1531年信虎堤
信虎堤です。
武田信虎の治世に治水工事が始まりました。
甲斐国は盆地である。
山国であり、降った雨はすべて、盆地に流れ込む。
その日は土砂降りの大雨が1週間も続いた7日目。
大雨が続き、川沿いの村々は戦々恐々だった。
川の水位は益々高くなり、水面は逆巻き渦を作った。
この川は釜無川(富士川)といい、暴れ川であった。
ごうごうと音を立てて、濁流が流れ下る。
遠くから微かに人の声が豪雨の雨音に混じって聞こえてくる。
「つ……堤が……破け……たぞ……」
ガタッ。
「ちょっと、田んぼ、見てくる!」
雨の様子を軒下で見ていた農民がやおら立ち上がった。
「あなた、やめて!どうにもならないよ!」
妻らしい女が袖を引っ張って引き留めた。
「うわああ~ん」
尋常ならぬ様子に女が背負っていた赤子が泣き出した。
そこに洪水の水が怒濤のように押し寄せてきた。
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翌日、村の捜索隊が折り重なるように倒れている3人を見つけた。
「ふへぇ~、死ぬかと思った」
「奇妙寺の脱出球のおかげだな」
毎年洪水の起こる地域には奇妙寺が脱出球を1軒に1台配備していた。
武田信虎の配慮し、指示したものだ。
費用は1台20貫(200万円)だ。
農家の年収は140万円程度の時代にこれは突拍子もない金額だ。
だが毎年何百人も犠牲者が出ると、収穫に影響が出る。
収穫は年貢に直結している、税金だ。
それゆえに信虎は脱出球に出資したのだ。
脱出球で急流に揉まれた3人は高台にたどり着いた。
だが、そこで体力が尽きて、伸びてしまった。
無理もない。
行き先は運まかせ。
しかもメチャクチャに揉まれたあとである。
だが、命が助かっただけでも幸運であった。
甲斐国年代記「妙法寺記」によれば、毎年洪水と飢饉の記載がある。
「作物悪クシテ飢飢ナリ、人民多ク病死」「餓死スル者限リナシ」
甲府盆地は周りを山に囲まれ、山国の宿命として洪水に見舞われた。
これをなんとかしなければならなかった。
コンクリートが実用化したら、まず第一にやることがこれである。
治水の為の河川の大土木工事である。
護岸水制工事ともいう。
奇妙寺は武田信虎に相談を持ち掛けていた。
奇妙寺の僧形の中には、信虎に使える者もいた。
戦国時代の外交官は僧形である。
農業、建築、医療という幅広い知識と技術がある。
また海外の知識も豊富で、頭の回転も速かった。
それを買われて、外交官、軍師、相談役と地位はかなり高い。
名も無き僧形であったが、信虎の信頼は厚かった。
場所は古府中のつつじヶ崎館。
1519年に川田館(石和館)からこちらに本拠地を移していた。
これは川田館が度々水害に遭ったからだと言われている。
信虎は一度も遮る事なく、頷きながら、僧形の話を全部聞いた。
「そのような大工事が可能なのか?」と信虎。
川の氾濫を治める土木工事は治水の大工事である。
甲斐の国(甲府盆地)には釜無川(富士川)という大きな川がある。
この川はたびたび氾濫して盆地に壊滅的な被害を与えていた。
その原因は釜無川に流れ込む支川の御勅使川にあった。
知る由もなかったが、糸魚川-静岡構造線という大断層とそれに伴う断層が、御勅使川上流域にはあった。
断層が動くと地層が擦れあい、礫となり、地質は複雑で脆いものになる。
糸魚川-静岡構造線は常に動いている為に御勅使川上流域は崩壊地が多く、崩壊した土砂は河川に流出していた。
これが氾濫時に濁流となって釜無川に流れ込んだのだ。
こうして古代より氾濫によって出来た扇状地に人が住み付いたのだった。
上流域に甲斐、甲府が、中流域に見延町、南部町を擁する天井川になっているのである。
この御勅使川と釜無川の合流の角度も急激であった。
御勅使川と釜無川をセットで治水し川筋を安定させなければならない。
