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Takeda Kingdom!甲斐国は世界を目指す  作者: 登録情報はありません
第6章
57/169

1500-1510年マラッカ王国003(戦後)

マラッカ王国編完結です。

この日からしばらくした数週間後の日本。

急に堺や長崎、博多からポルトガル人が減り始めた。

地元の商人は事情が分からず、オタオタしている。


商人A「何でも南蛮のほうで大きな動きがあったのだとか……」

商人B「政変か?マラッカからの積み荷がどんどん先細りに……」


それに変わって入って来たのは南方の特産物を満載した変な南蛮船だ。

いや、南蛮船なのだが、変なのだ。

しかも港に入らず、素通りしていく大型船がある。


え?港の水深が浅すぎて接岸不可能?

一体何積んでんだよ?

(はしけ)で運べない?

でかい石でも積んどんのか?


堺港の商人は首を傾げた。


謎の大船団は尾張国の(みなと)にも行かない。

天王川の水深も浅いのだ。

津島の湊も素通りだ。


 船は巨大コンビナートを建設中の浜名湖ドックヤードを過ぎ、駿河国の清水港に入港した。

 ここには袖師第二埠頭を浚渫(しゅんせつ)し、バース数は10000DWx1の南蛮船接岸施設があった。

今川+武田南蛮船のために港湾施設は変容していた。

そこでドバドバ物資を荷下ろしする。


一方、長崎、博多、堺港では直輸入品に街が湧いていた。

倭寇とポルトガルを通さない直接買い付けの輸入品である。

「安い!安すぎる」

「今までが、ぼったくりだったのだ」


一方、東アジア独占貿易を挫かれたポルトガル。

軍隊は去ったが、商人は港湾使用料を支払って残っていた。


ここはマラッカ王国にあるポルトガル商館の一室。

ポルトガル商人達がなにやら地図を広げている。

東アジアの地図だ。


ポルトガル人はマラッカをなんとかして征服したかった。

マラッカを征服すればその向こうには香辛料諸島モルッカがあった。

それは東アジアの独占貿易を視野に入れた壮大華麗な計画であった。


この計画は奇妙寺によって挫かれた。

しかしそれにはもう1つの計画もあったのだ。


新大陸農産物の盗木とその移植栽培である。


1492年にアメリカ大陸に渡ったスペインの艦隊。

それを指揮していたジェノヴァ出身のイタリア人コロンブス。

新大陸には、多くのアメリカ大陸にしかない作物が見つかっていた。

ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、キニーネ、コカ等々……。


ジャガイモは観賞用だ。根の根粒物に毒があって食中毒を起こす。

ピーマンは香辛料として使うがイマイチな評判だ。

トウガラシはいい香辛料だ。辛くてピリッといたスパイスだ。

トウモロコシは是非手に入れたい穀物である。

カボチャ……。

トマト……。

ピーナッツ。

イチゴ。

カカオ。


 だが世界分割の条約規定によりスペインは新大陸を、ポルトガルは東アジアを植民地化する事になった。

 ポルトガルは南米原産の野菜や果実、有能な植物をスペイン領の新大陸から買わねばならなかったのだ。

それは独占であり、入手には莫大な代価を支払わねばならなかった。


 そこで、それらを植民地化した気候の似ている東南アジアで栽培し、手に入れようとしていた。


軍事力でダメなら、新大陸の農作物の盗木で儲けようというのである。

恐るべしポルトガル商人魂。


奇妙寺の素っ破がこれをいち早く察知した。

<素っ破(諜報活動)、乱破(騒乱活動)、発破(破壊活動)を行う間者のこと>。


 ポルトガルへの間諜にはポルトガル語に堪能な素っ破が張り付いているから情報の正確さに問題はない。

奇妙寺諜報部はすぐさまマラッカ王国と連絡を取り作戦を練った。


 その結果、奇妙寺が仲介を取る形で耕作地を提供し、ポルトガルの独占貿易の企てを挫くと決まった。

スペインからポルトガルが奪い、日本とマラッカがその上前を撥ねるのである。

条件は耕作物の収穫の5%(いつもの)だ。


ポルトガル商館に奇妙寺の大使が乗り込んだのはその数日後だ。

物腰も柔らかく「このような良い話が」とやんわりと持ち掛けた。

「スペインの植民地からの作物の栽培には、ぜひ奇妙寺の農場をお使いください」


ポルトガル人スタッフの顔面は見る見るうちに蒼白になっていった。

そりゃあそうだ。

自分たちの一挙手一投足がすべて漏洩している!

