1542年諏訪攻略
1542年諏訪攻略です。
寅王丸登場。
1542年晴信は諏訪攻略を決めた。
だが戦略、兵法よりもまずは調略である。
最初に調べたのは諏訪の勢力たちの為人だった。
金に脆いか、義に固いか、地位と名誉、煩悩と欲望についてである。
諏訪大社の上社と下社は平和を装いながら敵対していた。
諏訪氏の当主の頼重は、上社の大祝を務めた。
ゆえに、下社の大祝の金刺氏と対立している。
これに諏訪一族の高遠頼継がからみ、頼重vs金刺・高遠の構図が出来上がっている。
そこで晴信は金刺・高遠に声を掛けた。
既に為人は調べてある。
金刺氏は様子見、高遠氏は欲が深く諏訪奪取を夢見る戦国武将タイプだった。
ここに調略のスキがありそうである、
「ともに頼重を滅ぼそう」と晴信。
「よし!わかった!」
金刺・高遠陣営は渡りに船と乗ってきた。
早!
こうして内訌の助成を掴んだ晴信は、いよいよ出陣を決めた。
すわ、電撃作戦か!
いや違った。
国境になんとなく兵を配置、すぐ撤退を繰り返す戦法をとった。
最初は「すわ侵略!」といきり立った諏訪軍国境警備もだんだん弛んできた。
そこをある日、総攻撃でぶち破ったのだ。
もともと足軽たる百姓兵は懐柔されていて戦意は薄い(1540年天明の飢饉)。
しかも対する諏訪軍は騎馬150人歩兵800人。
甲斐武田軍は騎馬2000人歩兵20000人である。
そして味方のハズの高遠頼継軍2000人は、武田に寝返って、頼重に襲い掛かって来た。
上原城にいた頼重は怒髪天を衝く如くにいきり立った。
「おのれ頼継!こうなったら城を枕に」と頼重が言いかけた。
家臣は頼重を無理やり引っ張って桑原城に撤退した。
「おのれ晴信!こうなったら城を枕に」と頼重が言いかけた。
「和議の使者が参りました」と家臣。
「え」
「和議の使者が」
「わかっておる!」と頼重。
頼重の側室の華蔵院と12歳の娘ひかり(諏訪御料人)はガタガタ震えていた。
無力な戦国時代の女性たちの末路は悲惨だ。
武田家三女の禰々御料人と寅王丸は甲斐へ戻る事になろう。
だが、側室は小見(麻績)氏の娘で、小笠原氏の家臣である。
同盟国となり、安堵していたのも束の間、その同盟国の甲斐に滅ぼされようとしている。
頼重「娘と一緒に落ち延びてくれ」
華蔵院「!」
彼女の頭脳はその時、歯車式計算機のように猛烈に回転した。
チーンッ、ジャッキーン!
答えは「甲斐国へ」であった。
「和議の答えをワシが引き延ばす」と頼重。
「その間に逃げてくれ」
華蔵院は首を横に振った。。
どのみち、晴信に捕まるのは分かっている。
それよりも人質として甲斐国へ行くのがいい。
娘のひかりの美貌はどんな男でも虜にするだろう。
ならば武田晴信の側室にこの母が押せばよかろう。
過酷か苛烈か運命はまだ定まってはいない。
戦国の女の戦いはこれしかない。
華蔵院とその娘は甲斐に人質として送られた。
娘はその後、諏訪御両人として、晴信に妻合わせられる運命である。
そして勝頼が生まれるのだ。
華蔵院のその後の行く末は歴史に記録されていない。
禰々御料人はその後、病没している。
この後、頼重は古府中に送られ、後日東光寺にて、切腹を申し付けられている。
こうして武田家はまんまと諏訪を併呑したのである。
しかし、これに激怒巨烈したのが高遠頼継であった。
「晴信どの!」
「我々がお味方したのは、諏訪をまかせると」
「諏訪をまかせると言ったな、あれはウソだ」と晴信。
「」と頼継。
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「ちゃうちゃう、ワシが諏訪を」と頼継と言いかけた刹那、晴信は高遠頼継を撃滅した。
ここで頼重の忘れ形見、寅王丸を晴信は推戴して、諏訪豪族をまとめている。
寅王丸は千代宮丸、のちに諏訪頼雄(よりかつ)となり、武田領諏訪の施政を担うのである。
甲斐国の諏訪勝頼は、のちに武田と諏訪のパイプ役として後世に名を残した。
諏訪は甲斐の奇妙寺のサポートを受けて、おおきく変容する。
精密機械産業のメッカとなるのである。
こうして信濃併合の入り口、交通の要所、諏訪を武田晴信は手に入れた。
あえて言おう、寅王丸蟄居していない。
寅王丸はこの歴史分岐では諏訪頼雄となり諏訪の施政を担います。
諏訪勝頼は武田と諏訪の仲介役的存在です。
つまり勝頼が武田近習との確執により武田家を滅ぼす分岐は消えます。




