1598年秀吉死す
1598年。
秀吉が死んだ。62歳だった。
オーストラリア幕府という巨大帝国の勃興を夢見て、走り続けていた矢先の事だった。
織田信長は65歳、信忠は44歳である。
秀吉の後継者は、蜂須賀正勝の嫡男、蜂須賀家政(41)が任命された。
土木が得意な蜂須賀氏の就任は、「鉱業」が豪州国庫の要である為、まさのうってつけであった。
信長は全世界の流通と産業の現状を冷静に捉えていた。
オーストラリア幕府は、日本とも同盟国として大々的に取引を持つようになった。
南蛮国とはイギリスとも取引をしていた。
1583年に関ヶ原で敗北し、国外追放となった信長。
しかし処女地のオーストラリアを征服した信長。
信長はもう日本という小さな島国に興味はなかった。
スペインではフェリペ二世がポルトガルを併呑し、同君連合となった。
<そのフェリペ2世もどうやら虫の息らしいが>
大国フランスではピエール第一統領が総領政府を開こうとしている。
ネーデルランド(オランダ・ベルギー)はもうすぐ独立するだろう。
ドイツは封建制度から抜け出し、新しい独立を勝ち取ろうとしている。
スウェーデンは西欧で初めての銀行発行劵を始めようとしていた。
そのスウェーデンはポーランドと結託して、ロシアを睨んでいる。
昨今、なにがしかの争いになるだろう。
イタリアでは商人が簿記を始め、公証人制度を打ち立てようとしていた。
イギリスでは、ノブナガの協力で、なんとなくスペイン無敵艦隊を追い返した。
議院内閣制とやらを採用した油断ならない島国である。
もはや世界経済の市場は、地域ではなく全世界規模なのだ。
イギリスとオーストラリアを往復し、信長は身をもって知ったのだ。
オーストラリア幕府はイングランド私掠船との取引の縁から始まっていた。
イギリスとの取引は重要だ。
欧州のいさかいを知れば、全世界の経済の潮流が見えてくる。
南蛮とは南方の野蛮人の蔑称だが、そんな事を言っている場合ではない。
奇妙寺の言うように、戦国時代をやっている場合ではない。
風の噂によると、どうやら日本は奇妙寺によって統一されたようだ。
よし、奇妙寺よ、日本はお前らにまかせた、オレはオレでここで好きにさせてもらうよ。
織田信長は日本の覇王になるのを辞める決意を下した。
これに内心ホッとしたのが、皇統連綿を願う光秀である。
明智光秀。
外交は彼の得意分野であるが、彼ももう71歳。
嫡男の光慶(みつよし:30)に席を譲る時が来たと思う。
「まだまだ現役でございまする」とは光秀の弁だ。
忠臣光秀は信長の天下布武による天皇制崩壊を最も恐れていた。
だが信長が日本の覇王になるのを辞めた今、その恐れも無くなった。
この異蛮の地に赫奕たる異端、異能者信長と共に骨を埋めるのもまたよかろう。
安国寺恵瓊はドーバー海峡で行方不明になったままだ。
やはり高齢であり、命運は尽きたのだろう。
オーストラリア大陸の東にはニュージーランド島があり、南にはタスマニア島がある。
ニュージーランドには恐竜ならぬ恐鳥がいた。モアである。
絶滅寸前のところを辛うじて救出し、現在は牧場で飼育増殖中である。
このモアをエサにしていた、でかい鳥さんがいた。
翼端長3mのハルパゴルニスワシで、もの凄くでかい。
だがこれは絶滅したのか、既に見かけなくなっていた。
まあ、エサのモアを牧場で確保したので、エサがないからな……。
この2島は畜産に適したため、牛さんや羊さんを放牧している。
「日本じゃないから言うが、焼き肉は美味いな」と信長。
タスマニア・ビーフはマラッカの日本人町に人気の輸出品だ。
「日本じゃないから言うが、焼き肉は美味いな」とマラッカ日本人町の住人。
マラッカは奇妙寺支配の及ぶ同盟国だ。
反逆者ノブナガの貿易は厳しく制限されているのでは?
日本から8100km離れた当地では、信長との貿易はユルユルで、厳しく制限されていない。
いいものはいい、それだけが、価値あるモノの評価なのだった。
信長は1598年に家督を信忠に譲った。
征夷大将軍というわけにはいかない、朝廷から官職を得るわけではない、単なる首長である。
いわば執政官とか統領、つまり「コンスル」に当たるだろう。
信忠「第一統領、織田信忠であ~る」
威風堂々、玉座に座った信忠。
玉座の信忠は右手に「完遂の笏」、左手に「信長の笏」を持ち、頭に金のカンガルーとエミューをあしらった王冠を被っている。
まさしくオーストラリア幕府第一統領に相応しい立ち振る舞いである。
副官トゥウンバはアボリジニ人でケアンズ周辺を統括するジャプカイ族出身だ。
イギリス人の蛮行千万を取り締まる法律を施行した、法務にも詳しい。
現地人で構成される政府要職はまさしく一枚の岩盤であり、盤石の備えである。
数世代後には、アボリジニの連邦共和国になることも可能だった。
もはや信長がいなくでも国政は揺るがないだろう。
その後、信長はオーストラリアを信忠に任せて、欧州外遊に出発する。
イギリスは豪華絢爛というより質実剛健であったが大陸側の大国は違っていた。
南蛮と馬鹿にしていた欧州の実際に触れれば、ただ驚くしかなかった。
また奇妙寺の勢力範囲にも、ただ驚くしかなかった。
特にケルンの大聖堂は400年間作り続けてまだ完成していない超大型建築だ。
完成している正面のファサードだけでも荘厳さが伝わってくる。
信長「上向いて見てると首が痛くなる」
オスマンのトプカプ宮殿では凄まじいタイル細工に目を見張った
「タイルを見ていると目が回るな」
「日本は東蛮じゃん」
その言葉を最後に信長の消息は知られていない。
追跡していた諜報員の監視を振り切ったのだ。
猛獣は死ぬ姿をヒトには見せない、という。
サファヴィー朝の軍監になったとか、ヴェネツィアの大富豪になったとか伝説は多数ある。
だが、いかにも信長らしい雲隠れな最期だったといえる。
信長の行方を見失った報はオーストリア幕府の明智光秀の元にももたらされた。
「振り返れば、嵐のような御仁であった」光秀はこう述懐している。
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「おー、これがピラミッドか」
消息を絶った信長は、エジプトのアレクサンドリアにいた。
「あー、ノッブだ!」
「サインください!」
あのキーミョウデールに拮抗したニポンジン!
彼は西欧で大人気の魔王的存在である。
ノブナガ来たるの報にアフリカ大陸は湧いた。
その後、西アフリカの中央にあるマリ王国に信長は注力した。
次回は1598年アフリカ(1/7)です。