1583年関ヶ原(4/4)
その時である。
音も無く、1発の爆弾が空を切り裂いて落下してきた。
燃料気化爆弾である。
燃料を爆発加圧沸騰させ、空気中に充満着火させて爆風と衝撃波で敵を倒す。
BLAVEという爆発的沸騰現象だ。
100m以内にいれば確実に内臓に被害が出る。
ビシンッ。
独特のイヤな爆発音とともに衝撃波と爆風が織田軍団を襲った。
ズゴゴオォ~ッ。
爆心地が真空になった為の吹き返しだ。
大気圧が異常昇圧する為、防護壁も塹壕も無意味だ。
曝露しているあらゆる人間の眼球や鼓膜や肺に襲いかかる。
即死を免れても失明や難聴や外傷性気胸を起こし、戦闘不能となる。
とくに外傷性気胸は胸痛を伴うが、戦傷に気を取られて、見過ごす事が多い。
これは緊張性気胸となり、のちに重篤な症状を引き起こす。
胸腔内に漏れ出た空気が肺臓を圧迫し心臓に血行不良を起こす。
また爆風に起因する内出血が、後日肝臓に出る場合はもっと深刻だ。
鈍的外傷は自覚症状も少ない、死に至る損傷だ。
上空を武田空軍戦略爆撃機「アサマ」が飛んでいた。
その爆弾倉にある回転式ランチャーがぐるりと回転する。
爆撃手、機長、副操縦士はみんな泣いていた。
武田最終指令602。フェイルセーフが発動したのだ。
部隊の3割が失われて全滅が確定した場合、開く事になっていた金庫。
その金庫が開けられ(ガチャッ)、固形樹脂が割られて(パキッ)、命令書が読まれた。
その結果、燃料気化爆弾が投下されたのだ。
最後まで「政治の最後の手段」に望みを託したが、それは崩れ去った。
ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガに日本を渡す訳にはいかなかった。
爆炎が消えると見渡す限り、織田軍団の兵士が倒れていた。
しばらくすると無事だった兵士も苦しみ始めた。
超巨大爆発による大気の不完全燃焼で、一酸化炭素中毒になったのだ。
バタバタと倒れ始めた。その数、死傷者3000人。
倒れなかった外傷のない者も、腹腔内多臓器損傷により、後日死亡する。
その数も3000人に及び、計6000人が犠牲者となった。
また上空に何かが光った。2発目だ。
ビシンッ。ズゴゴオォ~ッ。
また3000人が倒れた。
後日の犠牲者も含めれば、2発の爆弾で12000人が犠牲者になる。
織田軍団は降伏した、いや戦意を喪失した。
あまりに一方的すぎる、こんな事で死にたくない。
戦には武勇の誉れがあり、戦闘には勝ち負けがある。
それが積み上がって戦勝と敗戦が決まる。
駆け引きがあり、戦術がある。
よって戦争は政治の最後の手段と言われる。
だがこれは為す術のない虐殺であり、為すがままの処刑なのだった。
武田軍が出したのは奥の手であり、禁じ手であった。
最初にこれを使わなかったのは政治的理由である。
近隣国家の大名たちを納得させるための奥の手でもあった。
「使いたくありませんでしたが、最後の手段として使いました」という理由付けだ。
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この超巨大爆発に大谷吉継も巻き込まれていた。
息をしようにも一酸化炭素中毒に陥っていた。
一酸化炭素はカルボキシヘモグロビンを容易に形成する。
ヘモグロビンとの親和性は酸素の200倍だ。
組織への酸素運搬能の低下により、組織はあっという間に酸欠になる。
血中カルボキシヘモグロビンの半減期は常圧では300分である。
高気圧酸素治療により半減期は25分に短縮出来るが、戦場にそんなものはない。
大谷吉継という生体は死に始めた。
存分に戦って本望だ……。
よきかなよきかな……。
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信長は発狂せんばかりに憤怒していた。
「なんだと!敵将を葬ったのは儂だ」
「御館さま」
「なぜこの信長が負けねばならんのだ」
「御館さま!」
秀吉ももう掛ける言葉がない。
「もう誰も戦いません、負けたのです」
「うぐう」
「もう腹を決めなされ」
こうして2発の燃料気化爆弾で勝敗は決した。
武田軍団は多大な犠牲を払いつつも、信長と秀吉を退けたのだ。
勝ったのだろうか、負けなかったのだろうか?
反攻勢力に加担した島津、龍造寺、大友の他、九州の戦国大名の罪は重かった。
九州は7県に分割された。
島津家は鹿児島県に、龍造寺は佐賀県に、大友は福岡県に減封、転封された。
各国主の島津義弘、龍造寺隆信、大友義統は甲斐国預りとなり、東光寺に幽閉された。
武田軍司令官で、シン駿河幕府第一代征夷大将軍武田清信の葬儀は粛々と行われた。
副将軍の今川義元は次期征夷大将軍候補であったが、丁寧にお断りしていた。
この葬儀が終われば奥州仕置きが待ち構えている。
桶狭間の惨劇を考えれば、辞退はやむを得ぬ事だった。
戦後処理は、とある若い武将が担当した。
宿敵・秀吉の子飼いの部下ではあった。
だが事務処理と人事、管理は沈着冷静、天下一品である。
懐柔が効かないことでも有名だった。
彼の名は石田三成といった。
織田軍総帥と副総帥、司令官が引き据えられてきた。
信長と秀吉、信忠は本来なら極刑である。
だが外地オーストラリア領維持の為に必要な人材でもあるのだ。
他の誰も、海外で領地を維持する異能者は、いなかった。
石田三成は「国外追放がいいのでは」と意見具申した。
二度と日本の土は踏ませない。
「豪州の帝王」として一生を終えるのである。
「国外追放を命ず」臨時司令官逍遙軒は吐き捨てるように言った。
織田信長と羽柴秀吉とその一党を放逐した事で、九州、西日本、畿内、中部、関東は武田領となった。
特に九州は工業、産業に制限を規定し、厳重な監視下におかれた。
さらに島津は年二回の参勤交代を申し付けた。
残るは東北、奥州仕置きである。
信長が黙っていた事がひとつだけあった。
いや、3つか。
カールグリー、キドストン、コーバーの三鉱山。
オーストラリアには世界有数の金の大鉱床が眠っているのだ。
次回は1583年戦後です。