1467年応仁の乱
応仁の乱(1467)まできました。
やっと応仁の乱が始まった。
甲斐国から遠く離れた京都での戦(いくさ)。
野戦病院の設営のために、志願した僧形が戦地へと向かう。
移動手術室は、甲斐の国内は舗装された道路を行き来できるが、他所は困難であった。
僧形たちは分解した部品を背負いながら、野を越え山を越え、戦場に急いだ。
誰と誰が戦っているのか、野戦病院ではどうでも良かった。
次々と運び込まれてくる負傷者を治療するだけだ。
両陣営の侍たちが次々と戦傷で運び込まれてくる。
救急車ならぬ救急馬車や救急輿(こし)が、戦場を走り回った。
移動手術室は戦場のあちこちに設営された。
大きな河川がある場合は病院船が接岸した。
病院船の歴史は古代ローマに遡る。
戦傷者の治療に当たる医療活動を主とする軍船である。
彼らは医療行為以外行わない要件を満たしていれば、攻撃対象にはならなかった。
日本の戦国時代にも不可侵の慣習が自然と出来上がった。
たちまち野戦病院は負傷者で溢れかえった。
だが段々と負傷者の種類が変わってきた。
明らかに一般人が巻き込まれていた。
女性や子供や混じり始めた。
京都の市街地は炎に包まれた。
戦乱は地方に拡大し、もう大戦乱となった。
戦乱を追って、野戦病院は戦場をどこまでも追っていった。
10年にもわたる戦乱である。
よくもまあ、人間の業と欲は深いものよ。
付き従う野武士も、だんだん気力が萎え、目の光が消えていく。
もう戦場での乱妨取りも先細りになっている。
散々に取り散らかした挙げ句に、もう何も無くなってしまったのだ。
村人は山城を構築して、山に籠もるようになった。
山は低山がいくつも連なって出来ている。
沢あり、湿地あり、雑木林ありの人跡未踏の密林だ。
その崖や急斜面にはしごを掛けて、山城を作った。
なんの地政学上の拠点でもない、雑木林の低山の奥地なのだ。
誰も攻め寄せてこない、無駄な場所だった。
戦の間は麓の村を捨て、山にこもる。
ガラス窓まで背負って、山城に逃げ込んだ。
乱妨取りに来た足軽は怒り狂った!
「どうして盗むものがナニもないんだよ!」
ドカッ、グシャッ、バキッ。
むかついた足軽が村に火を放った。
焼け野原になった村は、そのままの廃墟になった。
「ダイジョウブ、シンパイハイラナイヨ」
山城から麓の村が焼ける炎が見える。
呆然と立ちすくむ村人達……。
その村の奇妙寺の僧形はにっこりと笑った。
山城の周りの地質調査が、奇妙寺の僧形によって始まった。
低山の地滑り地帯は湧水が多い。
つまり棚田の構築にぴったりであった。
平家の落ち武者は、地滑り地帯が肥沃であるのを知っていた。
彼らの落人部落はそういう地質の山奥に入植した。
現長野県下伊那郡の「熊谷家伝記」にはそういう記述が残っている。
水はけ良く湧き水あり、土地も地質良く肥沃である。
さっそく開墾が行われ、焼畑で火入れして耕地を造成する。
ガッチリした石垣作りの棚田群が山中奥深くに出来上がった。
腐葉土箱というものがある。
この中に落ち葉と土と秘伝のエキスを混ぜ込んで、腐葉土を作る。
それぞれの農家が一家言持っているこだわりがあった。
「おれんとこは椿灰を混ぜるといいと聞いた」
「それは麹菌のアスペルギルス・オリゼの場合だ」
「おれんとこは乳酸菌籾殻ぼかしだ」
「おれんとこは乳酸菌米糠ぼかしだ」
木灰はアルカリ性だ。
雑菌の繁殖を抑制し、発酵を助ける働きがある。
誰もが木灰だけは腐葉土箱に混ぜ込んでいた。
古来の伝統による知恵であった。
タネになる腐葉土は山の落葉樹の落ち葉である。
古い落ち葉の裏には、白い筋がいくつも付いているものがある。
放射菌のコロニーだ。
そういうのを拾ってきて。何百kgも腐葉土箱に詰め込む。
蓋をして1年待てば、腐葉土が出来ている。
中山間地に「褐色森林土」が多い。
