1410-1450年錬金術から化学へ000(前化学時代)
硫酸を緑礬を乾留して製造します。
工業的には接触法で濃硫酸を生成します。
しかし、まだ奇妙寺は気付いていません。
15世紀中期。
当時は、初歩の化学として、前化学時代に入っていた。
蒸留、乾留、昇華、蒸気加熱、金属塩や酸化化合物の発見が始まっていた。
古代インドのグプタ朝時代(320-550)ではすでに工業開発が始まっている。
特に冶金術はヨーロッパに比べて、はるかに秀でていた。
古代から知られていた鉱物は以下の通りであった。
金、銀、銅、鉄、スズ、鉛、水銀と(非金属の)炭素、硫黄。
なかでも、水銀は不可解な流動性金属で、硫黄は金色に輝く鉱物だった。
ここで前化学は過ちを犯してしまった。
この2つはいかにも、金色に輝く純金になりそうだったのだ!
純金!これさえ合成できたら夢のような話である。
錬金術師は必死になった。
水銀をどんどん加熱し始めた。
水銀は350℃に加熱すると赤色の酸化第二水銀となった。
赤色の酸化第二水銀をさらに400℃に過熱すると黒色の酸化第一水銀となった。
黒色の酸化第一水銀をさらに500℃に過熱すると水銀と酸素に分離するのだった。
化学反応を理解して見ていた訳ではない。
この3段階変化に錬金術師は心打たれたのだった。
自然の環境の中で水銀はゆっくりと金に変わったのではないだろうか?
そしてこれには硫黄がかかわっているのではないだろうか?
そのプロセスさえ分かれば、金を合成する事さえ可能だ!
だが1000年にわたる無駄な努力の結果、錬金術は廃れた。
松戸彩円も最初はなるほどと思った。だがすぐに撤回した。
もしAという物質と、Bという物質が反応して、Cという物質になるとしよう。
それならば、ABCが混ざった物質も見つかるはずだ。
つまり、金になりかけの硫黄とか、金になりかけの水銀が発見されなければならない。
しかし、そんなものはない。錬金術はまやかしなのだ!
だが1000年にわたる試行錯誤の結果は、さまざまな実験結果を残してくれた。
アラビアの錬金術師ジャービル・イブン=ハイヤーン通称(ゲーベル)などがその実例であった。
ゲーベル(721-815)は乾留(蒸し焼き)を用いて、初めて硫酸を精製する方法を発見した。
この時使われたのが、ランビキという蒸留に使うガラスの実験器具だった。
加熱+乾留+集気+冷却が出来る構造で、現在の化学でも基本は変わらない。
またさらに強い硝酸についても生成したとみられている。
それ以前は植物由来の酢が主流だった。
(ビネガー)酢酸が最も強い酸だった。
植物由来の酢に、どんな鉱物を入れても反応は起きない。
とても弱い酸だったのだ。
これに比べて、鉱物由来の鉱酸である硫酸は、猛烈に強力だった。
この硫酸の登場によって、酢では溶けなかった(起こらなかった)反応を実験する事が出来た。
彼は意図して硫酸を発見したのではなかったが、これが後世の化学に革新的な変化を与えた。
この硫酸に食塩を加えると塩酸が出来る。
塩酸もまた鉱酸であり、これが後世の化学に革新的な変化を与えた。
こういった地道な実験が繰り返され、繰り返され記録されていった。
これについて松戸彩円はポルトガル語の翻訳を通じて知った。
ポルトガル人はアラブ人から知った。
アラブ人はペルシア人から知った。
ペルシア人はインド人から知った。
インドのヒンズー教徒の化学と産業はイスラム教徒によって簒奪されていた。
絵図がある訳でも無く、化学反応式も確立していない戦国時代である。
「緑礬を乾留して冷やせば硫酸を得る」
このたった一行の文章だけであった。
現岡山県高梁市にある備中緑礬山では硫酸塩の鉱物を産出する鉱山がある。
肝礬・緑礬・赤礬といって軟膏やベンガラ(壁などの塗装材料)に使われる。
この緑礬を密閉したフラスコに入れ、乾留(蒸焼き)する。
できた蒸気を集気びんに集める。
びんを冷やして液化する。
それが硫酸である。
硫酸は食塩と反応して塩酸に生ずる。
硫酸に食塩を作用させると残渣として硫酸ナトリウムが残る。
硫酸ナトリウムは、自然界では、温泉の代表的な含有物質でもある。
逸話では放牧していた牛が、この湧水を飲んで下痢をした事で発見されたとある。
硫酸ナトリウム下剤として知られ、人体に対する安全性も高かった。
こういった副産物も記録されていった。
硫酸は硝石と反応して硝酸を生ずる。
これらはビンに蓄えられて、やがてくる化学実験に使われるのだった。
次回は「二酸化炭素の発見ほか」です。