1508年武田信虎
信虎の時代になりました
武田信虎。
彼には5人の男子と複数の女子がいた。
M①1517年嫡子、竹松(後の清信)が誕生する。
正史では、若くして病没するが、ここでは奇妙寺の医療で生き延びた。
M②1521年次男晴信が誕生する。
甲斐国の貧しさを懸念している次男坊だ。
時々、身をやつして庶民の街を出歩いているらしい。
貧乏国人の次男坊竹田晴之介を名乗り、市井へ出て町人と交流し、どうのこうのだそうだ。
M③1523年三男、戌千代(浅信)が誕生する。
正史では、若くして病没するが、ここでは奇妙寺の医療で生き延びた。
まったりとした性格で、どこにいるのか分からない神出鬼没な御仁である。
M④1525年四男信繁が誕生する。
父・信虎の寵愛を一身に受け、スクスクと育つ。
晴信はそれが気に入らないらしい。
M⑤1532年五男信廉が誕生する。
子供の頃から絵ばかり描いていた。
晴信そっくりの顔立ちをしている。
街でよく「竹田のだんな~」と声を掛けられ「?」な様子である。
F①1519年さくら(後の定恵院)が誕生する。
清信には妹、晴信以下には「おねいちゃん」である。
後の今川義元正室である。
F②1517-1521年みずほ(後の南松院)生まれる。
同名の寺院は、不思議な縁で徳川水戸藩と交流がある。
F③1528年つばめ(後の禰々御料人)生まれる。
後の、諏訪頼重の正室。
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現在の甲斐国守護代は武田信虎であった。
戦国時代の常で、戦に明け暮れる日々であった。
1505年曾祖父の武田信昌が死去。
1507年祖父の武田信綱が死去。
これにより信直(信虎)が家督及び甲斐守護職を継承する。
叔父にあたる信恵との抗争がこの当たりから激化する。
1508年信直(信虎)は勝山城の戦いで信恵の血統を全滅させる。
ここに武田宗家の血筋は信虎に統一された。
1510年甲斐国河内領の国人、穴山信懸(のぶとお)が子息に殺害される。
穴山家は婚姻関係を通じて武田宗家の重臣となった家柄だ。
また、地理的に河内領は富士川沿いの駿河国と国境を接している。
つまり武田側と今川側の両方に従う「両属」状態になっていた。
いわゆる「半手」というヤツである。
新当主となった穴山信風はあろうことか今川に帰属し、今川氏は甲斐国に攻め入った。
これを見た近隣の国人大井信達らは今川に寝返った。
紆余曲折の小競り合いにことごとく敗退した信虎。
しかし今川氏が留守にした駿河が、尾張・遠江守護の斯波義達らに攻められ、窮地を脱する。
今川は急遽信虎と和睦し、駿河国に引き返した。
信虎「き~さ~ま~ら~」
信達「いや、あのですね」
信風「え~とっ、なんといいますかですね」
大井信達は真っ青になった。
穴山家は緑色になった。
大井信達は隠居+出家し、娘を差し出して信虎に臣従した。
穴山家も降伏した。
この大井信達の娘が信虎の正室、大井の方であり、晴信らの母親である。
1526年京への上洛を計画するも、なぜか実行する事はなかった。
1528年信濃諏訪攻めを行って負けている。
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1533年に晴信の正室に上杉朝興の娘を迎える。
これにより一時的に扇谷上杉家と同盟国になるが、娘が病死し解消している。
後に扇谷上杉家は消滅するが、上杉憲政は越後に逃げ延び、長尾景虎に取り入った。
だがこれはまた別の話である。
清信は機械工学に優れ、いわゆるインテリだった。
晴信は戦術戦略に優れた智略家肌の政治家タイプだった。
浅信はボーッとしていて花鳥風月を愛でる自然派だった。
信繁は外国語に秀でており外交官タイプである。
信廉はのちに逍遙軒の名で知られる画家の才能があった。
彼らは奇妙寺で徹底的な英才教育を受けた。
奇妙寺の異常な技術力と振り切れた医療を学んだ。
世界史では、西欧南蛮の政治と軍事を勉強した。
地理では、世界の地域の地政学的位置と植民政策について学んだ。
これらは現在進行形であった。
マラッカ王国と同盟を結び、日本絶対防衛圏を築いている事。
これで東進してくるポルトガル軍を防いでいる。
太平洋航路を探索して、アメリカ大陸に渡洋している事。
これから西進してくるスペイン軍を水際で食い止めようとしている事。
現日本政府の室町幕府がやっているのではない。
奇妙寺がやっているのだ。
こんな事は可笑しい事だった。
一刻も早く日本を統一して、対処しなければいけない事なのだ。
こんな事が長続きするわけがない。
日本がユーラシア大陸東部の小島で、戦国時代をやっている場合ではなかった。
だがまず甲信越地方の安定。
そして、西上作戦、畿内制圧、中国地方と四国制圧だ。
次は九州を制圧し、最後は奥州制圧である。
やる事は山ほどあった。
武田家の兄弟達はそれぞれに特徴があった。
清信はインテリタイプの頭脳派である。
あれこれ方策を練って、敵を死地に追い詰める戦略家だ。
晴信はオールマイティの秀才肌である。
内政、外交、戦略とどれを取っても引け目がない。
ただ、長考するクセがあり、めったに即決しなかった。
浅信はなんだかわからない自然派であった。
しかし突然閃く事があるらしく。清信も晴信も信頼していた。
信繁は外交的手腕を認められ、ポルトガルのリスボンに留学している。
1537年、コインブラ大学が、コインブラにリスボンから移設された際、入学を果たしている。
こうして一時、信重は歴史から遠ざかる事となった。
信廉が考案した投影法による作画は、設計製図に革命的な発想転換を促した。
画家としての道を選び、信廉は歴史から遠ざかる事となった。
こう見ると晴信が有能そうに見える。事実そうだった。
しかし、最も恐るべきは浅信だったのだ。
一見ひ弱そうな美少年の浅信。
彼は超常の者であった。
その浅信が突然第5次渡洋探検隊に志願した。
南米アステカ王国+インカ帝国遠征隊である。
既に1-3次の遠征隊がアステカ王国と同盟を築いて帰国している。
第4次渡洋ではインカ帝国と接触。
東光寺にはインカ帝国の皇太子ニナン・クヨチが亡命してきていた。
彼と会ってから、何かがおかしい。
清信「お前はまだ10歳だ」
「そりゃあ武家ともなれば11歳で元服、大人の仲間入りだが……」
晴信「異国の地で何をどうするつもりなのだ」
「第4次までの隊長の閣龍も「インカ、あなどりがたし」と言ってきてる」
さくら(後の定恵院)「おねいちゃんが許しません!」
「だいたい何ですか、インカ帝国の皇太子に何を吹き込まれたのやら!」
信虎「わしが甲斐国を統一しようと志したのも10歳だった」
「祖父の武田信昌はわずか9歳で家督を継いでおる」
「よろしい、やってみせよ」
こうして武田浅信10歳は第5次渡洋探検隊に配属されたのだった。
次回はインカ帝国000です。