1470-1510年帆船
帆船を作ります。
僧形の馬可尼は考えていた。
向かい風でも走れる帆船はないものか?
彼は部下に命じてヨット・カーなる模型を製作した。
木で出来た木の車で走る模型で上部に帆がひとつ付いていた。
帆の形は三角形で、尖り先は天を、幅広な辺は地を向いている。
帆はたるみがあり、風を受けて大きく膨らむ構造である。
ヨットは7世紀にアラブで発明された。
ダウ船である。
向かい風でも揚力を発生させて、斜め前方へ前進できる最新の技術であった。
受ける風の揚力の分力である推力で逆風に斜めに航行出来る。
この揚力発生に伴って、船体が大きく傾きながら航行する為、貨物船には向いていない。
また風速に対して、通常の3倍の速度で航行できる為、高速性と俊敏性も持ち合わせていた。
和船と中国船は横帆であった。
積載量と安定性は横帆が秀でている。
ダウ船は縦帆は風を受け止めて、揚力で船を航行させる。
風向きに関係なく、しかも風を利用して、高速性に優れる。
問題は安定性に欠ける事だった。
風を無駄なく利用する為、船体を大きく傾ける必要があった。
船荷がたるの場合はゴロゴロ転がってしまう。
これを解消する為、船荷はコンテナになった。
最終的に馬可尼は縦帆を採用したのだった。
これは、普及していた順風に良く推力を得る横帆よりも帆の向きを変えて、あらゆる風を捕らえるほうを好んだからだった。
こうして帆については決まったが、和船では外洋に出られない。
マラッカ帰りの商人に南蛮船について聞いてみた。
日本国としての正式な交易ルートはまだない。
商人は密貿易の倭寇である。
倭寇「船大工ではありませんが……」
そう言って描いた図面は非常に詳しかった。
馬可尼「和船にはない竜骨と肋骨があるね」
倭寇「和船が桶なら、洋船は樽でございます」
「ほう。してそのこころは?」
「水をかぶると桶は沈みまするが、樽は沈みませぬ」
船体は南蛮船でいく事が決まった。
こうしてスクーナー「甲斐号」のプランは決まった。
だが甲斐信濃には海がない。
そこで駿河水軍に話を持ち掛けるとすぐさま乗ってきた。
飢饉の時に甲斐国の技術は既に実証済みである。
駿東郡をめぐって、小田原北条氏率いる北条水軍と、激戦を展開していたからでもある。
建造の条件は同じものをもう一隻建造することだ。
こうして2隻のスクーナー型外洋船の建造が始まった。
大量の木材板と大量の釘、ねじが必要になった。
締結部品はすでに量産が可能だ(1400-1440)。
木材板は武田工務店蓼科製材所が大量に製材する事が出来た。
大鋸を有するトップクラスの技術がある。
製材の要となる要素に「木取り」がある。
木は木表と木裏があり、何百年という成長の過程で応力が発生している。
ノコ入れでは木表を上に木裏を下にして木横を落とす。
これで木表と木裏だけになり、真っ直ぐな製材を取り易い(アテが少ない)。
最後に木表と木裏を落として角材を切り出す事が出来るのである。
大鋸を使って製材した板を駿河の港に運んだ。清水港である。
ここの造船所を使って、今までにない南蛮船を造船するのである。
苦節1年。
とうとうスクーナー「甲斐号」と「駿河号」が完成した。
だが既に3号船「富士」と4号船「愛鷹」の造船が始まっていた。
高速性と俊敏さは和船の比ではなかった。
駿河水軍はスクーナーの長所に気付いていた。
「もっとスクーナーを造船したい!」
「いいですよぉ」と僧形の馬可尼。
木材、釘、ねじは甲斐国が快く売っ払った。
これまた、莫大な収入となった。
こうして駿河海軍は300隻の船のうち、100隻以上をスクーナーに切り替えた。
こうかはばつぐんだ!
だが奇妙寺の僧形たちは、さらなる発明を秘匿していた。
機帆船構想である。
機帆船とは帆船にエンジンを積んだものだ。
1430-1470年に既にスクリューが、1470-1510年に蒸気機関が発明されている。
これは甲斐号に搭載され、こっそり試された。
巡航超過全力運転だ。
これは29ノット(53.7km/h:無風時)が限界だった。
帆船の最高速は17ノットなので、出ると言えば出る感じである。
帆船は出来た。
では、航法はどうか?
ある僧形が高速で回転するものに安定性があり、軽量なものには安定性が無い事に気付いた。
コマ回しでも木製のコマより鉄製のコマのほうが強い。
また高速で回すほどに安定性が増した。
これの軸を北極星に向けて回してみた。
馬に乗っても、湖で舟を漕いでも北を指している。
この性質は角運動保存の法則というがジャイロ効果と呼んだ方が早い。
発見した僧形の名は「風孝」だったので「フーコーの方位盤」と名付けられた。
これを船の方位盤として利用する事となった。
船がどの方位を向いていても常に北を指している方位盤の完成である。
これを逆に言えば船が今どの方向を向いているかを指す方位盤という事が出来る。
これを海図に書き込めば航路が出来上がる。
さらに精度を上げた時計と組み合わせれば、何時何分に舵を切ればよいかがわかる。
これを自動化すれば放っておいても船が自動的に目的地に着く、自動操縦装置が出来上がりである。
こうして現代でいう「ジャイロスコープ」が完成した。
もはや速力と時計とジャイロのおかげで、どんな海上でどんな天候でも、船の位置が正確に分かった。
ジャイロは絶対ジャイロと相対ジャイロが二基、船舶には搭載された。
ジャイロに回転運動を与える動力はこの時はまだゼンマイであった。
1回巻いておけば、30時間は動力としてジャイロを回し続けた。
1470-1480年には蒸気機関と弾み車が取って代わった。
これを山国の甲斐国で一体何に使うのか?
1470-1480年に馬可尼という僧形が帆船の開発に成功する。
これでマラッカ王国に行こうというのである。
だが海には倭寇という勢力がいる。
倭という名が付いているのは過去の名残であった。
実際は明国(中国)人8割、日本人2割という構成の自由貿易商人、まあ密貿易である。
その外海をマラッカまで行くには、彼らの勢力圏の島伝いには行けない。
とっ捕まって、身ぐるみ剥がされて、終わりである。
だがジャイロスコープがあれば、外海を突っ切って突破できる。
1430-1470年に既に精密時計機構は完成している。
これで何時何分にどの方向に舵を切ればいいか、正確に記録する。
第二次世界大戦の潜水艦は、この方法で操舵している。
こうして船舶用ジャイロスコープ(ジャイロコンパス)のおかげで航路が確定した。
海外への道がひらけたのだ。
だがこれらは海外への喧伝はされなかった。
「いけません」
奇妙寺の諜報機関は海外の不審な動きを捉えていたからだ。
次回は「ポルトガルの魔手」です。