1459年長禄・寛正の飢饉
応仁の乱の一因ともなった飢饉です。
1459年は大不作の年であった。
春になっても気温が上がらない。
6月の梅雨はカラカラ天気で、雨が全く降らない。
夏は冷夏で、まったく暑くならない。
かといって、秋になっても一向に気温が下がらない。
そして、いきなり秋を通り越して厳寒の冬将軍。
奇妙寺の僧形たちもざわついていた。
「どうなっているんだよ、お天道様は?」
「太陽系が銀河系の腕のガスの濃い部分を通過してるんじゃないの」
「ええっ、何言ってんだよ、お前?」
「あ、いや、えーと、偶然心に浮かんだ心象風景をだな」
「あー、お前は夢想家だからなあ」
実際問題として、過酷な戦国時代の環境では、銀河も太陽系もどうでもいい。
今そこにある危機をなんとかしなくては。
米は1粒の種モミさえ食べ切った。
カラスムギ、カラスノエンドウさえ無い。
ドングリは夏秋の悪天候で、結実していない。
春の七草といわれるものは真っ先に食った。
命をつなぐのは救荒食と言われる「食べられる雑草」だ。
山慈姑:根を食用に出来る雑草。臼で挽いて粉にし、餅にして食べるべし。
カラスウリ:皮をむいた根を水に晒して、潰して漉す。
粉末にして焼き餅や煎餅にして食すべし、但し蕨粉と合わせてはならない。
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他にもオオバコの若草、ヤマアザミの葉、スカンポの葉や茎……。
字が読めない農民の為に、奇妙寺は「救荒草図集」を製作し、村々に配布した。
奇妙寺も飢餓の嵐に襲われてはなすすべもなかった。
「なんにもない」
「なんにもない」
僧形たちはフラフラと山に入り、戻ってこなかった。
やばい。
池の緑藻をすすって、そのまま死んでいる僧形もいた。
やばい。
もはや勉学の園を気取っている場合では無い。
生命の危機なのだ。
だが、ないものはない。
即身仏になるほかなかった。
無為無策。
やがて年が明けた。
丁翁は南蛮人から「フェレット」なる愛玩動物を引き取っていた。
「母国に帰る船旅で不吉な事が起きる」
その漠然とした予兆で、友人の南蛮人が手放したものだ。
しかし彼の船は本当に難破してしまった。
「この細長い動物は」
「……食べられるのか?」
妖しい光を目に湛えながら、丁翁はフェレットに近づく。
「か……かわいい、ダメだ」
奇妙寺に続々と新年の挨拶の商人たちがやってきた。
あけましておめでとうございます。
挨拶は目で交わす。
もはや言葉を口にする気力も無かった。
商人とはいえ、ないものはない。
飢餓圏外の南蛮からの輸入品は、商人の手に入る事は入る。
だが、絶対量の不足は、如何ともしがたい。
丁翁はフェレットを奇妙寺の僧形に差し出した。
「何かの足しにしてくだされ」
「何かのって、こんなかわいい動物を!」
「私は行商を生業とする商人です」
「連れ歩くわけにはいきません」
「そうですか、それなら」
その僧形は脇差しを手にした!
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「これと交換でどうでしょうか?」
そのフェレットはどんどん増えていった。
え、分裂してんの?
