1559年永禄の大飢饉
1559年は梅雨の季節だというのに太陽の光が殊の外強かった。
雨が降らず、水田がひび割れ干上がり始めた。
疱瘡(天然痘)の流行があったのもこの年である。
北条綱成はにっこりと微笑んでいた。
第三次川中島釣り大会(1557)では準優勝だった(一位は長尾景虎)。
その時に奇妙寺農業開発部を見学させてもらったのだ。
かぼちゃ、とうもろこし、じゃがいも等々……。
食べてみると、これがまた、しこたま美味かった。
農業機械も見せてもらった。
1)畑、田圃を耕す機械(ブラウ、ロータリー)。
2)農地の土を砕く機械(ハロー、パッカー)。
3)肥料や堆肥を撒く機械(ブロードキャスター、マニュアルスプレッダー)。
4)種まき、植付けの機械(プランター、シードドリル)。
5)田圃の土壌、作物管理の機械(カルチベータ、畝たて機)。
6)農薬散布の為の機械。
7)収穫のための機械(コンバイン、バインダー)。
効率もさることながら、作業への負担の軽減が著しかった。
土壌の天地返しから堆肥やり、種まき、畝立て、農薬散布、収穫まで全て機械だった。
「こ、こんなことが……」と綱成。
鉄は非常に貴重で高価な金属ではなかったか?
刀や鎧にこそ使われるべき身分の高さを示すうんぬん……。
甲斐信濃は未来に生きているのだろうか?
「古いですぞ、綱成どの」
現れたのは武田家三男、武田浅信であった。
「これは浅信どの」と綱成。
「今は、5軒に1式づつ、揃えて奇妙寺が貸し出していますよ」
「へあはおぅえ!」と綱成は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「どうです?北条家でも、いっちょういかがですか?」
武田浅信は本気なのだろうか?
石高は国力にそのまま反映されるのだ。農業改革は機密事項なのでは?
それを「いっちょういかがですか」と薦めているのである。
北条綱成は訝しんだ。
その裏には多分、とてつもない技術力が隠されている。
農業改革はもはや秘密でない何かが……。
「ちょうど5000セットほどだぶついている農業機械をレンタルしますので」と浅信。
「ほぇへへええ!」と綱成は素っ頓狂な声を上げてしまった。
「手土産にお持ち帰りください」
「なお、分解するとアフターサービスは受けられません」
「分解しても分かるようにネジ部にネジロック塗布してますから」
レンタルはいい、だが分解して解析、複製は許さんという訳か……。
では、見せてもらおうか、甲斐国農業の技術力とやらを!
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1557年、こうして北条綱成は北条氏政の元へ農業機械を持ち帰った。
1557年、相模国で大規模農業が推進され、かぼちゃ、じゃがいも、とうもろこし等の作付けが始まる。
1557年、大収穫が得られ、国策として15000セットの農業機械の追加レンタルが決まった。
1558年、20000セットの農業機械で大規模農業が開始される。
1558年、さらなる大収穫が得られ、奇妙寺の低温貯蔵庫のシステム導入による備蓄が始まる。
1559年、永禄の大飢饉が始まる。
しかしかぼちゃやじゃがいも、さつまいもの巨大農場ではすくすくと苗が育ち、蔓が伸びていた。
夏には干ばつが始まり、水田は干上がり、畑は枯れた。
だが巨大農場は農業揚水ポンプとスプリンクラーで守られていた。
じゃがいも収穫は5-7月で大豊作、とうもろこしは7-9月で台風の被害を受けたが豊作だった。
他の作物もおおむね豊作で、飢饉が始まる秋冬に向けて、作物の大量備蓄が行なわれた。
じゃがいも、さつまいもは長期保存が可能だ。
とうもろこしは乾燥させて、とうもろこし粉で備蓄された。
これを飢饉で稲作が不可能な時期の食料とするのである。
ポテチ、大学イモ、コーンミールブレッド等々……。
サトウキビから精製された砂糖があり、牛乳から分離されたバターがあった。
牛の放牧は甲斐国から進められていたが、牛の成長はまったりであった。
牛乳及びバターは甲斐国からの輸入品である。
バター生産には遠心分離機が必要だが、これも奇妙寺からレンタルされていた。
焼いたり、煮たり、炒めたり、ほぼそのレシピはなんでもある状態だった。
もう飢饉で飢える事はなかった。すでに昔話である。
奇妙寺の支援による技術改革は留まる所を知らなかった。
飢餓は去り、病気は治り 傷は癒える。
産業は増大し、商業は活発化し、流通は高速化した。
漁業も、農業も、新規の畜産業もどんどん活発化した。
漁業は刺し網、底引き、定置網。
農業は土起こしから種蒔き、収穫までの機械化。
畜産は放牧と舎飼いである。
牛も馬も羊も鶏もどんどん増産した。
すべての畜獣は徹底した管理下に置かれた。
伝染病の危険である。
特に豚と鶏が要注意だった。
かつては畜舎と住居は一軒のL字型の住宅を構成していた。
これを最低200m切り離し、感染源としないようにした。
<詳細は1460-1500年ワクチンの項を参照されたい>
こうして、北条綱成はにっこりと微笑んでいたのだった。
なお、疱瘡(天然痘)の流行に対しては、1557年に奇妙寺が種痘を持ち込んだ。
足掛け2年を掛けて、北条家の支配地に種痘を繰り返した。
その結果、疱瘡の流行は収まってしまったのだ。
「これでは甲斐国に足を向けて寝れませんな」と北条綱成。
東国に不思議な雰囲気の風が吹き始めていた。
次回は1560年田楽桶狭間です。
今川義元登場。