「4000人の農民とコンクリート護岸の技術で可能です」と奇妙寺の名も無き僧形は答えた。
「して、年数は?」
「12ヶ月」
信虎の目が大きくなった。
「たった1年でか?して予算は?」
「10万両(130億円)」
金一両(4匁=15g)の価値は、20180825の金相場1g=4626円の場合、4626x15x0.82=56900円
0.82は純度82%で計算。
従って20180825の相場では23万両。
信虎の目はさらに大きくなった。
「うっ」と信虎。
4000人の足軽を1ヶ月雇えば4億円の時代である(食料、具足除く)。
12ヶ月雇えば48億円だ。つまり工事費130-48=82億円である。
莫大な費用であるが、二度と洪水に襲われなければ、10年で取り戻せる額ではあった。
信虎は迷った。
天井を見上げたり、部屋の壁を見たりキョロキョロせわしない。
だが、やらなければ毎年、農民が地獄を見る事になる。
これが甲斐国の国力を削いでいる事は確実だ。
信虎は決断した。
「失敗は許さぬ。それでも覚悟があればやってみよ」と信虎。
「はっ」と僧形。
かくして信虎堤工事の許可は下ったのである。
領民たちは続々と駆り出された。
流域の村落の長老が音頭を取り、50人づつ80グループに作業編成が成された。
まず測地測量の知識を持った僧形たちが河川の流域および合流点の地勢を調査した。
測地測量の結果、この合流点の少し上に岩で出来た崖(高岩:竜王鼻)がある事がわかった。
川筋を変えて濁流をこの岩にぶち当て、堤防の役割を与えればよい。
こうして基本構想が固まった。
また御勅使川の氾濫が始まる地点(扇状地)より上流に砂防堰堤を築き、氾濫の威力を削いでおく事も必要だった。
砂防堰堤は透過型砂防堰堤(スリットダム)を築堤する事になった。
これは堰堤の中心部は流水を通すために大きく開けてあり、通常時は土砂は堆積せず下流に供給されるものだ。
土石流発生時には設けられたスリットにより土砂と流木を捕捉しようというものである。
なお、溜まった流木と土石は定期的に浚渫が必要で、メンテナンスに含まれている。
河川に供給される礫は川床を保全する役目を担っている。
砂。砂利、石などが上流から供給され、河床洗掘を防いでくれている。
だがダム形態をとると、供給がストップする。
川の流れが直に河床と河岸を直撃するようになる。
急流河川による河床洗掘と側方侵食だ。
グランドキャニオン状態になってしまうのだ。
これを防ぎ、なおかつ土石流も防ぐのが、透過型砂防堰堤(スリットダム)なのだ。
建設される工事用車両専用道は、メンテナンス用に残されることになった。
製鉄による異形鉄筋と圧延技術(1421)、蒸気機関による土木機械(1477)、コンクリート(1530)により築堤する。
奇妙寺の土木機械が山を削り始めた。
メキメキッバキボキ。ガラガラドッカン。
仮設線路が設けられ、陸蒸気の貨物に満載された土砂が搬出されていく。
建築基礎に採石が敷き詰められて、転圧されてゆく。
すべてが土木機械による作業である。
かり集められた農民は呆然資質である。
「ほえ~」
「はえ~」
「ひょんげえ~」
「オラたちは何をすればいいべ?」
現場号令が現れた。
「はいはい、みなさんはこっちでーす」
「みなさんにはダム筐体の木型を組んでもらいまーす」
「パイプで足場を組んで、作業場を確保してから木型を組みまーす」
「安全帯は面倒臭いですが、着用義務ですので御願いしまーす」
「へーい」と農民一同。
「今日も一日御安全に!」と号令。
「今日も一日御安全に!」と農民一同。
農民たちは指示通りに木型を組み始めた。
木型が出来たら、鉄筋を組む。
針金でキリキリッと縛る。
慣れると手際が良くなり、効率を追求する。
ちょっと工芸品を作る匠の心境になる者も現れた。
いよいよ木型にコンクリを流し込む。
