1521年フィリピン攻略
マゼランが去った後のフィリピンを攻略します。
1521年。
フィリピンで救助艦隊を要請した「まみや」はその地に残った。
駿河・甲斐に外交艦隊を要請し、フィリピンと外交関係を築くのだ。
フィリピンのマクタン島で、マゼランはキリスト教の改宗とスペイン王への朝貢を迫った。
毎度のコンキスタドールのパターンである。
「カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の許可証を振りかざすのやめにしね?」
トルデシリャス条約・サラゴサ条約による世界分割ではフィリピンはポルトカルのものと決まっていた。
しかしマゼランはスペイン領土として要求している。
新世界での侵略者の領土争いだ。
そこに割って入り、仲介したのが日本人だった。
結局それは無視されてしまった。
日本人は単なる道案内で、同胞扱いではなかったのだ。
日本人がなんとかしようと努力する様をフィリピン人は見ていた。
それを憶えていた部族の酋長達は、快く日本人を迎えた。
スペイン人に隷属するよりは、同盟国扱いの日本人のほうがましだ!
だが、なかには前回、マゼランを殺そうとした輩がいた。
ラプ=ラプである。
「殺せ!殺せ!」とラプ=ラプ。
「我々を見下す外国人を殺せ!」
日本人を全部殺し、物資を奪おうという算段である。
うまくいけば舶来品の武具防具が手に入り、部族間抗争で有利に立てるぞ!
その考えが部族の間に広まり、上手くいきそうな雰囲気になってしまった。
さらにあろうことか多くの部族がその考えに染まってしまった。
「殺せ!殺せ!」
その日、日本人居留地は何の防御もなかった。
その日の夕方、5隻の外交艦隊が入港した。
その日の深夜、暴動が起こり、反逆者達が無防備な居留地に攻め入った。
折角作った居留地が強襲され、多くの日本人が殺された。
一方的な虐殺だった。
直ちに日本の艦隊は反撃に転じたが、遠浅の海岸線は容易には船舶を近づけさせなかった。
まだ港湾施設は計画のみで着手もされていなかった。
自然の砂浜が続いている。
近づけない。
これではマゼランの時の二の舞だった。
謀反人たちは、前回の「まみや」の火砲の威力を知っているので、射程内に容易には近づいてこない。
しかたなく日本側は各艦に1基づつ配備された秘匿兵器「多連装噴進弾砲」を発射する事にした。
もともとフィリピンのセブ島に構築予定だった対南蛮要塞「ハクバ」に設置する目的であったものだ。
1基あたり8本のレールがあり、上下16発の噴進弾を発射できる。
無誘導無照準な為、面制圧用途に向いている。
5隻の船団の搭載段数は16発x5で80発だった。
1回の斉射分で次発分は搭載していない。
これを遠巻きに様子を見ている謀反人集団に向けて、全弾80発を発射した。
バシューン、バシューン、バシューンッ、バシューン!
バシューン、バシューン、バシューンッ、バシューン!
バシューン、バシューン、バシューンッ、バシューン!
バシューン、バシューン、バシューンッ、バシューン!
耳を塞いで口を開けていないと鼓膜が破れる爆音である。
噴進弾の噴煙も予想外に凄かった。
そもそもこんな狭い艦上で発射する兵器ではない。
また不本意な戦闘でもあった。
撃ち込まれた側の阿鼻叫喚はさながら火炎地獄である。
弾頭に木造帆船制圧用の焼夷弾を用いていたからだった。
本来は火炎で木造艦を延焼させる武器を人間に使ったのだ。
粉末アルミニウムと3価の酸化鉄の反応(テルミット反応)を利用している。
その燃焼温度は2000-3000度の超高温である。
生存確率0%。
着弾の爆炎が収まった砂浜には白い灰しか残っていなかった。
ラプ=ラプを含む謀反人たちは消えてしまった。
翌日、全部族が帰順を誓い、朝貢を献上してきた。
こういう結果になったのは仕方のない事だった。
残念である。
日本人はつい異国の地でも、真摯に尽くせば、真心はきっと通じると信じる悪癖がある。
これ以降、日本は未開地の外交には自衛の為の威嚇と武力行使を追加している。
こうしてフィリピンに日本人町「マニラ要塞都市」が爆誕した。
7000を超える諸島から成るフィリピンに統一国家はなかった。
いつどこの部族が反旗を翻すか分からない。
その後の日本人町は、全て武装した「要塞都市」になった。
フィリピンを攻略して朝貢国にしてしまった日本。
南アメリカ大陸からの航路を「まみや」のジャイロスコープが全部記録していた。
1523年以降スペインの渡洋船が西回りコースで何度かマニラに寄港した。
が、日本人がフィリピンにいるのを見てガッカリしていた。
南米も中米も北米さえも日本側に付いていた。
フィリピンなら、と一縷の望みを掛けて、渡洋してきたのである。
1524年フィリピンで金、銀、銅、ニッケル、亜鉛の鉱山が始動。
特にニッケルが有望だった。
1529年日本はインド東部から東南アジア諸島の王国及びフィリピン、マカオに至った。
渡洋技術により中米、南米とも同盟を結ぶ事が出来た。
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スペインは南米の洋銀を調達出来なかった。
このため、西欧に大量の銀が流れ込まなかった。
ポルトガルはアラビア海とインド洋の覇権を取れなかった。
この時点でヴェネチア商人の優位性は崩れていない。
相変わらず陸路の交易は有効であった。
価格革命は起きなかった。
洋銀の西欧への流入が無いので、通貨の価値は下がらなかった。
洋銀が原因のインフレは起きなかったのだ。
インフレになれば、流通や製造業は儲かる。
貨幣を貯め込んでいた封建領主は大損だ。
農園主と小作農が儲かり、王侯貴族が没落する。
富の逆転現象が起こるはずだったのだ。
これが中世の終わりで、近世のドアが開くはずだった。
新大陸の大鉱床は奇妙寺とアステカ・インカが握っている。
西欧は相変わらずドイツ(独)・オーストリア(墺)の鉱床が世界の3/4を占めていた。
中世封建社会は盤石のまま、近世へのドアは開かなかった。
商業圏の世界規模での拡大は、日本の海洋商業圏で始まるのだ。
次回は北米防衛圏000と差し込み原稿「1500年ごろ幕間:戦象と戦馬」です。
日本が北米に馬を供与するにあたり、差し込み原稿が必要になりました、
差し込む場所は1480年ムガール帝国とヴィジャヤナガル王国の次に差し込みます。