1588年アルマダの戦い(1/8)前兆
奇妙寺はスペインの新大陸征服を許さなかった。
そのため、西欧は中世のまま近世を迎えた。
インカ征服で得られるはずだった莫大な銀の流入が西欧に価格革命を起こす、はずだった。
インド、マラッカ王国からの香辛料の世界貿易の構造が一変する、はずだった。
こちらも奇妙寺の戦略により、独占貿易も植民地化も起きなかった。
これらの経緯が商業革命のうねりとなり、欧州は近代化への道を歩む、はずだった。
相変わらず、封建社会が続き、カトリックの勢力は絶大で、商人は富まず、職人は薄給に苦しんでいた。
そんな中で、謎の産業・技術集団が暗躍していた、キーミョウデールだ。
鍛冶屋に密かに、水力ふいごの高炉技術を伝授し、鍛造と圧延の仕組みを教えた。
医療では抗生物質、ワクチン、麻酔・施術手技を伝えた。
商業では行商をやめ、定地化して会社を築き、簿記による取引管理を薦めた。
農業を機械化し、化学肥料を薦め、低温貯蔵の技術を渡した。
畜産は畜舎飼いと周年放牧の知識を与えた。
漁業では機帆船による沿岸+沖合漁業を教えた。
底曳き網漁、まき網漁、棒受け網漁など多彩である。
すべてが新しく改革され、生産力は上がり、発展は極大に達し、流通は経済は潤った。
だが相変わらず税は重く、伝統や慣習に縛られ、庶民は貧しいままだった。
「あんだけ儲けて、手元にはたったこれだけか」
「あんだけ働いて、手元にはたったこれだけか」
庶民、商人、職人の不満は高まっていった。
封建社会が生む貧富の差についての不満はもう抑えきれないところまで来ていた。
16世紀末、プロテスタント勢のイギリス・ネーデルランドとカトリック勢のスペインは拮抗していた。
1588年、両陣営は遂に激突、アルマダの戦いが始まる。
アルマダの戦いとは、スペイン無敵艦隊がイギリス女王拉致の為に遠征した一連の戦いの名称だ。
なぜスペインがイギリス遠征を決断したかは、ネーデルランドが大きく関わっていた。
ネーデルランドはスペイン領である。
正確にはスペイン・ハプスブルグ家の家領であった。
首都アムステルダムの由来は、アムステル川をせき止めたダムである。
13世紀に自由都市となり、14世紀に貿易で発達し、15世紀に海交易の中心地となった。
フェリペ2世の父親のカール5世は、このネーデルランドで生まれ育った。
ローマ法王でもあったカール5世は、ネーデルランドで急速に力をつけてきたプロテスタントを取り締まった。
プロテスタントはカトリックの貴族の教会関係の利権を脅かすものだった。
だが都市部の商人や工業産業の職人には歓迎され、少しずつ勢力を拡大していった。
さらにフランスからもカルヴァン派の流入があり、さらに事態は深刻化する。
1566年ついにカトリック教会を標的にした「うちこわし」が始まった。
1567年フェリペ2世は鎮圧部隊を派遣し、一時的に騒動は鎮静化する。
1568年プロテスタントは「海乞食軍団」を結成し、反抗を開始。
1572年26都市2州がプロテスタントの支配下となる。
1575年スペインは国家2度目の破産勧告をし、ネーデルランド支配軍への給料が滞った。
そのためスペイン兵は給料を現地で徴用(すなわち略奪)した。
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こういった紆余曲折が積み重なって、スペインからの独立の気運が高まっていたネーデルランド。
しかもイギリスは「同じプロテスタントだから」と、公然とネーデルランドに軍資金を送り続けていた。
「いや、私は慎重王、まだまだ、だ……」
フェリペ2世がブチ切れるまでにはまだ時間がある。
さらにイギリスは私掠船と称して、新大陸からのスペイン貨物船から、略奪を繰り返していた。
その名は「フランシス・ドレーク」、いわゆるカリブの海賊である。
「カリブは裏庭、我慢、我慢……ピクピク」
フェリペ2世がブチ切れるまでにはもうちょっと掛かる。
1586年1月、ドレイクはスペイン本土のビーゴ(Vigo)を襲撃した。
裏庭を荒らし回っていた賊が、とうとう母屋に手を出したのだ。
「ピーピロピロ、グギャゴゲオギャ(FAX開始音みたいな叫び声)」
フェリペ2世のブチ切れゲージはついに破裂した。
次会は1588年アルマダの戦い(2/8)発動です。