を滑らせたんだと思います」

「エイジはあなたを後ろから突き飛ばしたと供述しているんですが」

「僕の情けない失態を庇ってのことでしょう。兄さんは本当に優しい方なんです」


 こう主張して刑事を困らせているようだと、直人は父が母に話しているのを盗み聞いた。


「被疑者側は容疑を全部認めてるのに直人ら被害者側が否定してるから、どげんしたもんかち言ってた」


 その通りだった。直人は親の反対を振り切って嘆願書を提出した。花沢家はもっと大変だったそうだ。エイジを加害者と考えてすらいないジュン、家から犯罪者を出すわけにいかない父親、愛する息子を傷つけたエイジをより重い罪にすべく、密かに弁護士を雇った母親。その三つ巴で、連日揉めに揉めた。結局父親とジュンの利害が一致し、その甲斐あってか分からないが、エイジは保護観察処分で済んだ。ジュンが海外留学に行くのと入れ替わりで、エイジは成人するまでの期限付きで花沢邸に戻された。直人は会いに行きたかったが、さすがに両親に言い出せなかった。だから代わりに手紙を書いた。何通も出したが、返事は一度も来なかった。

 四十日間の夏休みが終わると、二学期が始まった。誰も事件のことに触れないから、これまでと何も変わらない日常が戻ってきた。 

 季節は何度も巡った。八歳だった直人は毎日が新しく楽しいことの連続で、充実していた。エイジに会うこともなく、その名前を聞くことすらなく、時間が過ぎていった。十針縫われた左頬の傷跡は年々薄くなり、比例するようにあの時のことを思い出す機会も減った。……夏の時期を除いては。





「……なんでお前を誘拐したのか……」


 エイジは首を傾げ、無作為に伸びた髪を撫でつけた。直人はこちらをまっすぐに見据えていた。大人になっても、意志の強そうな瞳は変わらない。


「お前は誘拐されたんじゃなくて、自分でついてきたんだろ」

「途中からは、な」


 エイジの冗談に、直人は即座に切り返した。


「途中からはぼくの意志でエイジと一緒にいた。だから減刑を望んだんだ」


 変声期をとうに過ぎた声音に、あの頃の幼さはもうない。エイジは「減刑ねえ……」とテーブルに頬杖をつき、彼の左頬に目を向けた。直人は視線に気づいたようで、頬に走る五センチほどの傷跡に触れた。


「大分薄くなったけど、完全に消すのは難しいって」


 あっけらかんとした様は、世間話でもしているかのようだ。直人は「それより」と向き直った。


「教えろエイジ。ぼくはそれを聞くために、今日までずっとお前を探し続けてきたんだ」

「それはそれは。わざわざ函館までご苦労なことで」

「大変だったぞ、居場所を突き止めるのは。桜井のおじさんもジュンくんも、十年以上お前と連絡を取っていないというんだから」


 揶揄めいた嫌味は、真正面から受け止められてしまった。エイジは「つまんねえ」と仰々しくため息をついた。


「ガキのお前は可愛かったな。ちょっとからかうとすぐにピーピーわめいて」

「茶化すな。真面目に話している」

「金森家の落ちこぼれのお坊ちゃまが、一丁前になったもんだ」


 エイジは吐き捨てるように言うと、薄い唇の端を片方だけつりあげた。


「あれからよっぽど親の躾が行き届いたんだろうな」


 毒をはらんだ棘だらけの、いやらしい言い方だった。記憶にある八歳の少年だったら、茹で蛸のように真っ赤になって声を荒げるはずだった。だが目の前の青年は、至って冷静なままだった。


「それが理由か?」


 眉間に皺を刻んだまま、直人はゆっくりと口を開いた。


「あのときお前は、『俺と同じで可哀想だから』と言った。自分と同じように親に見放されたぼくを連れて、二人で生きていこうと思ったんじゃないか?」


 エイジは黙ってコーヒーを啜った。直人はエイジを見つめ続けた。圧を掛けられても、エイジは無視を決め込んだ。一分ほどの沈黙が流れて、直人は焦れたように身じろいだ。手元のグラスに一度視線を落とした青年は、何か逡巡しているようだった。少しの間の後、直人は意を決したように顔を上げた。


