1606年欧州征服
ピエール・ド・ブールデイユ・ブラントーム。
フランス軍の軍人だったが1584年に落馬事故、フランス奇妙寺高度医療センターの厄介になる。
フランスは奇妙寺の同盟国ではないが、医療、鉱業、農業だけは特別扱いである。
宿敵イギリスに出遅れる訳にはいかない、それが本音だった。
落馬してすぐ大手術を受け、半身不随のところを健体を取り戻す。
本来なら両足切断、右腕不随、左目失明の大事故である。
以後奇妙寺僧形となり、諸外国を転々とし、多くの見聞録、回顧録を残した。
1589年フランスでは、アンリ3世が暗殺され、ヴァロワ王朝が断絶する。
王位を継承するはずのアンリ4世はブルボン王朝を開闢せず、王政はここに途絶えた。
またアンリ4世はプロテスタントのまま、総裁政府体勢に着手したため、国内は大混乱に陥った。
国内の大部分、裕福な聖職者と大金持ちの貴族はカトリック体勢だったからである。
ここでフランス政府はピエール・ド・ブールデイユ・ブラントームを呼び戻し、鎮圧に当たらせた。
国内外を漫遊し、民族間の機微まで知り尽くした彼の辣腕は凄まじいものだった。
彼は国外のスペイン侵入までも食い止め、国内軍最高司令官にまで登りつめた。
この後も不安定な国内世情は、相次ぐクーデターを生み出し、国内外に不穏な情勢が続く。
国民は軍事力と政治力を発揮する軍事政権を望むようになってきた。
こうした支持を背景に台頭してきたのが、彼、ピエール・ド・ブールデイユ・ブラントームだった。
遂に1599年、クーデターにより総裁政府を倒したピエールは総領政府を築き、自らが第一統領となった。
奇妙寺僧形が国家最高位に就いたのである、フランスは奇妙寺同盟国となった。
これにより、1589年から始まる筈のブルボン王朝は急遽、終焉を迎えた事は前述した。
つまりブルボン王朝のルイ16世までの系譜は諸侯に戻り、マリーアントワネットはマリア・テレジアの第11子のままだ。
ベルサイユ宮殿は建築されず、ルーブル宮殿は増築を停止した。
フランス革命は性急に起こらず、ギロチンの出番はない。
ナポレオンは200年後にコルシカ島で生まれたが、普通の軍属として一生を終えた。
ついにフランスまでもが奇妙寺の手中に転がり込んできた。
ピエール第一統領はイギリス上陸作戦を立案する。
ピエールは盟国スペインに協力を求めたが、返事はしどろもどろであった。
とにかく仏西連合艦隊を組み、体制を整えた。
2500隻の上陸用舟艇もブローニュの地に待機して、準備万端である。
1605年トラファルガー沖海戦が勃発する。
英艦隊と仏西連合艦隊の海戦は、イギリスの勝利に終わる。
イギリスは難を逃れた。
1605年アウステルリッツの戦いが起こる。
オーストリア・ロシア連合軍対フランスの地上戦はフランスの勝利に終わる。
ここでイギリスはオーストリア連合軍の一翼を担ったが敗北している。
フランスはトラファルガー沖海戦の借りを返した格好であった。
1606年イエナの戦いが起こる。
プロイセン対フランスの戦いはフランスの勝利に終わる。
敗北したプロイセンは国内の封建制度を改め、国民国家としての道を歩みはじめる。
1606年ベルリンに入場したピエールはベルリン勅令(大陸封鎖令)を発布する。
ついにフランス・ドイツまでもが奇妙寺の手中に転がり込んできた。
1606-1610年オランダはフランスの猛攻に耐えきれず、瓦解しフランス領となる。
ついにフランス・ドイツ・オランダまでもが奇妙寺の手中に転がり込んできた。
1607年フランス軍はポルトガル国の首都リスボンを占拠、王族はブラジルに脱出した。
フランス・ドイツ・オランダ・ポルトガルが奇妙寺の手中となった。
1608年フランス軍はスペインに侵攻、打って変わって懐柔策に出た。
民族的抵抗意識の強いスペイン民族の血を懐柔する戦略である。
庶民や農民には、減税策や、農村の自給自足経済を優遇したため、むしろ歓迎された。
むしろ蜂起は、現封建政経打倒に向けたゲリラ活動や独立運動へと偏向されていった。
これが独立戦争へと発展し、スペインのハプスブルグ朝は倒された。
フランスはスペイン新政府と同盟し、スペインを離れた。
1612年フランスはロシア遠征を企てるも、先遣隊が露国の寒波に撤退を余儀なくされ、計画は頓挫した。
結果、691,500人もの大軍を率いてのロシア遠征は不可能と判断し、実行されなかった。
国民も相次ぐ戦争に疲弊し、国家の国庫は底が尽きかけていた。
ピエール第一統領「なんとかならぬものか、そうだ、またせん……」
奇妙寺僧形「ちぇいすとうっ」
ピエール第一統領「うわ、びっくりした、なんだよ」
僧形「日本の奇妙寺総本部の財務担当に知り合いがおりまする」
ピエール「おお、まかせたぞ、よろしくやってくれたまい!」
もはや奇妙寺というだけで、何かしらの安心感があったのである。
奇妙寺はここで経済流通システムの遅れていたフランスに資本と共に乗り込んできた。
郵便制度、国内共通貨幣、銀行、やることは山程ある。
まず国家を救うのは国債の発行であり、即効性がある。
ここで奇妙寺(日本)とホープ商会(スコットランド)は5%利付公債を国から請け負って、宮廷日本人となり、発言権と地位を得た。
<これによりロスチャイルドの創始者マイアー氏は普通の銀行員として一生を終える>
奇妙寺五頭と言われる武田家、島津家、毛利家、今川家、北条家が、それぞれ銀行を統括する。
フランクフルト、ウイーン、ロンドン、ナポリ、パリの5ヶ所の銀行だ。
銀行は郵便制度の近代化や、各国の鉄道事業の拡大にも盛大にファイナンスした。
国際的信用と人脈は大いに評価され、フランスの国庫は潤った。
ロシア、オスマン帝国は沈黙を守っている。
ロシアはウラル山脈以西を統べるヨーロッパの中堅国家となっていた。
ロマノフ王朝は発祥せず、現在はポーランド・スウェーデン・奇妙寺の三頭政治で統治されている。
ピエールはアウステルリッツの戦いで、ロシアが奇妙寺から貰い受けた100億円の金塊を探したが、未発見であった。
中央アジアのオスマン帝国は奇妙寺寄りの同盟国だ。
そのオスマン帝国海軍が、地中海の覇権を握っている。
イギリスは独立を守っている。
オーストラリア幕府の織田信長の供出した軍資金で孤高を守っている。
アフリカとの綿の通商により、莫大な利益をモノにしている(イギリス東アフリカ会社)。
東アフリカの織田・マリ王国との独占通商だ。
織田・マリ王国は、奇妙寺僧形3人の治める三頭政治国家だ。
イギリス-織田・マリ王国-奇妙寺は奇妙な縁で繋がっていた。
欧州の地図は大きく塗り替えられた。
とうとう奇妙寺の勢力範囲は欧州まで手に入れたのだ。
次回は1616年清国vsイギリス(1/2)です。