1420-1438年日本住血吸虫症000(起因菌)
日本住血吸虫症に立ち向かいます。
甲斐の国で避けて通れないのが、「日本住血吸虫症」という、甲府盆地特有の地方病である。
1420年。
最初に患者の分布が確認されたのは、松戸彩円が富士川水系流域を訪れた時の事であった。
「泥かぶれ」といって泥作業の後に手足に赤い斑点がまず現れた。
そして腹が膨れて(腹水)、最終的には死に至る、治療不可能な地方病であった。
地方病というのは山一つ隔てた所では全く発症しなかったからである。
腹腔内の腹水の貯留は、肝硬変の身体所見の顕著な症状だ。
門脈(肝臓へ至る静脈)の圧が亢進して、門脈圧亢進症になる。
機序は
①門脈圧上昇により、毛細管圧が上昇する
②肝臓表面および肝外門脈枝から、水分が漏出する
③腹部や骨盤底に水分が貯留する
となる(現在医学による解析)。
戦国時代の認識はここまでではなかった。
当時、肝硬変は酒疸と呼ばれ、みぞおちが硬くなり腫れ上がった。
黄疸症状が出て、飲食が出来ず、喉の渇きが激しくなった。
最も一般の原因は飲酒過多だが、今回の腹水は原因は違っていた。
「泥かぶれ」を発症した者に限られる所見なのだ。
これは何らかの寄生虫によるものに違いない。
肝臓が侵されるのはその結果である。
裕福な層がまったく発病しない病気である事も不思議であった。
井戸水など、飲料水からの経口感染ではない。
では畜産の動物感染だろうか?これも違った。
森林伐採の際のヤマダニからの細菌感染?これも違った。
唯一確かなのは、小川で遊んでいた子供や水田で作業していた大人達が感染した事だ。
感染経路は泥水との接触によるものではないか?
感染者グループを分けると完全に一致した。
泥水に触れなかったグループに感染者は1人もいなかったのだ。
これで富裕層に感染者がいない理由も明らかとなった。
農民は水田で泥に漬かるが、富裕層はそんな事はしないからだ。
{例外:武田24将の小幡昌盛は1582年3月日本住血吸虫症で死亡したとされている}
案外、川遊びや泥遊びが好きな、お茶目な武将だったのかもしれない。
1421年。
寄生虫は宿主がいないと生きてはゆけない。
早速、淡水の魚や貝などの中間寄宿主を、顕微鏡を使って徹底的に精査した。
詹森という僧形が南蛮渡来の眼鏡の凸レンズの研究から試作した。
この頃の顕微鏡は初期の初歩でしかない。
凸レンズだけなので、色収差がひどい。
中心以外は全部ボケボケである。
だが、ないよりましだ!
顕微鏡を使って、はいずり回るように探し回った。
寄生虫は体内で虫卵を産み、排泄物と一緒に体外に排出される。
そして中間寄宿主を介して、再び体内に戻って来る。
だが見つからない。
検体から採取した成虫が見つからない。
実は、日本住血吸虫は、環境によって変態して形状が違うため、見落としていたのだ。
卵を産む成虫(哺乳類寄生)、水中形態(ミラシジウム)、巻貝に寄生(スポロシスト)、経皮感染(セルカリア)である。
スポロシストは車を乗せたフェリーのように、多数の娘スポロシストを内包して育つため、さらに厄介である。
人間のみならず、動物にも寄生するため、猫や牛でも腹が膨れているのが散見されている(哺乳類寄生)。
もうこうなったら、どれが中間寄宿主か、総当たり(ローラー)作戦でいくしかない。
1種類づつ、甲斐の富士川水系流域に棲む巻貝を全部集めてきて、感染実験する事になった。
1422年。
感染実験開始。
巻貝を、実験室で卵から孵化させ、無菌で飼育する。
それに検体から採取した虫卵が付着した大便や尿を滴下する。
最初はタニシを疑った、しかし違った。
次にカワニナではないかと疑った、しかし違った。
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……。
……。
実験では、大便や尿から卵が孵化し、巻貝に侵入し寄生する(ミラシジウム)の追跡をした。
1422年6月。
3ヶ月に渡る追跡実験の結果、中間寄宿主を遂に発見した、ミヤイリガイである。
顕微鏡で巻貝の体内で分裂変態(スポロシスト)を続けるのを観察した。
最終的に巻貝から水中に泳ぎ出てくる(セルカリア)を確認した。
無菌でなければ発見は難しかったであろう。
ミヤイリガイ内には多くの原虫、線虫、吸虫が寄生しているからだ。
無菌だからこそ、日本住血吸虫を見つけたのだった。
ついに日本住血吸虫の感染経路が解明された。
泥に浸した手や足の皮膚から侵入した「経皮感染」である事も、動物実験で判明した。
ミヤイリガイを絶滅すれば、日本住血吸虫も絶滅する。
早速殺貝剤として石灰窒素や砒酸石灰、砒酸石灰が次々と撒かれた。
有機燐剤,硫酸アンモニア,過燐酸石灰,塩化カリ,食塩も試された。
しかしそれは無理な話であった。
ミヤイリガイ1匹は卵を1200個も産卵する。
その1匹に日本住血吸虫(セルカリア形態)だけでも約3000匹が寄生していた。
生息地がある限り、選択的にミヤイリガイだけを全滅させる方法はなかった。
1422年8月。
結局、地元との交渉の結果、生息地の水田を破壊して、ミヤイリガイの生息を絶つ事になった。
水田を埋め立てて、畑にするか、地盤改良として整地してしまうか、である。
この地域だけの地方病なのだから、水棲生物環境を干上がらせば良い。
1423年。
すべてのの農民は整地する造成を選んだ。
即金の耕作遺棄助成金も効果があったようだ。
地盤改良の為の表面の土の鋤取りを行なった。
次に20cm程度の割栗石を敷き詰めて、ランマー(タコ胴突き)で転圧する。
最後に粒径の小さい砕石を割栗石の隙間埋めに使い、ランマー(タコ胴突き)で転圧する。
地盤改良をすると、もはや草木は根を生やす事が出来ない、人為的な荒地である。
2年に渡って造成を繰り返した結果、ミヤイリガイは全滅したのだった。
1430年。
だが結局は生活排水に含まれる洗剤が絶滅に一役を買って出たのであった。
洗剤成分の界面活性剤がミヤイリガイを含む淡水魚貝類を全滅させたのである。
長い間、ほったらかしだった下水汚染が1番の薬だったとは皮肉な話である。
1433年。
数年後に下水設備が整った後、ミヤイリガイはこの地方からいなくなっていた。
それに伴って日本住血吸虫症もなくなってしまった。
1438年。
5年間、発症例は遂にゼロとなった。
こうして甲斐盆地に蔓延った日本住血吸虫症は終息したのである。
1530年。
また灌漑水路をすべてコンクリート構造とし流水の速度を速め、ミヤイリガイを生息出来なくした。
これは自然な水路(小川や堰)の淀んだ水が、貝の産卵や生育に必要なためだ。
他の生物も姿を消すが、これはどうしようもないことだった。
5年に渡って、すべての灌漑水路がコンクリート化された。
これには異論もあったが、強引に実行された。
ミヤイリガイのミヤイリは発見者の宮入慶之助によります。
明治時代の人物で戦国時代には生まれていません。
ですが、名称の説明の為にそのまま使用しています。
次回は日本住血吸虫症の駆虫薬編です。




