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Takeda Kingdom!甲斐国は世界を目指す  作者: 登録情報はありません
第8章
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1553年アルゼンチンの危機

1554年猿之介(木下藤吉郎)を投稿の予定でしたが

1553年アルゼンチンの危機に変更致します。

ご了承願います。

1541年アルゼンチン。


 アルゼンチンのブエノスアイレスから、現地インディオがスペイン人を追い出した。

かれら避難民は、隣国パラグアイの首都アスンシオンに脱出する。


アスンシオンは当時、南米植民地化の拠点であった。

本国(スペイン)人と現地混血(クリオーリョ)による中米奥地の植民地化の橋頭堡である。


 1533年以降、奇妙寺はインカ帝国にかかりっきりで、アルゼンチンまで手が回らない。

うっちゃらかって(甲州弁:放って)おいたのだ。


1553年。


 インカ帝国キーミョウデール部隊が編成され、アンデス山脈を越山してブエノスアイレスに向かった。

 奇妙寺接触以前のワイナ・カパックの時代の遠征でアルゼンチンは征服され、属州となっていた。


公用言語はケチュア語であり、インカ帝国と同じである。

しかしインカ帝国の権威はあまり及ばず、相当な辺境の地であったようだ。


スペイン人もこの地を命を懸けてまで奪おうという気はなかったようである。

それにはこのような理由があった。


①征服すべき古代文明が無い

②それゆえ奴隷に出来る原住民がいない

③荒れ地と草地だけで、そのままでは農業に向かない

④金もなければ銀も産出しない地層群しかない


④については上陸した沿岸部に無かったというだけだった。

 アンデス山脈西北部及びパタゴニア南部に、金、銀を含む銅の大鉱床が発見されている。


この広大な地域にインディオが34万人しか住んでいなかった。

当時の日本の人口は約1300万人。


アルゼンチンの面積は278万平方キロ。

日本の面積は37万平方キロ。


日本の8倍の面積に日本の40分の1の人口密度である。

誰もいない広大な、そして不毛の大地だった。


ちょうどスペイン人が隣国に逃げ出したのが幸いした。

奇妙寺はパラグアイ川を国境として定めることにした。


国境には目印が必要である。


支流ピルコマジョ川と本流パラグアイ川に沿って壁を築き始めた。

あろうことか、全長2800kmの長城である。


1日1kmでも2800日掛かる大工事である。


石灰石はアルゼンチンでも産出する。

これでコンクリ擁壁を作るのだ。


「チョットマッテクダサイ」

流暢な日本語である。

現地人の奇妙寺僧形であった。


「打チ放シノコンクリ壁ハ美シクナイデス」

「我々ニ任セテイタダキタイ」


彼らはアルゼンチン斑岩の丁場(石材を採掘する石切場)に連れて行ってくれた。

色ムラのある石材だが、組み合わせによっては趣のある色合いを醸し出す。


この斑岩を利用してモザイクパターンを作る。

ごれをコンクリ擁壁に転写して模様を描くのだ。


こうして趣向を凝らした防護壁が作られていった。

これには侵略に来たスペイン人もぶったまげた。


スペイン兵卒A「きれいだなあ~、この壁石」

スペイン兵卒B「何か荘厳な感じがするね」

スペイン兵卒C「イタリア斑岩は柔らかいコントラストが主流だが、アルゼンチン斑岩はメリハリがあって美しいなあ」


こうして壁を眺めながら、特に突破するでもなく、にらみ合いが続いた。

現地人だけならともかく、奇妙寺がしゃしゃり出てきたのである。


インディオに負けて泣きながら隣国に脱出した小隊である。

もはや、どうする事も出来なかった。


不毛なにらみ合いが続いて数ヶ月。

スペイン人小隊にだらけたムードがただよい始めた頃の事だ。

行商人が隊の駐屯地に来るようになった。


場所も、パラグアイの首都アスンシオンの目の前、パラグアイ川の向こう岸だ。