誰が一体そんな事を……。

衛兵を見た、目を反らした……。

執事を見た、目を反らした……。

飼い犬を見た、尻尾を振っている。


そこには忠誠心も愛国心も無かった。金の力が総てだった。

秘密はすでに秘密ではなくなっていたのである。

マラッカ占領計画はこうして消え去った。


奇妙寺のの耕作地の租借の条件はすんなり受諾された。

1500年に奇妙寺からの技術供与で土質改良された耕作地が使われる事となった。

 土質改良の技術供与は熱帯性の痩せた土地改良のものだったが期せずして役に立った。

まあこれは計画の一部であったが、もちろんポルトガルが知る由も無い。


新大陸の作物が植え付けられ、すくすくと育ち始めた。

やがて気候が似ていたようで大規模な収穫があった。

だが一部は品種改良でもっと食用に適するように育てねばならないものもあった。


トウモロコシはメキシコ高地育ちの為、日本で栽培してみる事にした。

 カボチャもアンデス山脈高地の冷涼な土地が似合うため、甲斐で育ててみることにした。

これが後の甲斐名物「かぼちゃのほうとう」になるのである。


その他では南米産パイナップルは特に人気があった。

これは日本では気候が合わず、マラッカを含む東南アジアで作る事となった。

 琉球王国からの使者が興味を示し、持ち帰ったので植え付けに成功するかもしれない。


ここにはインド北部産のメロンも植え付けられた。

 メロンは当初キュウリよりも少し甘い位であったが何百年もの品種改良によってかなり甘くなっていた。

そこでかぼちゃの台木にメロンの接ぎ木栽培を実験してみた。

活着率はほぼ100%で、実際黒点根腐れ病に強い抵抗を示した。

 かぼちゃ台メロンの草勢と収穫は良好であったが、幾分果実が大きく果汁が少ない傾向になった。


この方法は現在でも使われている。


新大陸産植物の中でも不思議なのはブラジル原産のゴムの木であった。

その幹から取れる白い液体は弾力性のある高分子材料なのだ。

一面ゴムの林の中で日本人だけが笑顔を浮かべていた。


それにはこういう逸話があった。


日本は火山国だった。硫黄は腐るほどあった。

日本に持ち帰ったゴム原液(ラテックス)が何かの拍子に硫黄と化学反応を起こした。

逸話ではゴムと硫黄を混ぜた実験中に誤ってストーブに接触したという。

起源は定かではないが、これが加硫という反応の発見だった。


生ゴムはそのままではガムのように弾性の無いものでだった。

加硫によって輪ゴムが持っているようなゴムの弾性を得るのだ。

実験が繰り返され140度で30分加硫すれば良い事が分かった。


また、ゴムは日本に運ぶ間に固まってしまった。

これの戻し方が分からず、工場はマラッカ王国に建設し、製品を輸入した。

後日、鉱物油に可溶な事がわかり、解決している。


ポルトガル人もこのゴムが世界を変える事をうすうす承知していたようだ。

あるいはポルトガルの諜報員が加硫の情報を仕入れたのかもしれない。

生ゴムの価格がじわじわと上がり始めた。高騰である。

そこで租借地の賃貸料を20%値上げする動きを見せてみた。

生ゴムの価格の高騰は止まった。


そうこうしている内にこの新大陸農園から苗が盗まれたのだろうか?

盗木の盗木である。

しばらくすると、あっちこっちで新大陸の農作物が安値で取引され始めた。

関係者に聞いてみると「自生していたのを偶然見つけた」と口を揃えたような理屈である。

盗んだ苗を育てて勝手に安価で販売している……。

ポルトガル商人は烈火のごとくいきり立ったが後の祭りだった。


奇妙寺も租借地の権利を取り下げた。

ポルトガルも農園の経営を放棄した。

もはや新大陸の作物は当たり前の食材や材料として市場に出回ってしまったのである。


実はこれこそ日本人の思うツボだった。採算は必要だが真の目的は拡散と普及だった。


奇妙寺は生ゴムとサトウキビを買いまくった

。マラッカ王国はこれでもかと売りまくった。

さらの近隣諸国から採掘権を購入して石油を採掘した。

掘って掘ってチューッと絞り上げた(パレンバン油田)。


パレンバン(Palembang)はラデン・バター(1475-1518:在位)が統治するドゥマク王国という国家の領地内であった。

1480-1500年にマラッカ王国を教化した際にこの巨大油田の噂を聞き、試掘したところ埋蔵量は測定不能だった。


そこで奇妙寺は今度はドゥマク王国の教化に努めたが、マラッカ王国が難色を示した。

しかしポルトガル・スペインの脅威から東南アジア諸国を守る為には止むを得ず、しぶしぶ承諾した。


ところがドゥマク王国はマラッカ王国の市場の支配を密かに狙っていたのだ!

1480年から友好関係を築いていた奇妙寺とマラッカ王国の絆を割く。

そのため、1517年ドゥマク王国は果敢にも攻撃を開始した。

戦いはまあ奇妙寺-マラッカ王国の圧勝だった。


ドゥマク王国は日本直轄地ドゥマク県となり、王国は消滅し、王は統制官となった。


こうして日本はとうとう新大陸にしかない作物と自国採掘不可能な南方資源を確保するに至ったのである(1518)。

次回アステカ王国編開始です。

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