1550年砥石崩れ
1550年9月。
砥石城は山の尾根に築かれた山城である。比高160-200(830)m。
城代は山田国政、吾妻清縄である。
山頂を平らに削って尾根に山道を作り、本城と城郭を繋いでいる。
山稜は急峻で岩盤や石垣を利用して多くの腰曲輪が設けられている。
晴信はこの城を攻めた。
村上義清はその時、高梨政頼と戦の最中であった。
まさにスキを狙った一撃と言えるだろう。
砥石城守備500名。
攻める武田軍2500~7000名(諸説有)。
バックにいる相手は村上義清である。
慎重な上にも慎重を期する必要があった。
調略によって村上方の武将も味方に付けていた。
8月24日今井藤左衛門らが砥石城を検分。
8月25日横田高松らが砥石城を再度検分。
8月29日武田晴信が着陣。自らが検分した。
<現場>
「う~ん、城は小さいが山稜が急すぎる」と藤左衛門。
「これは城攻めならぬ山攻めだ」と高松。
「陣中から山に詳しい奴を集めるか」
「崖にしがみついていたら、銃は撃てんぞ」
「横曲輪にたどり着くまでは消耗戦だな」
9月1日清野出仕(訳:敵側の清野入道清寿軒が降った)。
<現場>
「どうやら真田幸隆らの調略が功を奏したとみえる」と晴信は微笑んだ。
「ところで、敵将の矢沢綱頼は真田頼昌の三男。そちの弟であったな」
「は、や、いや(急に何だ?)」と幸隆。
「どうした、歯切れが悪いが」と晴信。
「養子に出て行った弟なぞ知りませぬ」
「はっはっは、そうであった。忘れてくれい」と晴信。
お館様は弟を調略せよとお命じなのだ……。
幸隆は確信めいたものを覚えた。
9月9日砥石城攻め開始。
<現場>
午前6時。
総勢500名の山男たちが急峻な山裾に取り掛かった。
木の根を握り、岩にしがみつく。
ザレ場に足を取られ、砂礫に滑る。
「もうすぐ横曲輪だ!踏ん張れ、踏んば……」
ドガッ、ダカッ。
一抱えもある岩が降ってくる。
横曲輪に躍り出た敵兵がここぞとばかりに投げつけた。
頭に当たれば首の骨が折れ、腕や足に当たれば骨折して墜落した。
死者300余名、重軽症者200名弱。つまり全員死傷者となってしまった。
「むむっ」晴信は言葉も無かった。
9月19日須田新左衛門誓句(訳:須田信頼も(真田幸隆の誘いに)応じた)。
<現場>
「武田家と誼を通じ、須田家の安泰と繁栄を未来永劫……」と信頼。
だが晴信は聞いていなかった。500名の死傷者がショックだったのだ。
9月23日村上義清と戦っていた筈の高梨政頼が突如として和睦。
晴信側だった寺尾城を攻め始める。
村上vs高梨の戦のスキを突いた砥石城攻略。
和睦によって村上の動きは自由になった。
村上氏の今後の動きが気になる。
調略に出ていた真田幸隆はその報に接した。
寺尾城を見捨てるわけにも行かず、援軍を行かせた。
<現場>
「……という事でございます」と素っ破。
「なんですと!」と近習。
「真田幸隆様が救援に向かいましたが、おそらくは間に合わないかと」
「村上義清め、また策を労すやもしれん。情報を絶やすな!」と晴信。
「はっ」と素っ破。
おかしい。
用心しなければならない。
9月28日村上義清が突如として寺尾城攻めを取り止める。
ただ動かなくなった。
妖しい……。
<現場>
「……という事でございます」と素っ破。
「なんですと!」と近習。
敵軍が後から、籠城軍が前から攻めてくれば挟撃である。
「挟撃作戦か……。まずい、まずいぞ!」と晴信。
上田原の戦いで惨敗した、いやーな思い出が蘇った。
幸い、撤退の際に足手まといになる重火器は、今回の戦では展開していない。
撤退をするなら今しかない。
その時、砥石城から上がるのろしの意味を誰も推測出来なかった。
「テキグンテッタイ」
9月30日晴信が軍議を開く。
<現場>
すでに戦況は明らかだ。
迫り来る2000余名の村上軍と砥石城守備の敵兵500余名。
これらに挟み撃ちになれば、武田軍は全滅である。
ただちに撤退と決まった。
2500名が1か月間、布陣する予定だった兵站は、幸い底を尽きかけていた。
着の身着のままの撤退と決まった。
一刻を争うのだ!
しかしまわりこまれてしまった!
10月1日撤退始まる。午前6時から戦闘があり、午後6時に振り切った。
12時間に及ぶ撤退線が始まった。
<現場>
撤退を知った砥石城の残兵が、武田軍のしんがり(後退する部隊の最後尾)に襲い掛かった。
「うわぉあ」
「ちょちょっとおっ」
引きながら戦うは、負け戦なり。
さながら巨鯨にまとわりつくサメの群れの如く、怪我は浅いがダメージは深い。
やがて村上義清率いる本隊が、後詰に到着、追い付いてしまった。
陣形の無い撤退は、作戦の無い乱闘と同じである。
村上義清自身が槍の名手であり、猛将と言われた家臣も多数付き従っていた。
槍衾戦法である。
野戦で横列に並び、槍の壁を作って突進するのだ。
突く刺す斬る。
突く刺す斬る。
突く刺す斬る。
武田軍は、逃げながら後ろに身体をねじって戦うため、圧倒的不利であった。
パルティアンショットを試すも、焼け石に水であった。
振り向いて戦おうとすれば、逃げる友軍に置いて行かれる。
孤立無援である。
武田軍団は支離滅裂となった。
もはや一方的な虐殺であった。
<これまでか……>晴信は観念した。
……。
……。
「お館様、兜をお貸し下さい」と近習。
「なに?」と晴信。
「私が身代わりとなりまする」
「お逃げ下され!」
……。
……。
「すまぬ」と晴信。
晴信の兜をかぶった名も知れぬ近習。
彼は追撃する村上軍に向って馬を走らせた。
彼が晴信として打ちとられれば、追撃も終わる。
敵将の首で戦は終わるのだ。
百姓兵に交じって晴信は戦場から脱出した。
影武者となった近習は、必死の形相で逃げまくった。
単独では怪しまれる。
犠牲覚悟で数人の近衛兵が付き従う。
彼らが必死になって影武者を守ろうとする。
どう見ても敵大将である。
敵軍の追撃は止まった。
「武田晴信が首、打ち取ったりぃ~!」
敵兵の歓喜の叫びが微かに聞こえてくる……。
「すまぬ」
「すまぬ」
脱出行の晴信は詫びながら、甲斐国へと急いだ。
身代わりとなった名も無き近習。
彼は役目を果たしたのである。
次回は1553年織田信長です。