実は南蛮人からフェレットを貰った商人はもう1人いたのだった。
彼は甲斐国の農家にフェレットを預けたが、それが奇妙寺の1匹と巡り会っていた。
オスとメスが合体したら、ヤルことはひとつしかない。
さあ、大変だ。
フェレットは猛烈な勢いで増え始めた。
これだけ飢餓が続いても、フェレットは食用にならなかった。
「かわいい」「たのしー」「なごむー」
下々の農家にいたるまでフェレットを飼っていた。
飢餓の原因の天候不順は、全然回復の兆しを見せていない。
飢餓に対する備えをなんとかしなければならない。
肥料も農薬も異常気象は止められないのだ。
缶詰もいいが、詰めるものがなければ話にならない。
奇妙寺は、1505年に南アメリカに出立する。
その時発見するジャガイモやトウモロコシ、カボチャが飢饉を救う。
それまではなんとかして生き延びねばならない。
「なんとか、なんとかしなければ!」
だが作物は全滅、食べるものがない。
こんな調子で飢饉は6年間、1465年にまで低空飛行で続いた。
将軍、足利義政の京都の都も例外ではない。
義政「なんとか、なんとかしなければ!」
「そうだ、南蛮人から聞いた逸話を日本でもやらるれ!」
義視「兄上、呂律がおかしゅう御座います……」
古代エジプトでは公共事業としてでかい建造物をたてたのだそうだ。
「ぺらもっで」とかいう何かだ。
名前は忘れた。
早速、義政も寺から銘木銘石を集めて、私邸に移動させた。
一大土木工事である。
多くの貧民を雇い入れて、運送賃金を振る舞った。
だが、庶民の目は飢饉の為におかしくなっていた。
「こんなくだらないものの為に、銭を使いやがって」
「木や石が食い扶持の足しになるけー」
益々、幕府への不信感は募っていった。
1459年9月、台風の影響で琵琶湖が氾濫し、川下の鴨川沿いも氾濫した。
京都の町は水害で死傷者が続出、京への米の搬送が止まり、餓死者が出た。
ところが、京都でも飢饉は続いた。
春には気温が上がらず、梅雨には雨が降らず、夏は令夏続いた。
と思えば、秋は大雨で稲は立ち枯れ、農民は土地を捨て、流亡し始めた。
奇妙寺の僧形は無為無策であった。
飢饉につきものの疫病が発生した。
秋には不作の上に、イナゴの大発生を許した。
「すまぬ、すまぬぅ」
僧形たちもひたすら祈るしかなかった。
「いや、出来る事はあるぞ!」
そう言ったのは蝦夷地開拓事業部の僧形だった。
「なんだ、土一揆の扇動ならダメだぞ」
「そうだ、押し込み先も何も無いからな」
「ちょっと頭を貸したまえ……」
僧形たちは何かを相談し合っていた……。
それは甲相駿三国同盟であった。
「出来るわけない」
「不可能だ」
「だからやるんだよ」
武田信昌「なんだと、三国同盟?」
今川義忠「政敵と和睦せよと申すか」
北条早雲「ダメダメダメ、ダメ絶対」
享徳の乱で今川義忠と武田信昌は、室町幕府の命令で共に関東へ出陣した経緯がある。
不可能ではない。
政治的背景と経緯は奇妙寺が画策した。
武田氏からは農業機械の供出、今川氏+北条氏からは水軍の援助である。
今川氏は当時斯波氏と争っていたが、奇妙寺の仲裁で休戦させた。
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こうして、なんとか三国同盟をまとめた奇妙寺。
遠交近攻を食い止めるのに必死だ。
「とにかく1年は同盟を維持して下さい」と奇妙寺の政治僧形。
武田、今川、北条の面々の顔は引きつり、プルプルしていた。
いまにも破綻しそうである。
一方、今川の造船所では着々と準備が進んでいた。
今川水軍の安宅船を改造して大型母艦とする。
関船を改造して製氷船とする。
二酸化炭素ボンベを使い、ドライアイススノーを作るのだ。
それを小早船に搭載して、漁場に向かう。
採れたそばから、現場で魚にぶちまけて鮮度を保つ計画である。
漁場はどうするのか?