きれいな壁石を観に市民まで繰り出してきた。


人だかりを当て込んで、自由市が立つようになった。

「あー、ダメダメ」と見張りの兵。

「市なんか立てたらダメだろ」


なんか棒読みみたいな感じである。

特に戦意もないので、ほったらかしになっている。


自由市が立つと屋台の食べ物屋が店を広げだした。


名物のアサードはバーベキューだ。

エンパナーダは卵と挽肉の揚げ餃子。

ウミータはトウモロコシとタマネギ、トマトの蒸し料理。

ロクロはトウモロコシと肉のシチューである。


遠征隊は大体が本国で食い詰めた連中であった。

植民地で一旗上げようと気宇壮大に乗り込んできたまでは良かった。


ところがそこには既にキーミョウデール部隊がいた。

勝てない事は過去の事件で実証済みである。


パラグアイの首都アスンシオンでスペイン人はまったりとしてしまった。

先遣隊は現地の女性とよろしくやっている。

ちゃっかり子供まで出来てしまった。


本国に帰還しても、居場所はどこにもない流れ者の彼ら。

ここに建国して永住しちゃう?


そんな考えに揺れ動くスペイン人たちであった。


一方、壁の内側のアルゼンチン領内には畜産業が始まっていた。

どこまでも広い草原には、牛や馬が持ち込まれて放牧された。


周年放牧だ。

育成舎(畜舎)などを作らず、春夏秋冬、放牧しておく粗放な放牧である。


周年放牧によりコストも凄く低い。

勝手に繁殖して、ドンドン増えていく。


 分娩間隔と空胎日数の合計は(350から400)+(80から180)=(430から580)日である。

最初の1000頭は9年で11000頭に繁殖していた。


こうしてくると牛肉や牛乳、牛皮の輸出や加工品の販売が視野に入ってくる。


奇妙寺の低温輸送技術はここでも大活躍であった。

奇妙寺の冷凍肉運搬船が、安い輸出品として、スペインに運搬した。


安い半製品も本国のスペインに輸出したので、本国では大評判である。


パンパ地域でのトウモロコシ、大豆、小麦の作付けも始まった。

年間降水量は800-1000ミリあり、パラグアイ川の三角州地帯に当たる。

有機物の蓄積も多く、地力がある。


この肥沃なパンパ地域をスペインの小隊は見逃していた。

ビリヤード台に例えられるどこまでも平坦な大地であった。

土壌工学に(うと)いため、見逃していたのだ。


変わり種として、ヒマワリを作付けしての油糧種子生産も始まった。

低温生絞りのひまわり油はオレイン酸やビタミンEなどが豊富に含まれる。

これも本国スペインに輸出され、大人気であった。


スペイン王フェリペ2世はこういうのが面白くない。

自国の生産品がゆっくりと値下がりを始めたからだ。

スペイン人はしまったと思ったが、すでに後の祭りである。


 奇妙寺の優れた農機具、肥料、農薬が無ければ、100年経っても草地と荒れ地だったろう。

西欧の技術では開墾はまだ無理だったのだ。


こうしてアルゼンチンの危機は去った。

以降インカ帝国の属州として栄える事になる。


1540年においてスペインの新大陸の領土は

①キューバとその諸島

②ベネズエラ

③パラグアイ

④グアテマラ

⑤ホンジュラス

⑥ニカラグア

⑦コスタリカ

⑧パナマ

である。


後日、③パラグアイはキーミョウデールの援助もあり独立した。

「遠い親戚より近くの他人」ということわざがある。


遠い祖国より近しいキーミョウデールである。

スペイン遠征隊はパラグアイ人となった。


スペイン王フェリペ2世はこういうのが面白くない。

他の植民地の動静にも要注意が必要だ。

植民地が独立なんてとんでもない。

「291年早いわ!」

「291年早いわ!」

これはポルトガル領ブラジルの事。

1532年植民地化、1823年独立。

291年間植民地だった後に独立した。

次回は1554年猿之介(木下藤吉郎)です。

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