幕末花魁心中語り
浅草寺の鐘が鳴る。
目覚めた客に羽織りを着せ、なよりと肩に縋りつく。
「ほんに時が経つんは早いでありんす。また会いに来ておくんなんし」
いつもの通り、いつもの言葉。
いつかは駄目になって捨てられる。そうなるまでの金太郎飴。
無惨なりとは思わない。それが金で売られた道具の定め。
同じ定めの禿を見ても、もう何も感じない。
ただ一つ、私が人に戻る時がある。
暮れ六つ。
三味線のお囃子を聞きながら、格子の向こうをじっと見つめる。
不思議と潮の香りがするあなた。
もう一度会えたなら、その時こそはあなたにこれを渡したい。
手元の小箱を握りしめると、じくりじくりと小指が痛む。
待ちぼうけ。待ちぼうけ。この痛みすら愛おしい。
あなたが「来い」と言ってくれたなら、足抜けだってしてみせよう。
でもそこまでは望まない。
私が人である証。これをあなたが持ってくれてるだけでいい。
心に小さな灯がともる。大事な大事な待ちぼうけ。
それも、意地の悪い忘八に呼ばれるまでのこと。
声がかかれば、また私は道具に戻る。
何も思わず、何も感じず、人の形をした道具。
笑い顔も泣き顔も、ただただ客を喜ばせるために作るのだ。
「その手は一体何事だい。妬いちまうね」
「主さんに渡そうと思ってたんでありんすが、わっちはどうにもおっちょこちょいで、ふいっと転がって消えてしまったんでありんす」
「そうかそうか。ならばいっちょ探してやろう」
襟から滑り込む客の手に、わざとらしく嬌声を上げる。
あなたを汚すような嘘も、道具の私なら造作も無い。
ただ、じくりと痛む小指があなたをほんの少し思い出させ、あぁ、この手があなたであったなら、とせんなき思いがふと胸をよぎるのだ。
「火の用心さっしゃいましょう」
「火の用心さっしゃいましょう」
カン、カン。
拍子木と一緒に退け四つを告げる火の番の威勢の良い声がする。
今日もあなたは来なかった。
明日こそは来てほしい。
そんな願いを、私はあと何度出来るのか。
軒先に咲く椿の花は、もうすぐ散ってしまうだろう。
【幕末花魁心中語り 終わり】
切指:心中立ての一つ。遊女が指を切って客に渡す。あなたに本気だ、という意思表示。