日本には梅雨があり、養分が流され土壌は大体、酸性に傾いている。
これは石灰などアルカリ性のものを撒いて対処出来る。
だが、おおよその検討は付くと思うが、対処療法だ。
定着には微生物が必要なのである。
これには緑肥をすき込む。
水田ならレンゲソウだ。
エン麦もヒマワリもまだ日本に入ってきていない。
ライ麦もまだだ。チャガラシもない。
チャガラシは線虫寄生植物である。
黒あざ病+萎凋病+青枯病に効果があるが、積極的には用いない。
奇妙寺の僧形の指導の下、作物がすくすくと育っていた。
昼はサルが畑を荒らし、夜はイノシシが襲いかかる異郷の地であった。
だが戦乱の間は、このまま山中暮らしで過ごすのだ。
いつの間にか、下界の喧噪とは断絶された理想郷が出来てしまった。
下界では、応仁の乱が続いていた。
有象無象が続ける無意味な殺し合いがダラダラと続く。
それでも足軽が、戦に付いていくのは惰性だろうか?
軍属はもはや給料の出る山賊のようなものだ。
結局、最後まで奇妙寺野戦病院は付き従った。
戦場の西日本を転々と付いて回った。
どこへでも行き、患者を見て回った。
救世軍なのだろうか?
11年間にも続き、延べ数十万人もの兵士が都に集結した応仁の乱。
惰性的に戦闘を続けた挙げ句に勝敗も付かないまま、唐突に終わった。
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奇妙寺の僧形たちは戦国時代を治められる覇王を探していた。
室町幕府管領として、絶大な権力を行使していた細川勝元。
その嫡男の政元に目を付けていたのだった。
武田信長は言った。
「時の権力者に結びつくのが宗教の常だ」
「だが、まだ騒乱は終わらない、時を待つのだ」
「あと50年は甲斐国はまとまらぬ」
信長の諫言を無視した傍若無人な振る舞いだった。
細川政元「自由にお空を飛びたいな」
応仁の乱を終わって奇妙寺は細川勝元の嫡男、細川政元をサポートした。
8歳で家督を相続した時、背後には奇妙寺の僧形がいた。
13歳で元服した時も同じ僧形が立っていた。
「政元様、ファイトです!」
丹波国に幽閉された時も家庭教師として、僧形が付いていた。
その度重なる奇妙寺の教育に染まった政元は、こう言ったのだった。
「自由にお空を飛びたいな」
戦国時代に側近はどう思っただろうか?
空を飛ぶ事など不可能!
天狗にでも変身して飛ぼうと思うたか!
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だが流体力学を学び、スクリュー、プロペラの実験を知った政元は違った。
三角帆の操船で生じる揚力について学び、揚力が生じる原理を学んでいた。
エンジン開発は重量軽減が出来ないため不可能だが、滑空機なら可能である。
「おほほーい」
細川政元は空を飛んだ。
奇妙寺謹製の滑空機による極秘飛行である。
現在ではこれは「ハンググライダー」と呼ばれている。
政元は早速家臣に吹聴した。
「翼に生じる層流が揚力を生み……」
「ソレによって空中を飛び、身体で重心の位置を変え、向きを……」
だが、家臣の顔には決して良い表情は浮かばなかった。
無理解。
嫌悪。
軽蔑。
修験道に狂ったか……。
やっちまったな……。
ダメだこりゃ……。
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その後細川政元は風呂で暗殺された。
後継者争いの結果だった。
これ以降、奇妙寺は甲斐国より外の戦国大名に干渉しなくなった。
やはり、甲斐国の外は無法地帯なのだ。
無理解と畏怖が残酷な結果を生む。
まずは甲斐国を統一して、その後に日本国を統一する。
そういう指針に舵を切る事になったのだった。
次回は1460-1500年ワクチンです。