犬吠埼沖合の漁業について奇妙寺僧形が調べた。
犬吠埼を中心に鹿島灘から九十九里海域の大陸棚が主漁場らしい。
漁師の言い分によれば、水深50m以浅の浅海域は小石混りの砂質域である。
50m以深は砂泥帯で80m付近に岩盤や礫が分布している。
出漁回数と利用海域については綿密な記録がある。
これは隣接する常陸国(現茨城県)・下総国+上総国(現千葉県)の漁業との利権の競合を避けるためだ。
これによれば鹿島灘中部、犬吠埼沖合、九十九里海域が高密度に利用されていた。
漁場は決まった。
漁業は沿岸+沖合漁業で行う。
底曳き網漁、まき網漁、棒受け網漁だ。
{まき網漁は第二次世界大戦後に日本に入ってきました}
{その前身のあぐり網漁は初出が明治21年、米国の巾着網から発想を得ています}
{ここでは奇妙寺僧形が開発しました}
異常気象により親潮と黒潮は沿岸に遠近を繰り返していた。
ニシン+サケが豊漁の時はイワシが捕れない。
イワシが豊漁の時はニシン+サケが不漁である。
つまりどっちかが豊漁なのだ。
コレを冷凍技術を使って、お刺身鮮度で駿河国の清水港に水揚げする。
清水港には甲斐国から缶詰技術を提供し、工場を建設した。
武田信昌「ふしゅるふふふっ」
今川義忠「これがウワサの甲斐の天狗の仕業か」
北条早雲「奇妙寺の僧形はバケモノか」
ダウ船に改造された小早船は向かい風でも操船出来る。
「エリュトゥラー海案内記」を手に入れた際に奇妙寺はダウ船の構造を知った。
南蛮人が得意そうに吹聴していたのだ。
これで遠洋漁業に出発した。
ニシン南限は犬吠埼だ。
小氷河期化によりここまで来ていた。
九十九里だより「刺し網漁ニシン豊漁」
犬吠埼ニュース「沖合底引ニシン好調」
鹿島灘日刊漁協「トドの食害に注意!」
地元漁師たちはザワついていた。
「普通、採れるアジやヤリイカが全然入ってない……」
「トドがいるし」
「食害だし」
船団は漁場を求めて犬吠埼沖に集結した。
もう陸は見えないし、海流が激しく、方角も不定だ。
「どっちが陸だ?」
「どっちを向いても……」
「やめろ、歌ってる場合かよ」
そこへ同乗の奇妙寺の技術僧形が現れた。
僧形「あっちッス」
船員「ええ、おまえ船乗りかよ」
「違うッス」
「じゃあ、なんで方向がわかるんだよ」
「ジャイロスコープでわかるッス」
「ああ、奇妙寺の天狗の仕業か……、分かった」
船団は満載のニシンとサケを載せて、清水港へ真っ直ぐに向かった。
ジャイロスコープ(方位盤)は試作歯車装置である。
実際の利用は{1470-1510帆船}の回からになる。
陸揚げされたら直ちに頭と内臓を抜いて、ブツ切りにする。
それを缶詰に生のまま入れて脱気する。
120℃30分加熱、圧力釜の効果で骨まで食べられる。
この技術に目を付けたのがカツオ+マグロ漁師だった。
彼らも設備の一部をレンタルして材料を提供しだした。
魚肉油漬け(シーチキンツナ)缶である。
海流の沿岸への遠近が激しく、漁業高は不定である。
だが、飢饉の原因である異常気象が収まれば、その時は売れる筈だ。
未来を見据えた投資であった。
こうして全国に魚の缶詰が出回り始めた。
やがて、猛烈な勢いで流通が始まった。
食べるものはこれしかなかった。
戦国時代の人口はだいたい1000万人だ。
1日1万個でも1000日掛かる……。
僧形「やるしかない」
工場が稼働中に次の工場を建て、その工場が稼働中に……。
こうして3ヶ月後、3つの工場で3万個/1日が生産ベースとなった。
さらに10ヶ月後には10工場10万個/1日となった。
100日で飢饉はまあ、収まった。
いや、これはこれで凄い事だった。
1日魚の缶詰1人当たり1缶なのだが。
応仁の乱の一因ともなった飢饉。
これで応仁の乱は……。
だが人の業はそう単純ではなかった。
次回は「応仁の乱」です。