1586年天正大地震
1586年1月18日。
近畿、東海、北陸の広範囲に地震が見舞った。
ドゴゴゴゴッ。
「おまいら、お、おち、おちおち」と逍遙軒。
「おひおぇあへうぇ」と義信。
「ダイジョウブ、シンパイハイラナイヨ」と信親。
「ずる~い、空中に浮かぶのなしぃ」と信之。
「カーンカーン、緊急非常態勢」
駿河の製鉄所に非常態勢が敷かれた。
地震だからといって、高炉の火を止める事は出来なかった。
高炉の火を止めれば二度と復旧は出来ない。
冷えた鉄塊が高炉とともに固まって二度と使えなくなるからだ。
駿河は震度4であった。
製鉄所は無事だ。
尾張の国は震度8の大地震で全滅だった。
越後から飛騨、尾張にわたる広範囲に震度7の大地震だった。
四国の阿波でも地割れが観測された。
どうやら複数の地震が連続あるいは同時に発生したらしかった。
天正大地震である。
各地統制官は直ちに救援活動に入った。
日本の家屋はそのほとんどが平屋の木造建築である。
火事があちこちで発生し、延焼が始まった。
消防の無い時代であり、消火は破壊消防であった。
避難指示も穏便に行われた。だが穏便ゆえ誰も従わない。
殆どの住民は、指示そっちのけで、自分勝手に行動していた。
「おはしも」を忘れて大パニックである。
そこで沿岸地区は、古事からの伝承を利用して、避難指示を行なった。
「なまず(地震の主)は山には来ないぞぉ」
こうして足軽大将(与力)が率先して町人たちを高台に避難させた。
被災した町人や村人たちは、高台の神社や寺の広い境内に集まった。
これは3000坪の敷地を持つよう義務付けられた、大火の際の避難所(火除地)でもあった。
大火災による火災旋風対策として十分な広さがある設計になっている。
被災者に大火の際の非常食や飲料水やテント等が供出された。
ドゴゴゴゴッ、揺れ返しが続く。
武田軍は軍隊として十分な兵站を常に用意していた。
それを必要なだけ、出し惜しみせず、全部放出した。
ケガ人は総て武田軍野戦病院が各地に設けられて収容された。
各町内の療養所(現代の病院)もペチャンコに潰れていたからだ。
続々とケガ人が運び込まれ、トリアージ(治療優先度)に従って分類された。
これは現代の順序とは逆だ。軽い傷のものから治療する。
武田軍には奇妙寺の僧形医師団が従軍していた。その数5000人。
ちょうど25000人の兵隊に「戦場での止血と血管縫合」についての講義に来ていたのだ。
自動縫合器(自動吻合器)も、実地訓練のため、30000基用意されていた。
ニワトリのささみを二眼顕微鏡メガネで見ながら吻合する。
自動吻合器を挿入し吻合する訓練を終えて、器械を洗浄したところだったのだ。
抗生物質が間に合わず、サルファ剤を患者が真っ白になるまでぶっ掛けた。
高度な救命技術を持つ野戦病院だが、多数のケガ人の為に救い切れない命もある。
だが、今回の災害では病院内での感染症での死者は、ゼロであった。
これは当時ではすごい事だったのだ。
治療も空しく、3日後に死ぬケガ人が続出した。血栓や多臓器不全であった。
社寺には霊安所が用意され、そこに遺体が低温保存された。
街が再建されるにあたり、庶民の長屋などは安普請である事が求められた。
火災や地震を前提に、引き倒しが容易で倒壊の際の圧迫死から逃れる為だった。
また「武田防火帯法度」が発せられ、家屋の高さ分の路地幅(防火帯)を有する事が求められた。
これ以降、尾張国は地震に強い国となった。
津波到達地点には石碑が建てられ、「此処ヨリ下ニ家ヲ建テルナ」の碑文が刻まれた。
だが漁業関係者や港湾関係者らは「そうは言っても……」と住居の申請をした。
どうしても「ちょっと港見てくる!」が必要なのだった。
そう言う場合は救助ボッドや脱出球の設置が義務付けられた。
脱出球については<1531年信虎堤>を参照されたい。
万が一逃げ切れない場合は、脱出球に逃げ込み、救助を待つ。
脱出球には発信装置が付いており、1ヶ月の位置確認が可能だ。
尾張国は熱田の豪商と津島の湊町衆の財力を当てにしていた。
幸い紙幣制度と銀行の普及により、財貨の蓄積はなく、その流出も皆無であった。
紙幣と銀行については<1575年為替手形から紙幣へ>を参照されたい。
銀行に貯め込んだ資産を吐き出し、熱田と津島の復興が始まった。
後に中京都と呼ばれる一大都市の始まりであった。
次回はアルマダの戦い(1/8)前兆です。