「……ジュンくんを突き落としたのは、本当なのか?」


想定通りの質問だった。今度はすぐに、「ああ」と言葉を返した。


「そう言っただろ、十五年前に」

「なんで」


 すかさず問いが被せられる。エイジは鼻で笑い、胸ポケットから煙草を取り出した。


「お前はなんでも知りたがるんだな、直人」


 そう言いながら慣れた手つきでライターを擦り、煙草の先に火を灯した。ゆっくり吸うと、エイジは目の前の整った顔にふう、と煙を吐きかけた。白く苦い煙が、ふわりと直人を取り巻いた。だが直人は、表情ひとつ変えなかった。


「お前のことなど、基本的にいつも忘れているんだ。こう見えてぼくは結構忙しい」


 淡々と言いながら、エイジは直人の口元に手を伸ばした。二本の指で煙草をそっと抜き取り、流れるような所作で咥える。


「だが夏になると、どうしてもあの日々の記憶が蘇る。楽しかった記憶とつらかった記憶の両方だ。十五年も経つのに何をするにも付きまとって、迷惑なんだ」


 エイジは独白するように紡ぎ、紫煙をくゆらせた。人差し指でトントンと叩き、灰を落とす。そしてもう一口だけ吸うと、まだ長い煙草の先を灰皿に擦りつけた。


「だからエイジのことはなんでも知りたい」


 揺らぎのない、真っ直ぐな言葉だった。


「……お坊ちゃまのくせに」


エイジは首を反らし、天井を仰いだ。白い壁紙はヤニで黄ばんでいた。


 店を出ると清涼感のある風が吹き抜け、前を歩いていた直人の髪を揺らした。そこでエイジは初めて、直人の背が自分より高くなっていることに気が付いた。


「北海道はいいな、夏が涼しくて」


 直人はそう言いながら、リモコンキーを車に向けた。ピ、と電子音が鳴り、「乗れ」とエイジに促す。エイジは言われるがまま、助手席のドアに手をかけた。ダッシュボードには、レンタカー会社の名前が記されたファイルが置かれていた。


「免許、いつとったんだ」

「高三の春休みだ。お前もそうだっただろう」


 直人は当然のように言った。エイジは何も言わなかった。車はゆっくりと走り出した。運転席から顔を背け、窓の外に目を向ける。流れていく景色を見ていると、妙な感覚に包まれた。


「どこに向かってる?」


 エイジは気づけばそう口にしていた。カーナビには何の目的地も設定されておらず、車は広い車道をひたすらに進んでいた。直人は「そうだな」と白々しく考える素振りをしてから、緩慢に口を開いた。


「宗谷岬とかはどうだ。この前は、半分も行かないうちに終わってしまったから」


 エイジは僅かに目を見開いた。直人の口角は、少しだけ上がっていた。


「……北海道なめてるだろ。一日じゃ着かねーぞ」

「つまり時間はたっぷりあるんだな」


 直人はアクセルを踏み込みながら、明るく言った。


「聞かせてもらおう。どうして僕を誘拐したのか」


 なあエイジ。直人が喋るのに合わせて、左頬の傷が動いた。その横顔は端正で、記憶の中の丸みは削げ落ちていた。


「もう逃がす気はないからな」


直人の言葉に、エイジは思わず「ははっ」と笑った。笑いが止まらない。


「好きにしろよ」


それだけ言うと、エイジはヘッドレストに深く頭を預けて目を瞑った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 当時は子供だった直人が大人になってエイジと改めて対峙する描写があり、それが読者の目線と重なるというのがまたとても面白い趣向でした。 そんな直人の彼に対する反応も15年前の二人の会話だったり…
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