1565年義信無惨
1564年。
義信は苛立っていた。
父親の晴信との諍いが原因だった。
今川との誓書を違えて、駿河侵攻に対外政策の舵をとろうとする晴信。
今川との誓書を尊守し、駿河侵攻を食い止めようとする義信。
戦国時代、誓書は一時しのぎの紙くず同然だった。
敵が味方に、味方が敵に簡単に裏返った。
同盟が、従属が、条約が破棄されては、蒸し返された。
子供は人質、女子縁組は同盟の証、裏切ったら見せしめに処刑。
これが戦国時代だった。
「だからこそ尊いのだ」
そう義信は断言する。
今川義元は桶狭間で死んでいない。
今川家は未だに健在である。
いまこそ今川家との関係を密にすべき時だ。
俺の正室の嶺松院は今川家出身ではないか!
娘のあさひ(園光院)と息子の彦太郎(信義)はどうするのだ!
こうして事ある毎に、父・晴信と駿河侵攻で衝突した。
「武田家の総帥が、もし駿河侵攻を命じたら、何とする気だ!」
「義信は反対です、反対を貫きます!」
「反対は許さぬ!」
「ならば義信を斬って、駿河に向いなされませ!」
もはや決裂である。
それを浅信は廊下で聞いていた。
最後の最後まで望みを捨てなかった浅信。
だがもはやこれまで。
浅信の背後には信親が畏まっていた。
「如何なされますか」
「決まっておろう」
「はっ」
2人の目が妖しく光る!
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翌日。
つつじヶ崎館の某一室。
親今川派の家臣が集まり密談が始まった。
「ひそひそ」「ひそひそ」
「待ったらんかーい!」
ガラッ。
浅信が叫びながら部屋に乱入してきた。
飯富兵部「あ、浅信さま!」
家臣A「ちいっ」
家臣B「露顕したか!」
家臣C「見張りはどうした!」
家臣たちの反応は険しかった。
見張りは猿ぐつわで縛られていた。
アサシンのあだ名は伊達ではない。
「静まれいっ、静まらぬか!」と浅信。
「お前達の考えはもっともである」
「だが逆心は許されぬ、唯一の解決策は」
こう言って浅信は、親今川派の家臣をうまく手懐けたのである。
その翌日、晴信が奇想天外な妙案をぶち上げた。
晴信「義信は今川家に養子に出す」
家臣一同、ポカーンと口が開いたままだ。
みんな、埴輪みたいな顔になっている。
「親今川派の家臣が義信の世話役として同行する」
家臣一同、ポカーンと口が開いたままだ。
みんな、埴輪みたいな顔になっている。
1565年10月。
義信の放逐が決定した。
すでに過去に、父親の信虎を今川家に蟄居させた晴信。
今度は息子を今川家の放逐したとて、何も不思議ではなかった。
家臣A「いいのだろうか」「武田の総てを知っている嫡男ではないか」
家臣B「古いなあ、お館様は父親でさえ今川に放逐されたお方」
家臣C「信虎様の時は父親だったから、甲斐そのものを渡したようなものだぞ」
家臣達の不安はもっともだった。
しかし、今川国主、今川義元の妻(定恵院)は晴信の姉「さくら」である。
父・信虎に続いて嫡男・義信も駿河入りする事になる。
それはかつて信虎放逐の際に通った同じ道筋である。
駿河・今川館。
「ふっふふっふ、来たわね」と定恵院。
「さ、さくらお姉ちゃん!」と義信。
「よう来たのう義信」と信虎。
「?」と義信。
「無理よ、3才の時から会ってないんだから」と定恵院。
「の、信虎様!」
義信は平伏した。
「義信様」「義信様」と大勢の声。
今度は義信が驚く番である。
そこには信友を含む信虎の息子がずらりと並んでいた。
駿河に渡った信虎と側室の子供達である。
定恵院の2人の従姉妹も顔を出したり引っ込めたり。
「我らが役目は今川義元の欲目を甲斐信濃に向けさせない事」
「甲駿条約を末永く遵守するよう仕向ける事」
武田の根っこがここでは深く今川家に根差していた。
今川義元は田楽桶狭間から帰還して以来、療養生活が続いている。
傷はすでに癒えていたが、心に傷を負っていた。
定恵院はなんとかして内助の功を尽くそうとした。
だが、上洛を織田信長に遮られた時、命運は尽きていたのだった。
今川義元は好々爺になってしまったのだ。
だが、駿河国を潰すわけにはいかなかった。
内部分裂も反乱も下克上も許さない体勢が必要である。
その為の武田信虎と姉の定恵院(さくら)、今川義元の嫡子氏真、義信である。
彼らが「今川コントローラー」となるのだ。
これにより武田晴信の駿河侵攻は自然消滅した。
西上作戦の前にゴタゴタは起こしたくなかった。
また義信放逐により、武田一門は上手くまとまり始めた。
これは信虎追放の時と同じだ。
あえて言おう。
義信、死んでない。
定恵院、死んでない。
義信が去った後、ある秘匿兵器が誕生する。
それは戦場の様相を一変させるものだった。
次回は1571年レパントの海戦です。