隅々まで行き渡るよう、みんなで総出で掻き混ぜる。
巨大な堰堤のために、何日にもわたって、コンクリートを分けて流し込む。
その為、既成コンクリートの上に新しいコンクリートを流し込む境界に継ぎ目が生じる。
これを水平打ち継ぎ目という。
前の日に打設したコンクリートは粉を吹いている。
これをレイタンスといい、ブリーディング水とともに除去する。
これが人力作業で農民の出番である。
ブラシでこすり落とす者、放水で除去する者、総出で大わらわだ。
こうして、砂防堰堤は御勅使川上流に全部で八つ設けられた。
次に設けられた河川堤は霞堤であった。
これは川の流れに対して逆八の字状に設けられた河川堤で、八の字と八の字の間から河川の土石流が逆流し遊水地に流れ込む。
遊水地は平時は竹や雑木の林(水除林)になっていて、有事には冠水した。
逆流によって土石流の威力を削ぎ、山から流れ出た土砂と流木を水が引いた後でもらおうという魂胆もあった。
さらに越流堤も築堤された。
これは洪水が堤防を越えて流出する構造になっている。
洪水が堤防を越えて流れるように低く設定されており、洪水が遊水池や調節池に流れ込む仕組みだ。
砂防堰堤と霞堤と越流堤によって勢いを削がれた御勅使川の奔流は釜無川の合流点にある竜王鼻にぶち当たる。
ここでさらに流速を削ぐのが「聖牛」である。
丸太を三角錐に組み合わせた形状で川の流れに沿って水の勢いを利用する形になっている。
三角錐は水流によって河底に押し付けられ、さらに安定度が増す。
洪水にあうたびに土砂が底部に積り、さらに躯体が沈み安定する。
これはわざと木材で作り、壊れるようにした。
頑丈にすると水流が川底で渦流を作り、河床洗堀が起こり、陥没するからだ。
最後が「要」の信虎堤が登場だ。
こちらも石積式堰堤だが規模が大きく覆土とドレーン層に分かれている。
堰堤は出来るだけ基礎基盤に河川水や降雨を浸透させないのが基本だ。
だが石積みの隙間からの河川水や堰堤天頂部からの降雨は浸透してくるのは避けられない。
これらの浸透水を裏のり尻(堤防土地側下部)にドレーン孔を設けて集水する。
堤体内浸潤面の抑制にも繋がるので堤防の長期安定性にも確保されるのだ。
信玄提が尽きる箇所からは堤塘林と護岸林が護岸の「要」になる。
堤塘林は川表に竹を植え付けて、川裏に杉を植えたものだ。
竹木の根によって破堤を防止する効果があった。
護岸林も同様で、無堤部の河岸沿いに樹林帯や竹林帯を設けて破堤を防止した。
これらの工事の為に、延べ6000人が近所の村落から徴用され、18か月の突貫工事(1531-1533)で完成した。
ちょっと予算をオーバーしてしまい15万両(190億円)になってしまった。
「ちょっととか言うな!」と信虎。
「はっ」と奇妙寺僧形。
「戦費もばかにならんというのに予算オーバーとはな……」
「奇妙寺だからこそ大目に見るのだぞ。これまで役に立たない事業はなかったからな」
「もったいないお言葉でございます」
こうして釜無川は、どんな異常気象による集中豪雨が起きても、河川は氾濫しなくなった。
いや、氾濫はするのだ。
だが氾濫した洪水は施工した治水設備により、河川に戻っていく。
信虎提はその役目を果たしたのである。
2013年9月16日、台風18号による集中豪雨により矢代川の堤防が決壊した。
その時、周辺の市町村は冠水したが、被害は少なかった。
これは戦国時代に治水工事された霞堤のおかげである。
堤防に切れ目を入れ、遊水池を作り、洪水を引き入れる方法だ。
遊水池は水田だったり、現代なら公園だったりする。
その外側には冠水しないようになっている。
2013年にはこの歴史は忘れ去られていた。
そのため、遊水池にも住宅が建ち、一部が冠水している。
だが戦国時代の治水工事が現代でも有効な証拠となった。
次回は1535年TBM工法です。