1583年京都通過
織田軍団は京都に近づいていた。
信繁軍はじわじわと退いていた。
勝てない戦は戦わないのが、武田の流儀である。
決定的な敗北も勝利も双方ともなかった。
神戸の地での戦も決定打ではありえない。
両軍とも規模が大きすぎた。
進軍と撤退に伴って占領地が生まれる。
堺の港は秀吉水軍の支配下となった。
吹田、茨木、高槻、山崎。
ゆっくりと、だが確実に織田軍は京都に迫った。
京都は阿鼻叫喚の大混乱であった。
着の身着のまま逃げ惑い、北へ南へ、アリみたいに逃げ出した。
応仁の乱から100年、ようやっと復興した京都。
その街を再び戦火が襲うのだ、また焼け野原である。
奈良へ小浜へ飛騨へ、人々は思い思いに逃げ出した。
織田軍団の侵攻の進路は、京都、次は大津、大津の次は尾張、三河、駿河であろう。
道筋に逃げ延びれば、戦争難民になる。
それだけはごめん被る。
京都はもぬけの殻になってしまった。
朝廷も甲斐に引っ越して甲斐朝廷となり、和尚も宮司もそれに伴って消えた。
空っ風が無人の烏丸通を吹き荒ぶ、こんな事があり得るのか……。
山寺の修行僧さえ1人も残っていない。
京都千年の歴史上かつてなかった事が起きていた。
もはや上洛など無意味である。
織田軍団は京都を素通りした。
信長が目指すのは駿河幕府打倒である。
京都の放火も、破壊も、略奪も無い。
そんなものは無意味だ。
興味なさそうに織田信長は京都の都を見た。
誰もいない無人の街だった。
「こんなものの為に戦国武将達は先を争って……」と信長。
織田軍団の文化保存部隊が、文化財の保存の為に社寺を巡ったが、本当に何もなかった。
もちろん清水寺や五重塔など建築物はそのままだが、当時は価値が分からない。
もぬけの殻の京都の街を、ゾロゾロ織田軍団が行軍する様は、なかなかシュールなものがあった。
だが後退する武田軍の絶対防衛圏が迫っていた。
織田信長を尾張国に入れてはならない。
西日本が陥落し、その上、中部地方を信長に渡してはならない。
毛利家か動かない、だが畿内や尾張は違う見方をしている。
様子を伺っているのだ。
畿内や尾張が全て織田信長のモノになったらどうなるか。
武田軍は東海まで押し戻されるだろう。
三河国、遠江国と押し戻されれば、駿河国だ。
駿河幕府が倒されれば、甲斐国も危ない。
日本統一は、薄氷の上を渡るような、危ういバランスで成り立っていたのだ。
京都から山科に入ると音羽山の山稜越しに武田側の野砲の砲撃が始まった。
それを予期していた織田軍団は街道を避け分散していた為、被害はない。
こちらからも反撃する。どっちもめくら撃ちのいやがらせである。
山科を通過すると大津に入る。
琵琶湖には草津港を拠点とする琵琶湖要塞水軍(武田淡水水軍)という厄介な存在がいる。
米原に向かって行軍する軍団と、水軍の艦砲射撃に反攻する軍団に分けてさっさと通過した。
織田信長も、武田清信も自然と主戦場が決まってきた。
天下分け目の合戦の地と言えば、ここしかなかった。
関ヶ原である。
次回は1583年関ヶ原(1/4)です。