1399年奇妙寺前史001(医療と看護の閃き:試作)
松戸彩円も理屈では分かっていた。
棒状の鉗子を創傷に突っ込み、先端の鋏で鏃を挟み込んで引きずり出せばいいだけだ。
創傷部にとどく深い挿入部。
鏃を掴む先端の強力な把持部。
異物を補足し回収する機能性。
1度にやろうとするから出来ないと萎びてしまう。
松戸彩円「あきらめたら、そこで終了だ……」
なんとかして戦国の技術(1399年)で挑戦だ!
それには、次の諸元が必要だ。
1)長さ200mm、直径10mmの真直度の正しい中空の金属管
2)その先端に遠隔操作で開閉する把持鉗子
3)手元部に開閉を操作するハンドル部
がどうしても必要だ。
調べてみると鉄砲鍛冶で作る事が出来そうだ。
ヨーロッパからの鉄砲伝来は1543年だが、東アジアでは1390年から「火器の時代」が始まっていた。
ここでは中国からの伝来(倭寇密貿易)のほうが早かった説を採用している。
中空の金属管は、銃の銃身を作る工程で製作可能だ。
瓦金(かわらがね:薄い鉄板)を芯に入れて筒の形にする。
これで中空の金属管は完成だ。
この方法は古代ローマで水道管を製作する方法と似ている。
薄い鉛の板を木型に押し込み、接合部を焼きゴテで閉じる。
鉛は柔らかい金属なので、簡単に冷間加工できた。
水道に鉛管を材質に使った事は、鉛の溶出を考えれば、あまり良くない。
しかし日本では、1970年に禁止されるまで、水道管としてかなり使われていた。
鉛管は貯め置きの場合と違い、流水では溶出は少ないと考えられていたからだ。
2004年度の基準値は0.01mg/Lであり、人体に影響がないとされている。
ただし用心の為、 朝一番の水は鉛の溶出があるかもしれなかった。
前日の夜から水道水が鉛管内に貯留しているからだ。
バケツ1杯は雑用水として使う等の配慮は必要とされている(2014年度指針)。
ローマは鉛製の水道管で中毒になったのではなかった。
鉛中毒の原因は他にあった。
当時のワインは発酵が過度にすすみ、酸っぱい味だった。
これを鉛の容器に入れておくと化学変化により酢酸鉛を溶出する。
2CH3COOH + PbO → (CH3COO)2Pb + H2O
これは鉛糖(Sapa)と呼ばれ、歴史的に砂糖の代用物だった。
殺菌作用があり、ローマ軍は食料防腐剤として使用していた。
鉛糖(Sapa)は鉛鍋で煮込み、シロップにすると甘みがさらに増した。
また、肉の旨みを改善するとして、アヒルや養殖ブタにも与えられた。
飲み物にも食べ物にも鉛が含まれていた。
もはや、鉛祭りである。
さて、鉄砲の製作工程の話に戻ろう。
鉄砲の銃身ではないので巻き張り工程は不要である。
巻き張りとは、トイレットペーパーの芯みたいに、クルクル鉄帯を巻く工程だ。
瓦金を中空管にするのは簡単なようだった。
「これなら可能ですね」と鍛冶屋。
把持鉗子は金物細工師に特注の変態ハサミを作ってもらった。
匠「なんですか、これは?」
彩円「まあまあ、鏃を抜く器具だよ」
匠「はあ、そうですか」
首をかしげながらも精密な特注変態ハサミ、把持鉗子が出来上がった。
やはり手作りの技術は、匠にもなると壮絶に精密仕上げである。
充分に実用に耐える一品となった。
ハンドル部はハサミの丸柄そのものである。
こうして鏃を抜き取る把持鉗子が出来上がった。
要は直感とインスピレーションなのだ、
戦場での効果はテキメンだった!
抜けない鏃はもう無かった。もう矢は抜けるのである。
松戸彩円の発案した医療品は猛烈な勢いで売れ始めた。
自分の奇妙寺に工房を設けて、僧形達は日夜、把持鉗子を作り続けた。




